第10話 フィンと父と鎧蜘蛛の糸
老彫金師は、フィンを店の奥にある、小さな作業場へと招き入れた。壁には、使い込まれた工具が所狭しと並び、金属と油の匂いが、この場所の長い歴史を物語っている。
彼は、年季の入った椅子にどかりと腰を下ろすと、まるで自分自身に言い聞かせるように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……あれは、もう二十年以上も前の話だ」
老人の声は、低く、そして重かった。
「あんたの親父さん、ゲルトはな、今じゃ頑固一徹の爺さんだが、若い頃は、そりゃあもう、とんでもない天才だった。伝統的な技術は誰よりも深く理解しながら、それに飽き足らず、いつも新しいデザイン、新しい素材を試していた。俺たち職人仲間は、眩しいものを見るような目で、あいつの背中を見ていたもんさ」
そんなゲルトの元に、一人の商人が現れた。新進気鋭の商人ギルドに所属する、口の上手い男だった。彼は、ゲルトの才能に惚れ込み、二人で王都の度肝を抜くような、革新的な家具を作ろうと持ち掛けた。
「そして、舞い込んできたのが、時の権力者、グランビル伯爵からの、書斎の家具一式の制作依頼だった。ゲルトの才能と、商人のコネクションが結びついた、最高の仕事だった。俺も、その家具に使う金属の飾りを作るのを手伝った。……あの頃は、楽しかった。俺たちは、自分たちの手で、王都の歴史を作るんだと、本気で信じていた」
しかし、悲劇の歯車は、静かに回り始めていた。その商人は、利益を優先するあまり、ゲルトが指定したものよりも安価で質の悪い木材や、強度の足りない接着剤を、ギルドの一部の役人と結託して、ゲルトに内緒で工房に納入し始めたのだ。
「ゲルトは、すぐに異変に気づいた。『この木材は、見た目はいいが、中がスカスカだ。これでは、百年先まで残る仕事はできん』と、何度も商人に抗議した。だが、その度に商人は、ギルドが発行した『品質保証書』を盾に、ゲルトを言いくるめたんだ。『ギルドが保証しているんだから、問題ない』とな」
そして、運命の日が訪れる。完成した家具が、グランビル伯爵の屋敷に納品された、その数日後。
伯爵が主催した夜会の席で、自慢の新しい書斎を客人に披露しようとした、まさにその時だった。伯爵が、主賓を案内し、自慢の書斎の椅子に腰を下ろしてみせた、その瞬間。
椅子は、その重みに耐えきれず、目の前で無様に崩れ落ちたのだ。
「幸い、伯爵に怪我はなかったが、彼は激怒した。ゲルトの工房は、多額の賠償金を請求され、職人としての信頼を、一夜にして全て失った。……そして、あの商人は全ての責任をゲルト一人に押し付け、姿を消した」
商人は、金を持ってどこかへ消えた。残されたのは、莫大な借金と、「客を裏切った職人」という、拭い去ることのできない汚名だけだった。
「俺たち職人仲間も、最初はゲルトを庇おうとした。だが、ギルドの腐った連中から脅されたのさ。『ゲルトの味方をする者は、この王都で二度と仕事ができなくしてやる』と。……俺たちは、怖かった。家族を、自分の工房を守るために、仲間を見捨てるしかなかったんだ……」
老人は、そこで一度言葉を切ると、深く、皺の刻まれたため息をついた。
「そのギルドの腐った連中の中心にいたのが、誰あろう、あんたたちの商会で捕まった、あのバルテルスという男だったのさ。あいつは、二十年前からギルドの一部を牛耳り、俺たちのような弱い職人を食い物にしてきた。あんたたちがバルテルスを暴いてくれたおかげで、今のギルドはすっかり綺麗になった。腐った連中は一掃されたんだ」
老人は、皮肉な笑みを浮かべた。
「だから、俺たちが今も口を閉ざしてるのは、もう脅されてるからじゃねえ。……情けねえ話だが、罪悪感だよ。俺たちは、仲間を見殺しにした。あいつの誇りがズタズタにされるのを、ただ見ていることしかできなかった。思い出したくもねえ、恥ずべき過去なんだ」
老人の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、二十年以上も胸に秘めてきた、深い、深い後悔の涙だった。
「……ゲルトは、それから人が変わっちまった。誰のことも信じなくなり、『新しいもの』や『口先のうまい商人』を、心の底から憎むようになった。自分の才能が、誠実さのない商売に利用され、客を裏切り、そして仲間からも見捨てられた。……あいつが、どれほどの絶望を味わったか、あんたに分かるか」
全てを語り終えた老人は、工房の奥にある、埃をかぶった桐の箱を、ゆっくりと運んできた。蓋を開けると、中から現れたのは、無残に折れた、しかし見事な彫刻が施された一本の椅子の脚だった。
「これは、あの事件で伯爵家から叩き返されてきた、呪われた椅子の残骸だ。ゲルトのやつが、絶望のあまり燃やしてしまおうとしていたのを、俺が無理やり取り上げて、ずっと隠し持っていた。俺たち職人街全体の、戒めとしてな」
老人は、その椅子の脚を、フィンの前にそっと置いた。それは、ゲルトの砕かれた誇りの、そして、職人たちの拭いきれない罪悪感の、物理的な証だった。
「……お前が、どうするか決めろ」
老人は、そう言うと、顔を背けた。
フィンは、震える手で、そのあまりに重い歴史が刻まれた椅子の脚を、そっと持ち上げた。父の絶望と、職人たちの後悔。その全てが、ずしりと彼の腕にのしかかってくるようだった。
フィンは、震える手で、そのあまりに重い歴史が刻まれた椅子の脚を工房に持ち帰った。彼の顔は青ざめ、その瞳は、まるで遠い過去の絶望を映しているかのように、虚ろだった。
工房で待っていた仲間たちは、フィンから渡された呪われた椅子の脚と、老彫金師から語られた二十年前の事件の真相に、言葉を失った。
「そんな……。じゃあ、親父さんが頑固になったのは……」
「仲間からも、見捨てられて……」
ルーカスとリリアは、ゲルトが背負ってきたものの重さに、胸を締め付けられる。
「……私、なんてことを……」
エラは、自分の発言を恥じ、顔を真っ赤にして俯いていた。
「フィンさんの、お父さんの気持ちも知らないで……!」
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
工房は、重い沈黙に包まれた。しかし、その沈黙は、もはや絶望の色ではなかった。
本当の敵の正体を知り、その敵の、あまりに悲しい素顔に触れた彼らの心には、今、一つの共通の想いが芽生え始めていた。
(……救いたい)
フィンの父親を、過去の呪縛から。そして、彼のような誠実な職人が、二度と裏切られることのない、新しい商売の形を、この手で作り上げなければならない。
四つの若い魂が、本当の意味で一つになった瞬間だった。彼らは、顔を見合わせると、力強く頷き合い、そして、静かにその様子を見守っていた俊とティアの元へと向かった。
商会長室の扉を開けたフィンの顔には、もう迷いの色はなかった。彼は、これまでの経緯と、老彫金師から語られた事件の真相を、一言一句、正確に俊に報告した。
「……あの彫金師の親方から聞かされた話は、俺たちの想像を、遥かに超えるものでした。二十年前、親父を裏切った商人の背後で糸を引いていたのは、商業ギルドの腐敗した派閥……そして、その中心にいたのが、誰あろう……この商会が捕まえた、あのバルテルスだったそうです」
その名前を聞いた俊は、目を閉じ、何かを考えるように、しばらくの間、沈黙した。やがて、ゆっくりと目を開けると、その瞳には、全てを理解したかのような、冷徹な光が宿っていた。
「……そうか。こんなところで、またその名前を聞くことになるとはな」
その呟きは、誰に言うともなく、しかし部屋の空気を震わせるほどの重みを持っていた。俊は、静かに立ち上がると、フィンたちの前に置かれた、呪われた椅子の脚に視線を落とした。
「……それで、お前たちはどうしたい? その椅子の脚を、どうするつもりだ?」
俊は、命令をしなかった。ただ、静かに、彼ら自身の答えを待っていた。
その問いに、最初に答えたのはルーカスだった。
「僕たちは……これを、修復したいです。僕たちの、手で」
「ただ直すだけじゃない」とリリアが続く。
「この椅子が背負ってきた、二十年分の悲しみを、私たちが希望に変えたいんです」
「もう、フィンさんを一人にはしない。フィンさんのお父さんの誇りを、今度は私たちが取り戻す番だよ!」
エラの声も、もう震えてはいなかった。
そして最後に、フィンが、俊の目をまっすぐに見つめ返した。
「……俊さん。俺に、時間をください。最高の素材と、最高の仲間は、もうここにいる。俺自身の『仕事』で、俺たちの『答え』を、この椅子に刻み込みたい。そして、完成したそれを、もう一度、親父に見せに行く。今度こそ、本当の意味で、親父と向き合うために」
その瞳には、もはや気弱な青年の面影はない。父の過去を受け止め、仲間と共に未来を切り拓こうとする、一人の職人の顔が、そこにあった。
俊は、その答えに、深く、満足げに頷いた。
「……分かった。工房も、材料も、好きなだけ使え。ただし、一つだけお願いがある」
「お願い、ですか?」
「ああ。お前たちの『答え』が完成したら、まず俺に見せてほしい。特別監査役として、お前たちの仕事を客観的に判断する必要があるからだ。……だが、それだけじゃない。個人的にも、お前たちの『答え』を、誰よりも早く見たいんだ」
その言葉には、厳しい監査役としての顔と、仲間としての温かい顔、その両方が滲んでいた。
「「「はい!」」」
四つの若い声が、力強く、商会長室に響き渡った。
老彫金師の工房の片隅で、二十年以上も眠っていた、呪われた椅子の脚。その修復は、もはや単なる作業ではない。
過去の絶望に、未来の希望で立ち向かう、若き才能たちの、誇りを賭けた戦いの始まりだった。
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