第10話 フィンと父と鎧蜘蛛の糸
新店舗の建設が始まり、季節が再び巡ろうとしていた。
王都の新興地区に響き渡る槌音は、日に日に力強さを増し、道行く人々の注目を集めている。それは、フォルクナー商会が生まれ変わる、まさにその産声のようだった。
しかし、その熱狂とは裏腹に、商会本部に急ごしらえされた『チーム・月長石』の工房には、重い沈黙が垂れ込めていた。プロジェクトが順調に進む中、一つの、そして最大の壁が彼らの前に立ちはだかったのだ。
『鎧蜘蛛』の糸。
月長石を繊細な絹織物に縫い付けるための、唯一無二の素材。その在庫が、ついに底をついてしまったのだ。
「……親父に、もう一度頼んでみたんだが」
工房の重い空気の中、フィンが悔しそうに切り出した。
「『伝統的な家具作りに使わん素材は、うちにはない。そんな遊び事に使う糸があるなら、工房の薪にでもした方がましだ』と……取り付く島もなかった」
フィンの父親であるゲルトは、頑固一徹な昔気質の職人だ。息子が商会で始めた新しい試みを、まだ認めてはいないのだ。
「そんな……! この糸がなければ、私たちの『魔法の布』は作れないのに……!」
リリアが、悲痛な声を上げる。
工房は、絶望的な沈黙に包まれた。せっかく掴みかけた未来への光が、たった一本の糸によって、断ち切られようとしている。
その日の午後、フィンは一人、王都の職人街にある、父の工房の前に立っていた。
ルーカスに「言葉ではなく、僕たちがこのショールに込めた想いそのものを見せに行くべきだ」と背中を押されたのだ。
意を決して扉を開けると、そこには、黙々とノミを振るう、厳格な父の背中があった。フィンは、何も言わずに持参した桐の箱を作業台の上に置くと、父に工房の明かりを消すよう頼んだ。
そして、闇の中でショールが星々のように輝き始めた時、父は確かに息を呑んだ。
しかし、その口から出た言葉は、フィンが期待していたものとは全く違っていた。
「……くだらん奇術だ」
父は、冷たく言い放った。
「見た目が美しいだけの、中身のない張りぼてだ。そんなものが、百年先まで残る本物の仕事だとでも言うのか」
その言葉は、フィンの心を容赦なく抉った。父は、息子の仕事を認めるどころか、自らが人生を捧げてきた「本物の仕事」への侮辱とさえ感じていたのだ。
「……分かった。もう、頼ない」
フィンは、ショールを箱にしまい、逃げるように工房を飛び出した。
工房に戻ったフィンの顔は、絶望に色を失っていた。
「……だめだった。親父は、俺たちの仕事を、ただの遊びだと……」
その言葉に、リリアとルーカスも俯いてしまう。しかし、その沈黙を破ったのは、元酒場の看板娘、エラだった。
「……たった一度で、諦めるの?」
その声には、苛立ちの色が滲んでいた。
「フィンさんは、それでいいかもしれないけど、私たちは違う! このプロジェクトに、私たちの人生を賭けているんだよ! 親子喧嘩に付き合っている暇なんてないんだ!」
「なんだと!?」
フィンが、激昂して立ち上がる。
「お前に、親父の何が分かる! あの人は、ただの頑固者じゃない! 誰よりも、仕事に誇りを持っているんだ!」
「その誇りが、私たちの邪魔をしてるって言っているの!」
二人の間に、険悪な空気が流れる。ルーカスとリリアは、ただおろおろと二人を見つめるだけだった。
初めて掴んだ希望。それが打ち砕かれたことで、チームの絆に、初めて亀裂が走った瞬間だった。
その時、工房の扉が開き、俊とティアが入ってきた。彼らは、フィンの報告を、そしてこの一部始終を、静かに待っていたのだ。
「……面白い展開になってきたな」
全てを察した俊は、不敵な笑みを浮かべた。
「お前たちのプレゼンは、見事に失敗した。なぜだか分かるか? フィンの親父さんという『顧客』が、何を求めているのか、その本質を、誰一人として理解していないからだ」
俊の冷徹な言葉に、四人ははっと息を呑む。
「エラの言う通り、これはただの親子喧去じゃない。だが、フィンの言う通り、彼の親父さんはただの頑固者でもない。彼がなぜ、あれほどまでに『新しいもの』や『美しいだけのもの』を憎むのか。その理由を、お前たちは知ろうとすらしていない。……それが、お前たちの敗因だ」
俊は、チーム全員の顔を見渡した。
「お前たちに、新しい市場調査を命じる。だが、調べるのは商品じゃない。フィンの親父さん……職人、ゲルトの過去だ。彼が若い頃、どんな仕事をして、どんな夢を見て、そして、何に絶望したのか。職人街の古株たちに頭を下げてでも、聞き出してこい」
それは、あまりに異質な命令だった。しかし、その言葉には、誰も逆らうことのできない、絶対的な確信がこもっていた。
「俺たちは、まだ本当の敵が誰なのかすら、分かっていないんだ。……敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、だろ?」
俊の言葉に、四人は顔を見合わせた。彼らの目には、まだ戸惑いの色が残っていたが、同時に、この困難な課題の先に、本当の答えがあるのかもしれないという、かすかな光が灯っていた。
***
俊から「職人、ゲルトの過去を調査せよ」という、異例の指令を受けてから数日が過ぎた。工房の空気は、まだどこかぎこちない。フィンとエラの間に生まれた亀裂は、まだ完全には癒えていなかった。
彼らは、戸惑いながらも、四人一組で王都の職人街へと足を運んでいた。
しかし、調査は難航を極めた。ゲルトを知る古株の職人たちは、皆、一様に口が重い。
「ゲルトの旦那のことかい? ……あの人は、昔から頑固一徹でねぇ。他人が口を出すのを、何よりも嫌うお人だよ」
皆、そう言って、どこか遠い目をするだけだった。
聞き込みは成果なく、日も暮れかかった頃。徒労感に包まれた四人が、最後に訪れたのは、引退した彫金師が営む小さな店だった。
老人から、これまでと同じような答えを聞かされ、四人が諦めて店を出ようとした、その時だった。
「……まあ、ゲルトも、あの事件さえなければ、今頃は王国一の家具職人になっていただろうに」
老人が、まるで独り言のように、ぽつりと呟いた。
その言葉に、四人は弾かれたように振り返った。
「あの事件……!?」
エラが、食いつくように尋ねる。
「詳しく教えてください!」
しかし、老人はしまったという顔をすると、頑なに口を閉ざした。
「……お前さんたちが知るような話じゃねえ。もう帰んな」
老人は、にべもなくそう言うと、店の奥へと引っ込んでしまった。
工房に戻った後も、チームの空気は重かった。初めて掴んだ手がかり。しかし、その扉は固く閉ざされたままだ。
「どうするの、もう……!」
エラが、悔しそうにテーブルを叩く。
その日の報告を静かに聞いていた俊は、おもむろに口を開いた。
「……いや、大きな進歩だ。その彫金師こそが、俺たちが探している、全ての答えを知る人物だろう」
「でも、あの様子じゃ、もう何も話してくれませんよ!」
「ああ。だから、やり方を変える」
俊は、フィンをまっすぐに見つめた。
「フィン。これは、お前の問題だ。明日、お前が一人で行け。フォルクナー商会の人間としてじゃない。ゲルトの息子として、だ」
その言葉に、フィンはごくりと喉を鳴らし、そして、覚悟を決めたように、強く頷いた。
翌日、フィンは一人、あの引退した彫金師が営む、小さな装飾品の店を訪れていた。他の三人は、心配そうに、しかし彼の決意を尊重し、工房で待っていた。
「……なんだ、あんたは昨日の」
老人は、ぶっきらぼうに迎えた。
フィンは、深く、深く頭を下げた。
「……昨日は、大勢で押しかけ、失礼いたしました。今日は、フォルかナー商会の者としてではありません。ゲルトの息子、フィンとして、お話があって参りました」
その言葉に、老人の目が、ほんのわずかに見開かれた。
彼は、手元の工具を置くと、初めて、フィンという青年を、まっすぐに見た。その瞳の奥に、かつての友人の面影が、確かに宿っている。
老人は、長い、長い沈黙の後、重いため息をついた。
「……そうか。お前さんが、ゲルトの……」
老人は、しばらくの間、遠い目をして何かを思い出していたが、やがて、意を決したように、重い口を開いた。
「……分かった。中に入れ。立ち話もなんだろう。……お前さんになら、話さなければならんかもしれんな。あの男が何を奪われ、何に絶望したのか、その全ての始まりとなった、事件の話を」
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