第8話 商会への帰還、新たなるチーム
ラッドが王都へ戻ってから、10日ほどが過ぎた頃、合同研修の初日を迎えたグランツ支店の前は、いつもとは違う、ピリリとした緊張感に包まれていた。
やがて、通りの向こうから一台の立派な馬車が近づき、店の前で停まる。降りてきたのは、二人の対照的な男だった。
一人は、本店の支配人を務めるカスパール。歳は四十代ほどで、糊の効いたシャツを隙なく着こなし、その細い目には、田舎の支店を見下すような、冷たい光が浮かんでいる。
もう一人は、王都支店の支店長であるマルコ。がっしりとした体格で、腕を組み、不機嫌さを隠そうともしない。彼らにとって、この研修は商会長命令で渋々参加する、時間の無駄でしかなかった。
「……ここが、例のグランツ支店か。相変わらず、潮の匂いが染みついた、むさ苦しい場所だな」
カスパールが、ハンカチで口元を覆いながら吐き捨てる。
「全くだ。こんな場所に一週間も滞在しろとは、商会長も人が悪い」
マルコも、忌々しげに舌打ちをした。しかし、彼らが店の正面に立った時、その足は思わず止まった。
想像していたような、寂れた店の姿はどこにもない。磨き上げられた窓からは明るい光が差し込み、店の前では若い店員が、生き生きとした声で実演販売を行い、人だかりができていたのだ。
「……なんだ、これは」
呆然と呟く二人の前に、店の扉が開き、一人の男が現れた。支店長のブレンナーだ。
しかし、その姿は、彼らが知る「ブレンナー」ではなかった。かつての、商会長の前で萎縮してばかりいた、覇気のない男ではない。
背筋をまっすぐに伸ばし、自信に満ちた、穏やかな笑みを浮かべた、一人の立派な支店長が、そこに立っていた。
「カスパール支配人、マルコ支店長。ようこそ、グランツ支店へ。商会長より、話は伺っております」
その落ち着いた出迎えに、二人は完全に意表を突かれ、ただ戸惑いの表情を浮かべるばかりだった。
研修は、店の奥にある、普段は倉庫として使われている一室で始まった。簡素なテーブルと椅子が並べられ、正面には一枚の大きな黒板が置かれている。
カスパールとマルコは、ふてぶてしい態度で椅子に腰かけていた。俊とティアは、部屋の隅に立ち、静かにその様子を見守っている。
やがて、ブレンナーが黒板の前に立った。彼の顔には緊張の色が浮かんでいたが、その瞳には確かな覚悟の光が宿っていた。
「本日は、お集まりいただき、ありがとうございます。これより、グランツ支店合同研修を始めさせていただきます。講師を務めます、支店長のブレンナーです」
その言葉に、マルコが鼻で笑った。
「講師、だと? ブレンナー、お前が俺たちに何を教えるって言うんだ」
その侮辱的な言葉にも、ブレンナーは動じなかった。彼は、まっすぐに二人を見据えると、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「はい。私は、皆様に『失敗』の仕方を教えます」
「……何?」
「一月前のこの店は、死んでいました。そして、それを殺したのは、他の誰でもない、この私です。私は、諦めていた。どうせ何をやっても無駄だと、働くことへの誇りを、自らの手で捨てていたんです」
ブレンナーは、自らの恥を、一切隠すことなく語り始めた。
「ですが、私たちは変わった。……いえ、変われたのです。俊さんとティアさんから教わった、たった二つの『仕組み』によって」
ブレンナーは、黒板に『顧客ノート』と『週次ミーティング』という、二つの言葉を書き出した。そして、それらが、いかにして自分たちの意識を変え、店を蘇らせていったのかを、自らの言葉で、熱を込めて語り始めた。
次に立ったのは、三人の従業員たちだった。
香辛料担当の若い店員は、自分が「専門家」という役割を与えられたことで、どれだけ仕事に誇りを持てるようになったかを語った。
茶葉担当の女性店員は、『顧客ノート』が、人見知りだった自分とお客様を繋ぐ、架け橋になってくれたと切実に訴えた。
染め物担当の年配店員は、週次ミーティングで、生まれて初めて自分の意見が採用され、それが店の役に立った時の感動を、緊張気味に語った。
彼らの言葉に、カスパールとマルコの顔から、次第に嘲りの色が消えていく。
最後に、ティアが、一冊の使い込まれたノートを手に、静かに二人の前に立った。それは、ブレンナーが先ほど説明した『顧客ノート』そのものだった。
ティアは、そのノートをテーブルの上にそっと置くと、あるページを開いて見せた。そこには、従業員たちの少し不器用だが、丁寧な文字で、お客様とのやり取りがいくつも記録されていた。
「これは、私たちの宝物です」
ティアは、静かに、しかし芯の通った声で言った。
「ここには、難しい経営の言葉は書いてありません。ただ、『ミリア様は、青い布をお探しだ』とか、『レオ様は、今度お肉料理を作る』とか……お客様一人一人との、小さな思い出が詰まっているだけです。でも、私たちはこのノートがあるから、次にお客様が来てくださった時に、もっと喜んでもらえるかもしれないって、わくわくできるんです。そのわくわくする気持ちが、私たちの誇りなんだって、俊さんは教えてくれました」
そのノートは、作られた教科書ではない。日々の仕事の中で生まれた、生きた証拠だった。従業員たちの誠実な想いが染み込んだその一冊は、どんな経営書よりも重く、カスパールとマルコの心を揺さぶった。
初日の研修が終わる頃には、カスパールとマルコは、完全に沈黙していた。彼らがグランツで見たものは、商会長から聞かれた、単なる成功事例ではなかった。それは、一度は死んだ組織が、働く人間の誇りを取り戻すことで、奇跡のように蘇る、その瞬間の、生々しい記録だった。
二人は、活気に満ちたグランツ支店の店先を、研修が始まる前とは全く違う、畏敬の念のこもった目で見つめていた。
自分たちの店に足りないのは、最新の流行商品でも、巧みな販売戦略でもない。目の前にある、この圧倒的なまでの「熱」そのものなのではないか。
衝撃の初日から一夜が明けた。合同研修二日目の朝、倉庫を改造した研修室に現れたカスパールとマルコの顔には、昨日までの傲慢な態度は消え、代わりに戸惑いと警戒の色が浮かんでいた。
ブレンナーたちの魂の告白と、ティアが提示した『顧客ノート』という生きた証拠は、彼らの凝り固まったプライドに、確かな亀裂を入れていた。そんな二人の前に立った俊は、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「さて、支配人、支店長。今日から三日間は、座学はなしです」
「……では、何をするというんだ」
カスパールが、探るような目で問い返す。
「簡単なことです。お二人には、今日からこのグランツ支店の一店員として、実際に店頭に立って働いてもらいます」
「なっ……!?」
俊の言葉に、二人は絶句した。本店の支配人と、王都支店の支店長である自分たちが、一介の平社員として働け、というのか。それは、彼らにとってこれ以上ない屈辱だった。
「ふざけるな! 俺たちがなぜそんなことを……!」
マルコが、椅子を蹴立てんばかりの勢いで叫ぶ。しかし、俊は表情一つ変えずに続けた。
「もちろん、これは商会長の許可も得ています。皆さんが王都でやっている立派な経営論は、ここでは何の意味もなさない。この店の成功の根幹は、現場の『熱』にある。それを、頭ではなく、体で理解していただくための研修です」
有無を言わせぬ俊の言葉に、二人はぐうの音も出なかった。こうして、彼らの悪夢のような現場研修が始まった。最初に音を上げたのは、腕っぷしには自信があったマルコだった。
彼が任されたのは、染め物担当の年配店員の補助。主な仕事は、重い布の反物を運んだり、顧客ノートに記録をつけたりすることだった。
「マルコさん、先日この布を買ってくださったミリア様が、新しい色を探しにいらっしゃいました。ノートの三ページ目を見て、ミリア様がお好きそうな色合いの布をいくつか準備していただけますか?」
年配店員からの指示に、マルコは忌々しげに舌打ちしながら、乱暴にノートをめくった。そこには、丁寧な文字で、ミリアという客の好みや探しているもの、以前の会話の内容がびっしりと書き込まれている。
(馬鹿馬鹿しい……! 客一人のために、いちいちこんな記録を……!)
彼は、ノートの内容をまともに読むこともせず、適当に数本の反物を担ぎ出した。しかし、その反物を見たミリアという婦人は、困ったように眉をひそめるだけだった。
「……申し訳ないけれど、私の探しているものとは違うようだわ」
その時だった。接客の様子を見ていたティアが、さっとマルコの隣に入った。
「ミリア様、申し訳ありません。こちらの手違いでございました。……確か、ミリア様はご主人様のために、海の青を映したような深い藍色をお探しでしたよね? それでしたら、先日入荷したばかりの、こちらの品はいかがでしょうか」
ティアが奥から持ってきた反物は、まさにミリアが探していた通りの、美しい藍色だった。その情報は、もちろん『顧客ノート』に書かれていたものだ。
「まあ、素敵! 理想通りの色だわ!」ミリアは満面の笑みを浮かべ、その布を購入していった。
一部始終を見ていたマルコは、顔を真っ赤にして立ち尽くすしかなかった。自分の勘と経験が、パン屋の娘の持つ、たった一冊のノートに完敗したのだ。
一方、本店の支配人であるカスパールは、香辛料担当として、店頭での実演販売を任されていた。彼は、こんな単純作業は朝飯前だと高をくくっていた。
「皆様、こちらが本店でも扱っている一級品でございます。いつもの料理に一振りするだけで、その味を王都のそれに近づけることができるでしょう」
しかし、その傲慢な態度は、活気ある港町の人々の反感を買うだけだった。足を止める客は誰もおらず、用意したホットワインは一杯も売れない。
カスパールは、自分のやり方が通用しないことに苛立ち、プライドをずたずたにされていた。
その時、彼の隣に、若い香辛料担当の店員が立った。
「カスパールさん、少しだけ、お手本を見せてもいいですか?」
彼はそう言うと、カスパールが売り残したホットワインを手に、張りのある、楽しそうな声で呼び込みを始めた。
「さあさあ、皆様! この港町の冷たい風で冷えた体を、不死鳥の雫で温めていきませんかー! 伝説の木の実を使ったこの一杯が、あなたの心に火を灯しますよ!」
そのわくわくするような言葉と、心からの笑顔に、人々はたちまち惹きつけられ、あっという間に人だかりができた。
カスパールは、その光景を呆然と見つめていた。自分よりずっと若く、田舎者だと見下していた店員が、自分にはできなかったことを、いとも簡単にやってのけている。
彼が売っていたのは、商品ではない。その商品がもたらす『物語』と、そして彼自身の『楽しむ心』だったのだ。
その日の研修が終わる頃には、カスパールとマルコの顔からは、完全に色が失われていた。自分たちが長年積み上げてきた経験とプライドが、この港町で、木っ端微塵に砕かれたのだ。
部屋の隅でその様子を見守っていた俊は、隣に立つティアにだけ聞こえる声で、静かに言った。
「何かを学ぶためには、まず、自分が何も知らないことを知る必要がある。……ようやく、彼らの本当の研修が始まるな」
その言葉通り、翌日から、二人の男の態度は、明らかに変化したのだった。
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