第10話 フィンと父と鎧蜘蛛の糸
彼は、職人だった。その目が、まず捉えたのは、元の意匠を尊重しつつ、新たな生命を宿して生まれ変わった、見事な彫刻の技術。
次に、二十年という歳月が生み出した、陽光樹の深い色合いと、修復に使われた新しい木材との、絶妙な調和。そして最後に、傷跡を隠すのではなく、むしろその歴史を誇るかのように施された、斬-新で、美しい嵌木細工。
ゲルトは、無言でそれを受け取ると、長年使い込まれた指先で、まるで獲物を検分するように、ゆっくりとその表面を撫ぜた。
傷を隠すのではなく、あえて違う木材で埋め、その境目を装飾する。伝統的な技法にはない、あまりに大胆で、挑戦的な仕事だった。
「……馬鹿げたことを」
長い沈黙の後、ゲルトはそう吐き捨てた。しかし、その声には以前のような冷たさではなく、困惑と、そして隠しきれない感嘆の色が滲んでいた。
「傷は、職人の恥だ。それを、こんな風に飾り立てるとは……。一体、誰に教わった」
「誰にも教わっちゃいない」
フィンは、初めて父の目をまっすぐに見つめ返した。
「これは、俺たちの答えだ。二十年前に、この椅子が壊れたという歴史は消せない。だから、その歴史ごと、俺たちは尊敬することにした。傷は、恥じゃない。この椅子が、もう一度立ち上がるために流した、血の跡なんだ」
ゲルトは、何も言えなかった。ただ、息子の目を見つめ、そして、その手に持つ、奇跡のように蘇った椅子の脚を、何度も見比べている。
伝統という鎧で自分を守り続けてきた男の、その固い甲冑が、音を立てて崩れていく。
やがて、はあっと大きくため息を吐き、やがてゲルトは絞り出すように、呟いた。
「……その椅子の脚を持っているということは、何があったのか、お前はもう知っているんだろう……二十年前、俺は驕っていた。自分の才能だけを信じ、仲間の忠告にも耳を貸さなかった。……その結果が、あのザマだ。口先のうまい商人に乗せられた俺が愚かだった。結果として客を裏切り、誰の助けも得られず、全てを失った」
ゲルトはそれだけを言うと、背を向けて工房の奥へと消えていった。
後を追ったフィンたちの目に飛び込んできたのは、工房の奥の棚から、埃をかぶった木箱を降ろす、父の後ろ姿だった。箱の中には、銀色に輝く、最高品質の『鎧蜘蛛の糸』が、静かに眠っていた。
「……お前たちのやっていることが、本物の仕事かどうかは、まだ分からん。だが……」
ゲルトは、その木箱を、フィンの前に置いた。
「お前が、俺と同じ過ちを犯さないというのなら……。お前たちの『答え』の続きを、この目で見届けてやるのも、悪くないかもしれん。……さっさと持っていけ」
「……ああ」
フィンは、短く応えると、仲間たちと共に、工房を後にした。もう、振り返ることはなかった。
父の想いも、二十年の歴史も、全てこの腕に受け止めて、未来へと進むために。
父、ゲルトの工房を後にしたフィンたちの足取りは、来た時とは比べ物にならないほど、軽く、そして力強かった。工房に戻ると、フィンは仲間たちに、父から託された最高品質の『鎧蜘蛛の糸』を、誇らしげに見せた。
工房の重苦しい空気は、完全に消え去っていた。そこには、一つの大きな壁を乗り越えた者たちだけが持つ、温かい信頼と、未来への確かな希望が満ちている。
「よし、やろう」
リーダーであるルーカスが、チームの顔を一人一人見渡した。
「僕たちの『答え』を、最高の形で世に送り出すんだ」
その日から、『チーム・月長石』の工房は、再び神聖なほどの集中力に満たされた。潤沢な『鎧蜘蛛の糸』を得て、リリアが描いたデザインを布の上に再現していく、製品版の制作が本格的に始まったのだ。
フィンが自ら作り上げた特殊な道具を使い、リリアが描いた星々の配置図通りに、月長石の粒子を、一粒、また一粒と、繊細な絹織物の上に縫い付けていく。それは、気の遠くなるような、精密さと根気を要求される作業だった。
そして、三日後。ついに、『星空のショール』の、完璧な完成品第一号が、その姿を現した。
工房に集まった九人の前に、リリアがそっと一枚のショールを広げる。
「……できた」
誰からともなく、ため息のような声が漏れる。試作品の時とは違う。これは、フォルクナー商会の未来を担う、最初の『商品』だ。
「リリア、工房のランプを、一つだけ残してくれ」
俊の静かな指示に、リリアはこくりと頷いた。部屋が薄暗くなった、その瞬間。
誰もが、固唾を飲んでショールを見つめた。試作品の時の感動が、再現できるのか。あの魔法は、まぐれではなかったのか。
それまでただの美しいショールだった布の上に、まるで本物の星々が、一つ、また一つと瞬き始めた。フィンが開発し、チームで完成させた技術は、寸分の狂いもなく、完璧に再現されていた。
フィンは、自らの「答え」が形になったのを、固く拳を握りしめて見つめている。ルーカスも、リリアも、エラも、その顔には達成感と、隠しきれない喜びが浮かんでいた。
「……でかしたぞ、お前ら!」
ラッドが、その場の全員の想いを代弁するように、満面の笑みで叫んだ。
俊は、その光景に静かに頷くと、壁に掛けられた『再建への道標』を指さした。
「ああ。これで、俺たちの船には、年間売上四億リルという宝島へ向かうための、最強の『大砲』が備わったわけだ」
彼は、チーム全員に向き直った。
「感傷に浸るのはここまでだ。これは、まだ始まりの一歩に過ぎない。この魔法を、俺たちはこれから、お客様の元へ届けなければならない。……工房をフル稼働させるぞ。新店舗の開店は、もうすぐだ」
その言葉に、若者たちの顔が再び引き締まった。
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