第8話 商会への帰還、新たなるチーム
帳簿室に、しばしの沈黙が落ちた。窓から吹き込む冷たい夜風が、へたり込んだティアの髪を揺らす。
俊は、静かに彼女の肩を支えながら、険しい表情で闇に消えたバルテルスたちの行方を見つめていた。
「……俊殿、大丈夫か!?」
我に返ったカスパールとマルコが、慌てて二人の元へ駆け寄る。
「ええ、俺たちは無事です。それよりも……」
俊は、床に散らばった帳簿の一冊を拾い上げた。そこには、バルテルスの印が押された、不正な取引の記録が生々しく残っている。
「問題は、俺たちが想像していたよりも、ずっと根が深いようだ」
その言葉に、カスパールとマルコは悔しさに顔を歪め、固く拳を握りしめた。自分たちが目を背けてきた間に、商会がここまで腐りきっていたとは。そして、その腐敗が、俊とティアの命を脅かすまでになっていたのだ。
「……すまなかった」マルコが、絞り出すような声で言った。
「俺たちが、もっと早く気づいていれば……」
「謝罪は後です、マルコさん」
俊は、その言葉を遮ると、二人をまっすぐに見据えた。
「今、俺たちに必要なのは、後悔じゃない。この腐敗の根を、完全に断ち切るという、揺るぎない覚悟だ」
その力強い瞳に、カスパールとマルコは、覚悟を決めたように深く頷いた。その足で、四人は商会長室へと向かった。深夜にもかかわらず、ラッドはまだ一人、執務室で帳簿と向き合っていた。
ドアを蹴破るように入ってきた四人のただならぬ様子に、ラッドは目を見開く。カスパールから事の次第を聞かされた彼の顔は、みるみるうちに怒りで赤く染まっていった。
「……バルテルスが、だと……?」
ラッドの低い声が、部屋中に響く。父の代から仕え、自分も子供の頃から知っている男の裏切り。
そして、自分が全幅の信頼を寄せる俊とティアが、命の危険に晒されたという事実。
ドォン!!
ラッドは、怒りのままに拳を机に叩きつけた。
「……絶対に、許さん」
ラッドは、椅子から立ち上がると、俊の前に立った。その瞳には、もはや経営者としての甘さはなく、商会を守る長としての、冷徹な決意が宿っていた。
「俊。お前に、全権を委任する」
「……いいのか?」
「ああ。俺の名において、お前をフォルクナー商会の『特別監査役』に任命する。商会の誰であろうと、お前の指示に従う義務がある。逆らう者は、俺への反逆とみなし、即刻解雇も辞さない。カスパールとマルコは、お前の直属の部下として、全力で補佐させろ」
それは、商会長としての、最大限の信頼の証だった。
「……必ず、商会の膿を出し切ってみせる」
俊は、深く、力強く頷いた。
翌朝。商会には、ラッドの名で緊急の通達が出された。
『経理部長バルテルス、及び数名の幹部を、重大な背任行為により解雇。商会の全権は、特別監査役に任命されたシュン・ヒナタが代行する』
突然の通達に、商会内は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。若手従業員たちは改革への期待に胸を膨ませ、一方で、バルテルスと繋がっていた古参たちは、恐怖に顔を青くした。
俊は早速、新たに結成された監査チームの作戦会議を開いた。メンバーは、俊、ティア、カスパール、マルコの四人だ。
「相手は、ただ逃げただけじゃない。必ず、王都のどこかに潜んで、反撃の機会を窺っているはずだ」
マルコが、裏社会にも通じるその経験から分析する。
「ああ。だから、俺たちの動きも二手、三手先を読む必要がある」
俊は、王都の地図をテーブルに広げた。
「カスパールさんとマルコさんには、逃げたバルテルスと繋がっていた悪徳商人の身辺を徹底的に洗ってもらいます。奴らの金の流れを止めれば、バルテルスは必ず動く」
「承知した」
二人は、力強く頷いた。俊は、次にティアに向き直った。
「ティア。君には、一番難しい仕事をお願いしたい」
「……何をすればいい? 」
「商会内部に残っている、バルテルスの協力者……『内なる敵』を、見つけ出してもらう」
俊の言葉に、ティアはごくりと喉を鳴らした。
「今の商会内は、誰もが疑心暗鬼になっている。そんな中で、正直な情報を引き出せるのは、相手の警戒心を解き、心に寄り添うことができる君だけだ。若手の従業員たちと積極的に会話して、誰が本当に味方で、誰が嘘をついているのか。君の目で、見極めてほしい」
それは、ティアの才能を最大限に評価した、重要な役割だった。彼女は、恐怖よりも、俊に信頼されているという誇りを胸に、まっすぐな瞳で頷いた。
「……わかった! やってみる!」
こうして、フォルクナー商会の闇を暴くための戦いが始まった。それは、剣も魔法も使わない、知略と、人の心を読む力だけが武器となる、静かで、しかし何よりも危険な情報戦だった。
その日の午後、カスパールとマルコは、昔馴染みの情報屋が営む酒場にいた。王都の商人たちの裏事情に精通した彼らだからこそ、踏み込める領域だ。
一方ティアは、本店の休憩室で、若手の女性従業員たちにコルネ亭の焼き菓子を振る舞いながら、和やかなお茶会を開いていた。
「皆さん、いつも大変ですよね。何か、困っていることとかありませんか?」
その優しい問いかけに、最初は戸惑っていた彼女たちも、次第に心を開き、古参幹部たちの横暴な振る舞いや、不透明な経理処理に対する不満を、ぽつりぽつりと漏らし始める。ティアは、ただ相槌を打つ。しかし、その瞳は、誰が本当に困っていて、誰がただの愚痴を言っているのか、そして誰が、何かを隠して嘘をついているのかを、冷静に見極めていた。
パン屋の看板娘だった彼女は、いつしか人の心の機微を読む、鋭い観察眼を身につけていたのだ。
その頃、俊は一人、商会長室で、押収した帳簿と王都の港の入港記録を照らし合わせていた。バルテルスの不正は、特定の商人から高く仕入れるだけではない。もっと大胆な何かがあるはずだ。
そして、ついに彼は、決定的な証拠を発見する。
「……これだ。ゴースト・トレード……架空取引か」
帳簿には、存在しない船会社からの、莫大な量の香辛料の仕入れ記録が、いくつも残されていた。フォルクナー商会は、存在しない商品に、何年にもわたって金を払い続けていたのだ。
その金の行き着く先は、言うまでもない。俊の脳裏に、商会を内側から蝕む、巨大な犯罪の全体像が、はっきりと描き出されていった。
(……ただのリベートじゃない。これは、商会の金を計画的に横領する、組織的な犯罪だ。先代が亡くなってから、一体どれだけの金が、この存在しない取引に消えていったんだ……?)
俊は、静かに帳簿を閉じた。その顔には、怒りよりもむしろ、全てを白日の下に晒すという、冷徹な闘志が燃えていた。
「ティア。すぐにカスパールさんたちを呼んできてくれ。夜が明ける前に、次の手を打つ」
部屋の外に控えていたティアに声をかける。俊のただならぬ気配に、ティアはこくりと頷くと、足音を忍ばせて部屋を出ていった。残された俊は、再び帳簿を開くと、架空取引の証拠となるページを指でなぞった。
「バルテルス……あんたたちの逃げ道は、もうどこにもない」
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