第9話 新生・フォルクナー商会
地獄のマナー講習が始まってから、一か月が過ぎた。エレオノーラの妥協なき指導のもと、ルーカスと三人の新人たちは、まるで別人のように磨き上げられていった。
元酒場の看板娘エラは、持ち前の天真爛漫な笑顔に、貴族を相手にしても物怖じしない気品が加わった。仕立屋の娘リリアは、その繊細な感性を、美しい立ち居振る舞いとして昇華させている。
気弱だったルーカスも、胸を張り、相手の目を見て話せるようになっていた。
しかし、ただ一人、エレオノーラを悩ませている者がいた。家具職人の息子、フィンだった。
彼は、お辞儀の角度や姿勢は完璧にこなす。だが、会話の練習になると、途端に口数が少なくなり、まるで感情のない人形のように黙り込んでしまうのだ。
「フィン! あなたは、お客様にその仏頂面を見せるつもりですの!?」
その日も、エレオノーラの鋭い叱責が飛ぶ。
「……申し訳、ありません」
フィンは、そう言って俯くだけだった。
その夜、フォルクナー商会の一角に急ごしらえされた工房では、『チーム・月長石』の四人が、頭を突き合わせていた。彼らの前には、ルーカスの知識によって見事に加工された、砂粒のように細かい『月長石』の粒子が、瓶の中で淡い光を放っている。
問題は、これをどうやって布に縫い込むか、だった。
「このショールに使う布地、見て。月明かりの下でしか糸を紡げないと言われる、とても繊細な絹織物なの。普通の刺繍針を使ってしまうと、どうしても針穴が目立ってしまって、この滑らかな風合いが台無しになってしまうわ。それに、この月長石の輝きを邪魔しない、細くて丈夫な糸もないし……」
デザイン担当のリリアが、ため息をつく。工房の空気が、重く沈み始めた、その時だった。
「……問題は、針で布に『穴』を開けることと、糸の太さか」
それまで黙って作業を見ていたフィンが、おもろに口を開いた。
彼は、工房の隅にあった硬い木材の切れ端と、一本の使い古した縫い針を手に取ると、驚くべき手つきで加工を始めた。
木材を削って、指に馴染む小さな持ち手を作る。そして、火で熱した針の先端を、金槌で叩いて極限まで細くし、持ち手にしっかりと固定した。
それは、針というより、先端だけが金属になった、極細の木製千枚通しのような道具だった。
「これは……?」
「これなら、布に穴を開けるんじゃなく、繊維の織り目を、傷つけずに押し広げることができる。そして、その隙間に、これを通すんだ」
フィンは次に、懐から小さな木の板に巻き付けられた、一本の銀色に輝く糸を取り出した。
「綺麗な糸……。でも、こんなに細くて、石を留められるの?」
リリアが、その不思議な輝きを持つ糸を覗き込む。
「これは、ただの糸じゃない。北の森に棲む『鎧蜘蛛』の糸だ。この仕事の話を聞いた時に、もしやと思って親父に頼んで、少しだけ融通してもらっていた」
フィンは、静かに続けた。「細さは髪の毛の十分の一だが、鋼鉄と同じくらいの強度がある。親父が、椅子の装飾を固定するのに、稀に使っていた。……これなら、月長石をしっかりと留められるはずだ」
言うが早いか、フィンは自ら作った道具で、布の織り目をそっと広げた。
そして、その隙間に鎧蜘蛛の糸を通し、月長石の粒子を、まるで布地と一体化しているかのように、完璧に縫い付けてみせたのだ。
布には、傷一つついていない。
「すごい……! フィンさん、すごいわ! これなら、私のデザインが形になる!」
リリアが、興奮したように声を上げる。エラとルーカスも、その見事な職人技と知識に、尊敬の眼差しを向けていた。
工房の中では、誰もが認める英雄。しかし、翌日のマナー講習で、フィンは再び口を閉ざしてしまった。
その様子を、俊は静かに観察していた。
(……なるほどな。あいつの武器は、口じゃない。その『手』と『知識』なんだ)
講習が終わった後、俊は一人、エレオノーラの元を訪れた。
「先生。フィンについて、一つご提案があります」
「何ですの、シュン・ヒナタ。あの子の仏頂面には、私もほとほと困り果てています」
「ええ。彼は、口で自分を表現するのが苦手なのでしょう。ですが、彼には誰にも真似できない、素晴らしい『腕』があります。新店舗での彼の役割は、お客様と流暢に会話をすることではありません。彼の作ったものが、お客様の心を動かすことです」
俊は、フィンが作った道具と、それによって生み出された美しい刺繍の試作品を、エレオノーラに見せた。
「彼に必要なのは、貴族と当たり障りのない会話をする技術ではない。自らの仕事への『誇り』と、その価値を、自らの言葉で語るための『自信』です。どうか、彼には会話の練習ではなく、この作品をお客様にどう説明すれば、その魅力が一番伝わるのかを、教えて差し上げてはいただけませんか?」
その斬新な提案に、エレオノーラは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて、その口元に深い笑みを浮かべた。
「……面白いことを考えますね、あなたは。いいでしょう。その提案、乗りました」
次の日から、フィンへの指導内容は一変した。エレオノーラは、彼に無理な会話を強いるのをやめ、代わりに、彼が作った作品を手に、そのこだわりや、制作の意図を語らせることに集中させた。
最初は、たどたどしかったフィンの言葉は、自分の得意な分野の話になると、次第に熱を帯びていく。
その口数は少ないままだが、一言一言に、職人としての確かな重みと、情熱が宿っていた。
「……この道具は、木目に逆らわず、木の呼吸に合わせて削り出すことで、手に馴染むようになるのです。布も、石も、きっと同じはずです。素材の声を聞くことが、一番大事なんです」
その姿は、もはやただの無口な青年ではなかった。自らの仕事に絶対的な誇りを持つ、一人の『職人』の顔が、そこにあった。
リリア、エラ、ルーカス、そしてフィン。荒削りだった四つの原石は、それぞれが違う形で、違う輝きを放ち始めていた。
彼らは、互いの違いを認め、それぞれの武器を尊敬し合う、本当の「チーム」へと、確実に成長を遂げていたのだった。
一か月にわたる地獄のマナー講習が、ついに最終日を迎えた。
エレオノーラは、壁際に並んで立つ四人を、鋭い目で一人ずつ見据えた。
「エラ。あなたの笑顔はただ明るいだけではなく、品格が備わりましたわ」
「リリア。その立ち姿は、あなたの描くデザインのように、優雅になりました」
「ルーカス。まだ瞳に臆病さが残っていますが、もう俯くことはなくなりましたね。上出来ですわ」
最後に、フィンに向き直ると、彼女は彼が手に持つ試作品に目をやった。
「フィン。あなたは多くを語る必要はありません。その手が、何よりも雄弁にあなたという職人を物語っていますから」
エレオノーラは一つ息をつくと、初めて、ほんのわずかに口元を緩めた。
「全員、まだひよこに過ぎません。ですが……もうただの庶民ではない。貴族の前に立つ、最低限の資格は得ましたわ。……合格です」
その言葉に、四人は顔を見合わせ、こらえきれない喜びの声を上げた。
部屋の隅でその光景を見ていた俊は、静かにラッドに言った。
「最高のチームが、生まれましたね」
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