第8話 商会への帰還、新たなるチーム
深夜の商会長室に、俊が召集した監査チームの四人が集結した。窓の外はまだ深い闇に包まれているが、部屋の中はこれから始まる戦いを前に、ピリリとした緊張感に満ちている。
テーブルの上に広げられたのは、俊が発見した『架空取引』の証拠が記された帳簿のページだ。
「……これが、奴らが長年続けてきた不正の正体だ」
俊は、帳簿に記された存在しない船会社の名と、そこに流れた莫大な金額を指し示した。
「ただのリベートや横領じゃない。これは、商会の金を計画的に抜き取り続けるための、組織的な犯罪……『ゴースト・トレード』」
その手口の巧妙さと、被害額の大きさに、カスパールとマルコは絶句し、ティアは息を呑んだ。先代の商会長が亡くなってから、商会の屋台骨は、静かに、しかし確実に蝕まれ続けていたのだ。
「……どうりで、どれだけ俺たちが現場で奮闘しても、商会の経営が傾き続けるわけだ」
カスパールが、奥歯を噛み締めながら吐き捨てる。
「ああ。船底に、俺たちの誰も知らない、巨大な穴が空いていたんだ。バルテルスたちは、そこから甘い汁を吸い続けていたのさ」
マルコの顔にも、裏切り者たちへの激しい怒りが浮かんでいた。
「ですが、感傷に浸っている時間はない」
俊は、その場の空気を断ち切るように、パン、と一つ手を叩いた。
「この証拠があれば、衛兵隊を動かすことはできる。ですが、ただバルテルス一人を捕らえても意味がない。彼の背後で手引きする者、そして、今も商会内部に残っている協力者……その全てを、一網打尽にする必要がある」
俊の瞳は、まるで熟練の狩人のように、冷徹な光を宿していた。
「そのためのシナリオは、すでに立ててある」
俊は、王都の地図を広げると、作戦の全貌を語り始めた。それは、相手の心理を巧みに利用した、大胆不敵な情報戦だった。
「まず、カスパールさんとマルコさん。お二人に突き止めてもらった、バルテルスと最も付き合いの深い悪徳商人……名は確か、ボルコフとか言いましたね?」
「ああ。香辛料を扱っている、ハイエナのような男だ」
「そのボルコフに、偽の情報を流します。『フォルクナー商会が、今回の不正取引の件で、商業ギルドに正式な調査を依頼した。ただし、ボルコフが捜査に協力し、バルテルスの悪事をすべて正直に話せば、彼自身の罪は大幅に軽くなるだろう』……と」
そのあまりに悪辣な策に、ティアが少しだけ眉をひそめる。
「俊さん、それは……」
「ああ。汚い手だ。だが、相手は俺たちの命を狙った連中だ。遠慮はいらない」
俊は、ティアの懸念を読み取った上で、きっぱりと言い切った。
「この情報を聞けば、臆病者のボルコフは必ず動揺する。そして、自分の身を守るために、バルテルスを裏切るか、あるいはバルテルスに助けを求めるはずです。いずれにせよ、彼らは必ず接触する。そこを、一網打尽にするんです」
俊は、地図の上にある港近くの倉庫街を指さした。
「マルコさんの情報によれば、ボルコフの息のかかった倉庫が、このあたりにいくつかある。奴らが密会するとすれば、おそらくここでしょう」
「なるほどな……。偽の情報で敵を炙り出し、一箇所に集まったところを叩く、か」
カスパールが、感心したように頷く。
「はい。そのために、皆さんにはそれぞれの役割をまっとうしてもらいます」
俊は、まずカスパールとマルコに向き直った。
「お二人には、その情報屋のネットワークを使い、この偽の情報を、ボルコフの耳に『偶然を装って』届けていただきたい。そして、ボルコフと、彼に繋がる全ての人間の動きを、徹底的に監視してください」
「承知した。俺たちの腕の見せ所だな」
「任せておけ、俊殿」
次に、俊はティアの瞳をまっすぐに見つめた。
「ティア。君には引き続き、内部の様子を探ってもらう。今日のお茶会で、何か掴めたか?」
「はい。数人、バルテルス部長が解雇された後、明らかに動揺している古参の従業員が何人か。特に、仕入れ担当のダミアンって人は……」
「よし、いい情報だ。偽の噂が流れた時、そのダミアンがどう動くか、特に注意して見ていてくれ。だが、深入りはするな。君の安全が最優先だ」
ティアは、ごくりと喉を鳴らし、しかし力強く頷いた。彼女はもう、守られるだけの存在ではない。この戦いの、重要な一翼を担う覚悟が決まっていた。
「そして、俺はラッド商会長と共に、衛兵隊への協力を要請し、包囲網を完成させる。……いいか、みんな。これは、フォルクナー商会の未来を賭けた、一度きりの狩りだ。絶対に、獲物は逃がさない」
俊の言葉に、三人は力強く頷き返した。それぞれの決意を胸に、四人の狩人たちは、夜明け前の闇の中へと、静かに動き出した。
その日の昼過ぎ。王都の酒場という酒場で、「フォルクナー商会の不正取引の件で、ボルコフ商会がギルドに寝返るらしい」という噂が、まことしやかに囁かれ始めた。
その噂は、またたく間に王都中を駆け巡り、そして、潜伏していたバルテルスの耳にも届いていた。
「……あの、クソハイエナが……!」
薄暗い隠れ家で、バルテルスは憎々しげに呟くと、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、共犯者である商会の古参幹部へ、緊急の密会を知らせる指令を書き記した。
その頃、フォルクナー商会の休憩室では、仕入れ担当のダミアンが、動揺を隠しきれない様子で、不自然に席を立つ姿を、ティアが冷静な目で見つめていた。
俊が反撃のシナリオを語った、その日の深夜。王都の港近くに広がる、古びた倉庫街は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
その一角、ひときわ大きな倉庫の屋根の上で、俊は息を潜めて眼下の通りを見下ろしていた。隣には、ラッドと、彼が連れてきた衛兵隊の精鋭たちが、同じように闇に溶け込んでいる。
俊の耳につけられた、小さな魔道具から、カスパールの押し殺したような声が聞こえてきた。
『俊殿、聞こえるか。……ハイエナが、動いた。今、裏通りを通って、そちらの倉庫へ向かっている』
ハイエナとは、悪徳商人ボルコフのことだ。俊が仕掛けた偽の情報に、まず食いついてきたのは彼だった。
「……了解です。ティア、そちらの状況は?」
『……さっき、仕入れ担当の幹部であるダミアンが、慌てた様子で商会から出ていったよ。おそらく、バルテルスが送った指令を受け取ったんだと思う』
通信機の向こうから聞こえるティアの声は、少し緊張していたが、揺るぎない芯があった。彼女の密偵としての役割は、見事に果たされたのだ。
「よくやった、ティア。これで、商会内部の裏切り者も特定できた。もう危険なことはしなくていい。すぐにラッドさんの屋敷へ戻ってくれ」
『……いえ。私も、最後まで見届けさせて。この戦いは、もう私にとっても他人事じゃないから』
その力強い言葉に、俊は一瞬だけ驚き、そして小さく笑った。パン屋の看板娘は、いつの間にか、共に戦う立派な戦友になっていた。
やがて、闇の中から最初の獲物が姿を現した。フードを目深にかぶり、周囲を警戒しながら倉庫の裏口へと消えていくボルコフだ。
その数分後、商会の古参幹部であるダミアンが、同じように裏口から中へと入っていく。そして最後に、この蜘蛛の巣の主役が、悠然と現れた。経理部長、バルテルスだ。
彼の周りには、帳簿室を襲撃した時と同じ、屈強な護衛たちが付き従っている。全員が倉庫の中へと消えたのを確認し、俊は静かに通信機に告げた。
「……全員、揃いました。マルコさん、そちらの準備は?」
『ああ、いつでもいける。合図をくれ』
倉庫の正面入り口には、マルコが手練れの部下たちを率いて潜んでいる。
「ラッド商会長、衛兵隊の皆様。……これより、フォルクナー商会を蝕んだ害虫たちの、大掃除を始めます」
俊の冷徹な言葉に、ラッドは「ああ」と短く応え、衛兵隊長が静かに頷いた。
その頃、倉庫の中では、バルテルスたちが、自分たちが完全に包囲されていることなど露知らず、仲間割れを始めていた。
「どういうことだ、バルテルス! ボルコフがギルドに寝返るなどと、お前から聞いていた話と違うじゃないか!」
ダミアンが、金切り声を上げる。
「落ち着け、ダミアン。そのために、こうしてハイエナ本人を呼び出したんだろうが」
バルテルスは、余裕を装いながらも、その目には隠しきれない焦りが浮かんでいた。その視線の先で、ボルコフが脂汗を流しながら震えている。
「ま、待ってくれ、バルテルス! 俺は何も喋っちゃいねえ! だが、ギルドは本気だ! このままじゃ、俺たち全員、豚箱行きだぞ!」
「だから、その対策を話し合うために集まったんだろうが!」
バルテルスは、苛立ちを隠さずに怒鳴った。
「こうなれば、フォルクナー商会そのものを潰すしか……」
その言葉が、言い終わるか終わらないかの時だった。
ドォォォン!!!
倉庫の巨大な扉が、まるで巨人に蹴破られたかのように、凄まじい音を立てて吹き飛んだ。
「な、何事だ!?」
呆然とする彼らの目に飛び込んできたのは、武装した衛兵たちを背に、静かに佇むラッドと俊の姿だった。
「……久しぶりだな、バルテルス」
ラッドの、地を這うような低い声が響く。
「しょ、商会長……!?」
「お前たちが長年続けてきた、我が商会への裏切り行為……その全てに、ここで終止符を打たせてもらう」
バルテルスは、一瞬にして全てを悟った。ボルコフが寝返るという噂は、自分たちを誘き出すための罠だったのだと。
「……くそったれがぁぁぁ!」
バルテルスは、最後の悪あがきとばかりに、懐からナイフを抜き、ラッド目掛けて突進してきた。しかし、その刃がラッドに届くことはない。
ラッドの前に立ちはだかったマルコが、その屈強な腕でバルテルスの腕を掴み、いとも簡単に捻り上げてしまったのだ。カスパールもまた、ボルコフとダミアンの前に立ち塞がり、その鋭い眼光で二人を完全に萎縮させていた。
抵抗する間もなく、裏切り者たちは次々と衛兵たちに取り押さえられていく。その無様な姿を、俊はただ冷たい目で見下ろしていた。
全ての決着がついた後、倉庫の外で、ラッドは改めて俊の前に立った。
「……俊。本当に、何と言って礼を言えばいいのか……」
「礼には及ばない。俺は、契約通りの仕事をしただけだ」
俊は、静かに首を振った。
「ですが、戦いはまだ終わっていない。商会の膿は出し切ったが、そのせいで、商会の体には大きな穴が空いた。これからが、本当の『再建』の始まりになる」
その言葉に、ラッドは力強く頷いた。彼の隣では、カスパールとマルコが、生まれ変わったフォルクナー商会を率いていくという、新たな決意に燃えている。
少し離れた場所では、ティアが、この長い夜の終わりを告げる、朝焼けの空を静かに見上げていた。
フォルクナー商会を覆っていた深い闇は、払われた。俊がもたらした光は、今、ようやくこの老舗商会に、新しい朝を呼び込もうとしていた。
真の再生に向けた、長く、そして険しい道のりが、今、静かに始まろうとしていた。
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