第9話 新生・フォルクナー商会
地獄のマナー講習が終わりを告げた、その日の夜。フォルクナー商会の商会長室は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
中央のテーブルには、ラッドが手に入れた新店舗の土地の図面が広げられている。その周りを、ラッド、俊、ティア、カスパール、マルコ、そして一か月の特訓を乗り越えたルーカス、リリア、フィン、エラの九人が、真剣な眼差しで囲んでいた。
「さて、皆。今日でひよこの期間は終わりだ」
俊は、その場の空気を引き締めるように、静かに切り出した。
「明日から、君たちにはフォルクナー商会の未来を担う、第二の創業メンバーとして、それぞれの戦場で戦ってもらう」
俊は、まずルーカスに向き直った。
「ルーカス。君は引き続き、『チーム・月長石』の責任者として、新商品の開発を率いてもらう。だが、これからは工房に籠るだけじゃない。完成した商品を手に、自らお客様にその価値を語る、プロジェクトの『顔』になってもらうんだ」
「は、はい!」
ルーカスは、まだ少し声が上ずるものの、まっすぐに俊の目を見て頷いた。
次に、俊はリリアとエラに視線を移した。
「リリア。君には、そのデザインの才能を活かして、月長石を使った布製品のチーフデザイナーを任せる。エラ、君には、その太陽のような笑顔と身につけた品格で、新店舗のフロアマネージャーとして、お客様を迎える最高の空間を作ってもらいたい」
「はい!」
「お任せください!」
二人の瞳は、これから始まる新たな挑戦への期待に、きらきらと輝いていた。
そして最後に、俊はフィンを見た。
「フィン。君には、この新しい店の、心臓部とも言える重要な役割を……」
俊が言いかけた、まさにその時だった。ラッドが、これ以上ないほど得意げな、そして少し自慢げな顔で、パンと手を叩いた。
「そうだ、新店舗といえばな! 皆に良い知らせがあるぞ!」
彼は、俊が話を続けようとしているのに気づかないほど、興奮していた。
「内装のことだが、もう王都で一番と評判の建築家に声をかけてある! 最高の店を作るには、最高の職人が必要だからな!」
その言葉は、ラッドなりの善意であり、商会長としてのリーダーシップの発揮のつもりだった。しかし、その一言は、それまで期待に目を輝かせていたフィンの顔から、すっと光を奪った。
ほんのわずかに、悔しそうに唇を噛むその姿を、俊は見逃さなかった。
「ラッドさん、素晴らしい手配ですね。ですが、その建築家と話を進める前に、一人だけ、どうしても聞いておきたい意見があるんです」
俊は、ラッドの貢献を認めつつ、穏やかに、しかしきっぱりとした口調で話を制した。そして、フィンに、まっすぐな目を向けた。
「フィン。君なら、どんな店を建てる?」
突然の問いに、フィンは驚いたように顔を上げた。彼はしばらく逡巡した後、意を決したように、テーブルに広げられた図面の隅に、懐から取り出した小さな木炭で、サラサラとスケッチを描き始めた。
それは、誰も見たことのない、斬新な店の内装だった。
伝統的な木組みの温かみを活かしながらも、壁の一部にはめ込まれたガラスや、異国の珍しい木材を使った曲線的な陳列棚が、見事な調和を生み出している。
そして何より、全ての設計が、商品を最も美しく見せ、お客様が心地よく過ごせるように、緻密に計算され尽くしていた。
「……これは」
ラッドが、息を呑む。
俊が「なぜ、このデザインを?」と問うと、フィンは初めて、自らの過去を、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……親父は、古き良き伝統を重んじる、素晴らしい職人です。ですが、俺は……俺は、その伝統を守るだけじゃなく、新しいものと組み合わせることで、もっと素晴らしいものが作れると、ずっと思っていました。この店の内装は、ただ商品を並べるためのものじゃない。フォルクナー商会が扱う、様々な国の素晴らしい品々が、互いの良さを引き立て合い、一つの物語を奏でるための『舞台』であるべきだと……そう、思ったんです」
その言葉には、これまで彼が胸の内に秘めてきた、仕事への情熱と、誰にも理解されなかった葛藤が、溢れるほどに込められていた。
長い沈黙の後、ラッドは深く、深く頭を下げた。
「……悪かった、フィン。俺は、お前の才能に気づいていなかった」
ラッドは、高名な建築家への依頼書を、その場で破り捨てた。
「この店の内装は、お前に任せる。お前の好きなように、最高の『舞台』を作ってくれ」
「……! はい!」
フィンは、驚きと、そしてこみ上げる感動に、声を震わせながら、力強く頷いた。
こうして、フォルクナー商会の未来を象徴する新店舗の建設は、誰あろう、商会が生み出した新しい才能の手に、その全てが委ねられることになった。
そして、新店舗の建設が始まってから、季節が再び巡るころ、王都の新興地区に響き渡る槌音は、日に日に力強さを増し、道行く人々の注目を集めていた。それは、フォルクナー商会が生まれ変わる、まさにその産声のようだった。
その日の午後、ラッドは少しだけ不安そうな顔で、建設現場を訪れた。隣には、全てを予見していたかのように、落ち着き払った俊の姿がある。
「なあ、俊。お前の目から見て、フィンの仕事はどうだ? 俺は最高の舞台になるって信じているがな」
ラッドは、どこか誇らしげな、しかし真剣な眼差しで問いかけた。その視線の先では、家具職人の息子、フィンが、年上の職人たちを相手に、堂々と指示を飛ばしていた。
「そこの梁の角度、図面より半寸だけ浅くしてください! その方が、夕暮れ時の光が、奥の壁まで柔らかく届きます!」
その声には、もはや以前のような気弱さはない。現場の誰よりも木材を熟知し、完成図を完璧に頭の中に描いている者だけが持つ、絶対的な自信に満-ち溢れていた。
最初は半信半疑だったベテランの職人たちも、今ではフィンの才能に心酔し、その指示に寸分の狂いもなく従っている。
「……すげえな、あいつ」
ラッドは、呆気にとられたように呟いた。
「ただの内装設計だけじゃない。現場の職人たちの心まで、完全に掴んでやがる」
「ええ」と俊は頷いた。
「彼に必要だったのは、ほんの少しの『自信』と、その才能を信じてくれる『仲間』だけだったんですよ」
その槌音は、商会本部に急ごしらえされた工房にまで、心地よいBGMのように届いていた。
工房の中では、『チーム・月長石』の若き才能たちが、それぞれの武器を手に、新たな挑戦に没頭している。
「このショールの留め具、ただの金属じゃなくて、フィンの作る木製の細工と組み合わせられないかしら? そうすれば、ショール全体に統一感が生まれると思うの」
チーフデザイナーのリリアが、美しいスケッチを広げながら提案する。
「それ、素敵です! お客様は、そういう細やかさに心惹かれるんですよ!」
フロアマネージャーのエラが、瞳を輝かせながら賛同した。
「……フィンさんなら、きっと最高の留め具を作ってくれるはずだ」
プロジェクトリーダーのルーカスが、力強く頷く。彼の言葉には、フィンの技術への絶対的な信頼がこもっていた。
彼らはもう、指示を待つだけの新人ではない。それぞれの専門分野で、自らの意見をぶつけ合い、一つの目標に向かって走り出す、本当のチームになっていた。
その輪の中心で、ティアは皆にコルネ亭の焼き菓子を配りながら、その議論を温かい笑顔で見守っている。
そして、数週間後。ついに、『月長石』を使った最初の試作品が完成した。
工房に集まった九人の前に、リリアがそっと一枚のショールを広げる。それは、夜空の色を映したような、深く、美しい藍色の絹織物だった。
「……綺麗だ」
誰からともなく、ため息が漏れる。
「リリア、工房のランプを、一つだけ残して消してくれ」
俊の静かな指示に、リリアはこくりと頷いた。
部屋が薄暗くなった、その瞬間。誰もが、息を呑んだ。
それまでただの美しいショールだった布の上に、まるで本物の星々が、一つ、また一つと瞬き始めたのだ。フィンが開発した特殊な技術で縫い付けられた月長石の粒子が、わずかな光を捉え、幻想的な輝きを放っている。
「すごい……! 本当に、星空をまとっているみたい……!」
ティアが、感極まったように声を上げる。
それは、ただの装飾品ではなかった。人の心を、物語の世界へと誘う、魔法そのものだった。
ラッドは、その幻想的な輝きから目を離せずにいた。そして、この輝きこそが、フォルクナー商会の未来を照らす光なのだと、強く、確信した。
俊は、壁に掛けられた『再建への道標』に目をやった。か細かった若葉は、今や力強い緑色の葉となり、その数を増やしている。
「ラッドさん。船は、順調に進んでいますよ。年間売上四億リルという、宝島に向かってね」
その言葉に、ラッドはニヤリと笑った。その瞳には、俊への絶対的な信頼と、自らの手で未来を掴むという、確かな決意の光が宿っていた。
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