第9話 新生・フォルクナー商会
俊が「第二のステップ」を宣言した翌日から、フォルクナー商会は再び目まぐるしい速度で動き出した。
まず動いたのは、ラッドだった。
彼は商会長としてのコネクションを最大限に活用し、俊が指さした新興の高級地区の土地情報をかき集めた。そして、わずか三日後には、大通りに面した一等地を、驚くべき安値で手に入れることに成功する。
ギルドからの保証と、商人たちの好意的な支援が、この異例の取引を後押ししたのだ。
「どうだ、俊! ここなら、俺たちの新しい『顔』にふさわしいだろう!」
更地となった土地の中心で、ラッドは大型犬が尻尾を振るように得意げに胸を張った。俊は、その姿に小さく笑うと、ポンと軽くその肩を叩いた。
「ああ、最高の場所だ。期待以上の仕事ぶりだな、ラッドさん」
その顔には、もはや親の跡を継いだだけの、頼りない若者の面影はなく、自らの手で未来を掴み取ろうとする、力強い経営者の顔つきになっていた。
土地の確保に目処が立ったその日の午後、俊はラッドと共に、次なる一手である人材募集の準備に取り掛かっていた。
「よし、早速ギルドの掲示板に募集を出すぞ。腕利きの職人や、経験豊富な商人を探さないとな」
ラッドが意気込むと、俊は静かに首を横に振った。
「いや、ラッドさん。今回は、経験や知識は一切問わない」
「はあ? 何言ってんだ、お前。新しい店は、貴族や富豪を相手にするんだろう? 素人を集めてどうするんだ」
「俺たちが今求めているのは、古い常識に縛られない、新しい力だ。経験豊富な人間は、確かに即戦力になるだろう。だが、同時に、古い商会のやり方や、凝り固まったプライドも一緒に持ち込んでくる可能性がある。俺たちが作るのは、全く新しい船なんだ。必要なのは、船の動かし方を知っているベテランじゃない。俺たちと一緒に、新しい海図を描きたいと心から願う、情熱を持った仲間だ」
俊は、一枚の羊皮紙の上に、羽ペンでサラサラと文字を綴っていく。それは、この王都で誰も見たことのない、異例の募集広告だった。
【求む、仲間。フォルクナー商会、第二の創業メンバー募集】
求めるのは、経験や知識ではありません。
お客様の笑顔を、自らの喜びと感じられる『心』。
失敗を恐れず、新しい挑戦を楽しめる『勇気』。
そして、この商会と共に、王都一の未来を創りたいという『情熱』です。
我々が約束するのは、高い給金よりも、誇りを持てる仕事と、成長できる環境です。
我こそは、という方の挑戦を、心よりお待ちしております。
商会長 ラッド・フォルクナー
特別監査役 シュン・ヒナタ
「……すげえな、これ」
ラッドは、その挑戦的な文面に、思わず笑みをこぼした。
「『誇りを持てる仕事』、か。……確かに、これなら、金目当ての連中は寄ってこないだろうな」
「ああ。この広告は、本当に情熱を持った、俺たちが求める原石にだけ届く、特別な『暗号』なんだ」
その『暗号』は、商業ギルドの掲示板だけでなく、職人たちが集まる工房や、活気ある市場の片隅など、様々な場所に貼り出された。そして、瞬く間に王都中の若者たちの間で、大きな話題となっていった。
こうして、商会のロビーで、その『暗号』を解き明かした若者たちの採用面接が始まったのだ。
「それで、君は、この商会で何を成し遂げたい?」
面接官を務めるラッドと俊は、応募者の経験や知識をほとんど問わなかった。彼らが見ていたのはただ一点。その瞳の奥に、お客様を喜ばせたいという『情熱』の炎が燃えているかどうか、だけだった。
多くの若者が、その異例の面接に戸惑いながらも、自らの夢や商売への想いを熱く語った。
そして、数日間にわたる選考の末、三人の新しい仲間が選ばれた。
デザインの才能に溢れる、仕立屋の娘のリリア。手先が器用で、木工細工を得意とする、家具職人の息子のフィン。そして、誰よりも明るい笑顔を持つ、元酒場の看板娘のエラ。
彼らは皆、旧体制の商会では決して採用されることのなかったであろう、荒削りだが、無限の可能性を秘めた原石だった。
土地と人が揃い、いよいよ最後の準備が整った。ルーカスたちのための、特別マナー講習だ。
約束の日、商会長室に現れたのは、背筋が鋼のように伸びた、一人の小柄な老婆だった。ラッドの母方の遠縁にあたる、元子爵家の令嬢、マナー講師のエレオノーラ。
その皺の刻まれた顔には、一切の妥協を許さない、厳格な空気が漂っている。
「……あなたがたが、ラッドが言っていた新しい店の候補者たちですわね」
エレオノーラは、値踏みするように四人を頭のてっぺんからつま先まで眺めると、ふん、と一つ鼻を鳴らした。
「話になりません。揃いも揃って、立ち姿からなっていない。貴族の前に立つ以前の問題ですわ」
その威圧感に、四人は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまう。そんな彼らを見て、ラッドは助け舟を出すつもりで口を開いた。
「まあまあ、婆さん。そんなに厳しく……」
「黙りなさい、ラッド!」
しかし、その言葉は一喝のもとに遮られた。
「あなたもですよ、ラッド。商会長という立場にありながら、その肘のつき方、足の組み方は何です? 先代が泣いていますわよ」
「うっ……」
ラッドもまた、たじたじだ。
エレオノーラは、最後に、部屋の隅で静かにその様子を眺めていた俊に、鋭い視線を向けた。
「そして、あなたがシュン・ヒナタね。ラッドをここまで変えたという、噂の男……。面白い目をしていますね。ですが、あなたも例外ではありません」
「……光栄です」
俊は動じることなく、その場で一礼してみせた。
「ラッドから話は聞いています。このひよこたちを、一か月で貴族と渡り合えるようにする。そして、ラッドとあなたも、その講習に付き合うと」
エレオノーラは、挑戦的な笑みを浮かべた。
「いいでしょう。私の全てを叩り込んでしんぜます。ただし、私の指導は厳しいですよ。途中で泣き言を言おうものなら、その場で叩き出しますからね!」
こうして、地獄のマナー講習が始まった。
正しいお辞儀の角度、美しい姿勢での歩き方、相手を不快にさせない視線の配り方、そして、貴族との会話で決して使ってはならない言葉遣い……。エレオノーラの指導は、寸分の隙もなく、そして一切の妥協もなかった。
数日が過ぎた頃、ついに音を上げた者がいた。元酒場の看板娘、エラだった。
何度も同じお辞儀の角度を注意され、疲れ果てた彼女は、とうとう小さな声でぼやいてしまった。
「……こんなお辞儀の練習に、一体何の意味があるっていうのさ。これじゃ、自慢の笑顔も引きつっちゃうよ」
その呟きを、エレオノーラの地獄耳が聞き逃すはずもなかった。
「今、何と言いましたか、エラ」
氷のように冷たい声に、エラの肩がびくりと震える。
「あなたのような庶民には、理解できないのも無理はありませんわね。ですが、その汚れた考えのままでは、あなたは一生、お客様の前に立つことすら許されないでしょう」
その厳しい言葉に、エラが俯いてしまった、その時だった。
「……エレオノーラ先生。少し、よろしいでしょうか」
それまで黙って見ていた俊が、静かに口を開いた。
「エラ。市場で果物を買う時のことを、想像してみてくれ」
俊は、エラと、そして他の新人たちの目を見ながら言った。
「同じ値段で、同じリンゴを売っている店が二つある。一つは、無愛想な店主が、泥のついたリンゴを乱暴に袋に詰めて渡してくる店。もう一つは、明るい笑顔の店主が、ピカピカに磨いたリンゴを、綺麗な布にそっと包んで渡してくれる店。……君なら、次もまた、どちらの店で買いたいと思う?」
そのあまりに身近な例えに、エラははっと顔を上げた。
「それは、もちろん……綺麗な布に包んでくれる、お店です」
「そうだろう?」俊は頷いた。「マナーとは、その『綺麗な布』と同じだ。俺たちが売る素晴らしい商品を、そして君たち自身の『真心』という価値を、お客様に最高の形でお届けするための、最高のラッピングなんだ。このラッピングがなければ、どんなに素晴らしい商品も、ただの泥のついたリンゴに見えてしまう。お客様は、その価値に気づくことなく、俺たちの店の前を素通りしていくだろう。……俺たちは、商売の土俵にすら立てなくなるんだ」
その言葉に、エラだけでなく、ルーカスたちの目も、大きく見開かれた。
目から、鱗が落ちる。
マナーとは、堅苦しい貴族だけの作法ではない。お客様への敬意と、自分たちの仕事への誇りを示す、商売の最も基本的な「武器」なのだと、彼らは初めて理解したのだ。
「……申し訳、ありませんでした、先生!」
エラは、エレオノーラに向かって、これまでで一番美しい、完璧な角度でお辞儀をした。
「もう一度、ご指導、お願いいたします!」
その瞳には、もはや不満の色はなく、燃えるようなやる気が満ち溢れていた。
エレオノーラは、その見事な変化に、初めて口の端を吊り上げて、満足げに頷いた。
年は、商会の未来を担うという重圧と、俊や仲間たちからの期待を一身に受け、心身ともに、驚異的な速度で磨き上げられていった。
フォルクナー商会の未来を賭けた、新しい舞台の建設と、新しい主役の育成。その二つの槌音が、王都に、力強く響き始めていた。
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