第11話 ノクチルカ
レオが最初の星を紡いだあの日から、工房【ノクチルカ】の空気は一変した。昨日まで漂っていた不安と焦りは嘘のように消え去り、代わりに、健全な競争心と、仲間への信頼に満ちた、心地よい緊張感が工房を支配していた。
リリアと三人の職長たちが作り上げた『フォルクナー基準』は、絶大な効果を発揮していた。
若者たちは、互いに励まし合い、時には教え合いながら、驚異的な速度で技術を吸収していく。三人の職長たちも、ただ厳しく指導するだけではなく、若者たちの小さな成長を見つけては、母親のように、あるいは姉のように、心からの笑顔で褒め称えるようになっていた。
工房は、ようやく一つのチームとして、機能し始めた。歯車が、ゆっくりと、しかし確実に、噛み合い始めたのだ。
その日の午後、工房に俊とラッドとティア、そして『チーム・月長石』の四人が集められた。
俊は、工房の中央に広げられた一枚の巨大な羊皮紙の前に、全員を立たせた。それは、フィンが設計した、新店舗『ノクチルカ』の、完成予想図だった。
「……すごい」
誰からともなく、感嘆の声が漏れる。
木とガラスが見事に調和した、光溢れる店内。商品一つ一つが、まるで宝石のように輝いて見えるよう、緻密に計算された照明と陳列棚。それは、王都の誰もが見たことのない、未来の店の姿だった。
「この店は、二か月後にオープンする」
俊は、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。その言葉に、ラッドが興奮したように声を上げる。
「よし、聞いたな皆! この最高の舞台を、俺たちの最高の商品で埋め尽くすぞ! ショール一枚作るのに三日かかったとしても、工房の全員でやれば、開店までに五十枚は揃うはずだ!」
ラッドの檄に、若者たちが「おお!」と拳を突き上げる。しかし、俊は静かに首を横に振った。
「いや、ラッドさん。五十枚も作らない」
「はあ? 何言ってんだ、お前」
「この『星空のショール』は、その価値を最大限に高めるため、今後、ひと月に十枚しか作らない。そして、開店に並べる最初の十枚は、三人の職長と、リリア、君たち四人の手だけで仕上げてもらう」
俊の言葉に、工房の熱気は急速に冷め、全員が戸惑いの表情を浮かべた。
「どういうことだ、俊さん!?」
職長のマーサが、代表して問いかける。
「せっかく、ひよこたちがここまで育ってきたんだ。数を揃えるのが、今の私たちの仕事じゃないのかい?」
「ええ。ですが、マーサさん。このショールは、もはや単なる商品じゃない。フォルクナー商会の技術と物語の、最高傑作だ。その価値を、安売りするわけにはいかないんです」
俊は、マーケターの冷徹な目で、全員を見渡した。
「希少性は、それ自体が価値になる。新店舗の目玉として、『ひと月に十枚しか作れない、特別な技術で作られた魔法のショール』として売り出すんだ。そうすれば、その価値は何十倍にも跳ね上がる。これは、俺たちの新しい店の『顔』であり、『伝説』の始まりになるんです」
そのあまりに大胆な戦略に、誰もが息を呑む中、ぽつりと声が上がった。
「……コルネ亭の、スイートクッキーブレッドと一緒、だね!」
声の主は、ティアだった。
彼女は、俊が初めてコルネ亭で仕掛けた、数量限定販売の戦略を思い出し、その本質を今、完全に理解していたのだ。 俊は、その言葉に満足げに頷いた。
「その通りだ、ティア。売上の規模こそ違うが、狙いは一緒だ」
しかし、俊の計画は、それだけでは終わらなかった。
「だが、伝説だけでは腹は膨れない。年間売上四億リルという目標を達成するには、もっと多くの人々に、俺たちの魔法に触れてもらう必要がある。……そこで、君たち見習い職人には、別の、しかし同じくらい重要な仕事に挑戦してもらう」
俊は、二枚の新しいデザイン画を広げた。そこに描かれていたのは、ショールよりもずっと小さな、一枚のハンカチと、繊細なリボンだった。
「これは、『星屑のハンカチ』と『星詠みのリボン』だ。『星屑のハンカチ』は、ショールに使う星詠みの布ではないが、上質な木綿を使う。縫い付ける月長石も、少しだけ大粒で、扱いやすいものだ。そして、『星詠みのリボン』は、高価なショールには手が出せない若いお嬢様方でも、少し背伸びをすれば手に取れるようなリボンとして商品化する。デザインも、リリアがこのために新しく考案した、よりシンプルなものにする」
俊は、レオをはじめとする、若者たちの目を見つめた。
「君たちには、これら二つの商品の生産を任せる。もちろん、職長たちの厳しい品質管理のもとでだ。これらは、ショールよりもずっと手頃な価格で販売する。王都の誰もが、自分へのご褒美や、大切な人への贈り物として、気軽に手に取れるような、俺たちの魔法への『入り口』となる商品群だ」
三つの、全く違うコンセプトの商品。
一つは、ブランドの価値を極限まで高めるための、手の届かない『伝説』。残る二つは、より多くの人々に喜びを届け、商会の屋台骨を支えるための、身近な『魔法』。
その完璧に計算された三段構えの戦略に、ラッドも、カスパールも、そして工房の全員が、ただただ圧倒されていた。
「……すげえな」ラッドが、呆然と呟いた。「お前は、この工房ができた時から、すでにここまで考えていたのか」
「ええ。最高の素材と、最高の職人が揃ったんです。最高の『仕掛け』を用意するのは、俺の仕事ですから」
俊は、静かに頷いた。
その日から、工房【ノクチルカ】は、二つのチームに分かれて動き出した。リリアと三人の職長たちは、たった十枚の完璧な『星空のショール』を生み出すため、神聖なほどの集中力で作業に没頭する。
一方、フィンと若者たちは、『星屑のハンカチ』と『星詠みのリボン』の量産という、新たな挑戦に燃えていた。フィンは、ハンカチとリボンの生産効率を上げるための、さらに新しい道具の開発にも取り掛かっている。
工房は、いつしか、フォルクナー商会で最も創造的で、そして最も戦略的な、未来を生み出す心臓部となっていた。壁に掛けられた『再建への道標』に、また一つ、力強い若葉の印が貼り付けられるのだった。
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