第8話 商会への帰還、新たなるチーム
一夜明け、研修三日目の朝。グランツ支店に現れたカスパールとマルコの態度は、昨日までとは明らかに違っていた。傲慢な態度は消え失せ、どこかバツが悪そうに、しかし真剣な眼差しで、活気ある店内を眺めている。
自分たちが長年積み上げてきたものが、この場所では全く通用しないという事実を、彼らは骨身に沁みて理解していた。開店前のミーティングが終わり、従業員たちがそれぞれの持ち場につこうとした時だった。それまで黙っていたマルコが、おもろに、実演販売の準備をしていた若い店員に頭を下げた。
「……なあ、あんた。昨日、あんたがやっていた呼び込み、もう一度見せてくれ。なぜ、あんたの前には、あんなに客が集まるんだ?」
その意外な言葉に、若い店員だけでなく、周りの者たちも目を丸くする。あの傲慢だった王都支店の支店長が、自分よりずっと年下の、田舎の店員に教えを乞うているのだ。
カスパールもまた、カウンターで顧客ノートを整理していたティアの元へ、気まずそうに歩み寄っていた。
「……嬢ちゃん。そのノート、もう一度見せてもらえんか。客の顔と名前を覚えるなど、俺には馬鹿げたこととしか思えん。なぜ、君たちはそんな手間をかけるんだ?」
その問いに、ティアはにこりと微笑んだ。これは、俊からあらかじめ与えられていた、彼女の重要な役割だった。
「カスパールさん、マルコさん。少しだけ、私にお時間をいただけませんか?」
ティアは、二人を研修室へと案内すると、使い込まれた『顧客ノート』をテーブルの上に置いた。
「これは、難しい経営の仕組みではありません。どちらかというと……お客様との、交換日記みたいなものなんです」
「交換日記、だと?」
「はい。私たちは、お客様との会話で知った、ささやかな出来事をここに書き留めます。『ミリア様は、青い布がお好き』とか、『レオ様は、今度お肉料理を作る』とか……。そして、次にお客様が来てくださった時に、『ご主人様は、喜んでくれましたか?』ってお尋ねするんです。そうすると、お客様は『まあ、覚えていてくれたのね!』って、すごく嬉しそうに、前よりももっとたくさんのことをお話ししてくださるんです」
ティアの言葉には、難しい理論はない。ただ、人と人とが心を通わせることの、純粋な喜びだけがあった。
その純粋さが、二人の心の奥底に眠っていた、遠い記憶の蓋をこじ開けた。
(……そういえば)カスパールは、思い出していた。
まだ先代の商会長が生きていた頃、自分が一介の店員として、がむしゃらに働いていた日々のことを。初めて自分が勧めた高価な染め物を、ある貴族の奥方が買ってくれた時の、天にも昇るような嬉しさ。
後日、その奥方が再び店を訪れ、「あなたのおかげで、素晴らしい夜会になったわ」と微笑んでくれた時の、胸が熱くなるような感動。
(……俺も、昔はこうだった)マルコの脳裏にも、駆け出しの頃の自分が蘇っていた。
港で働く船乗りたち一人一人の顔と好みを覚え、彼らが航海から帰ってくる度に、「お帰り!」と声をかけ、労いの品を渡していた。無骨な船乗りたちが、自分を本当の仲間のように頼ってくれることが、何よりの誇りだった。
いつからだろう。成功が当たり前になり、お客様の顔が、ただの数字に見えるようになったのは。
「ありがとう」という言葉の温かさを、忘れてしまったのは。
「……俺たちは、いつの間にか、大事なものをどこかに置き忘れてきちまったらしいな」
マルコが、誰に言うともなく、ぽつりと呟いた。その声には、深い悔恨の色が滲んでいた。
その日の午後、二人の行動は、昨日までとは全く違っていた。マルコは、年配の店員に何度も頭を下げ、顧客ノートの書き方から、布のたたみ方一つに至るまで、必死に教えを乞うた。
そして、おそるおそる接客に出ると、ノートに書かれた情報を頼りに、一人の船乗りの妻に、夫への贈り物を提案した。
「奥様……ご主人は、確か、丈夫で長持ちするものがお好きだと伺いました。こちらの布は、潮風にも強い特別な染料を使っております。きっと、次の航海のお守りになりますよ」
その心のこもった提案に、女性は「まあ、よくご存知で!」と目を輝かせ、喜んで布を買っていった。
「……ありがとうございました!」
深々と頭を下げるマルコの背中に、女性は「ありがとうございます。あなたに選んでいただいて、本当によかったわ」と、温かい言葉をかけて去っていった。
マルコは、その言葉を噛み締めながら、何十年かぶりに、心臓が熱く震えるのを感じていた。
カスパールもまた、若い店員に手本を見せてもらいながら、ぎこちないながらも、笑顔でホットワインを配り始めた。最初は遠巻きに見ていた客も、本店の支配人が必死に声を張り上げる姿に興味を惹かれ、少しずつ集まってくる。
そして、ついに、最初の一杯が売れた。たった一杯。王都での彼の売上からすれば、はした金額だ。しかし、お客様から直接「ありがとう、温まるよ」と言って渡された数枚の銅貨は、カスパールにとって、どんな金貨よりも重く、そして輝いて見えた。
その日の研修が終わる頃、二人は肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。しかし、その顔に浮かんでいたのは、もはや絶望ではない。失いかけていた商売の原点を、その喜びを、再びその手に取り戻した男たちの、確かな再生の光だった。
その夜、二人は宿の部屋で、黙って杯を酌み交わしていた。昨日までの不平不満は、嘘のように消え失せている。
「……カスパール」先に口を開いたのは、マルコだった。
「先代が生きておられた頃は、毎日がこんな感じだったな」
「……ああ」
カスパールは、静かに頷いた。
「あの頃は、売れるのが当たり前だった。商会の名前さえ出せば、どんな商品でも飛ぶように売れていった。いつの間にか、それが自分の力だと勘違いしていたらしい」
先代の商会長は、カリスマ的な手腕で、フォルクナー商会を王都一の地位にまで押し上げた傑物だった。彼らは、その黄金時代を支えたという自負があった。しかし、それは巨大な船に乗っていただけのことで、自らの力で嵐を乗り越えた経験ではなかったのだ。
「客の『ありがとう』の一言が、あんなに嬉しいものだったとはな……。今日、あの銅貨を握りしめた時、何十年も前に初めて給金を貰った日のことを思い出しちまったよ」
カスパールの声は、少しだけ震えていた。その日から、研修の空気は一変した。カスパールとマルコは、まるで新人店員のように、貪欲にグランツ支店の全てを吸収し始めた。
マルコは、年配店員から布の知識を学びながら、自身の経験を活かして、より効率的な在庫管理の方法を提案した。カスパールは、若い店員に頭を下げて実演販売のコツを学び、その代わりに、本店でしか知り得ない貴重な香辛料の仕入れルートの情報を提供した。
教える側だったグランツの従業員たちも、彼らの持つ豊富な知識と経験に刺激を受け、店は日に日に活気を増していく。指示する者と、される者ではない。共に店を良くしようとする、本当の「仲間」が、そこに生まれていた。
研修最終日。カスパールとマルコは、ブレンナーたちグランツ支店の全員を前に、深々と頭を下げた。
「……俺たちは、間違っていた。商売とは何か、その一番大事なことを、君たちから教えられた。この一週間の恩は、必ず王都で返させてもらう」
その言葉に、ブレンナーは力強く頷き返した。
「ええ。俺たちも、負けてはいられませんからな!」
固い握手を交わす彼らの姿を、俊とティアは壁際で静かに見守っていた。
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