第2話 パン屋の立て直し施策実行
「泊まる場所は決まっているのか?」
ロランさん──ティアの父親がそう尋ねたのは、看板を立て終えたあとのことだった。
俺は少し気まずそうに頬をかく。
「……実は、何も。宿も金もなくて」
言葉にすると、改めて自分の状況のひどさに苦笑してしまう。野宿も覚悟していたが、この世界でそれがどれだけ危険なのかも見当がつかない。
ロランさんはしばらく黙って俺を見ていたが、やがて静かに言った。
「……それなら、うちの裏の倉庫で良ければ、寝るのに使ってくれて構わない」
「えっ、いいんですか?」
「食事は…売れ残りのパンとスープくらいしか出せないが………これから店の立て直しに手を貸してもらうんだ。それくらいの礼はさせてくれ」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。俺は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に助かります」
──というわけで、昨晩からパン屋の倉庫に泊まらせてもらっている。
もちろん風通しは悪いし、寝心地も褒められたもんじゃない。それでも、屋根のある場所で眠れるというのは何よりだ。
朝、焼きたてのパンの香りで目が覚めた俺は、さっそく店先へと向かった。
厨房ではロランさんと奥さんがすでに仕込みを始めている。生地を練る手つきや火加減の調整は手慣れており、この店が“味”で負けていないことは、昨日の試食で確信していた。
だが、勝負はそこじゃない。
「よし、行くか」
俺は店の入口に立てかけてあった黒板を引き寄せ、チョークで大きく書き込む。
《本日のご褒美! スイートクッキーブレッド 限定10個》
素朴なパンが並ぶこの店で、ひときわ目立つ存在に仕立てる。ほんのり甘い香り、カリッとしたクッキー生地、ふんわりした中身……絵でどこまで伝わるかはわからないが、印象はガラリと変わるはずだ。
黒板の余白には、パンの断面を簡単にイラストで描き添える。大げさなくらいにふっくらと膨らんだ形にして、湯気の線もつける。子どもでも一目で「美味しそう」と思えるような、そんなイメージを意識した。
「ところで、こっちの通貨って、どんな感じなんだ?」
黒板を描きながらそう尋ねると、ティアが隣で指を折りながら答えてくれた。
「えっと、銅貨が一番下で、その次が銀貨。あとは大銀貨、金貨、大金貨、白金貨って続くの。銅貨1枚が10リルくらいで、銀貨は100リル分って感じかな」
リル、という単位らしい。つまり銅貨1枚が10円、銀貨が100円相当と考えてよさそうだ。
「うちで今まで売っていたパンは、大体銀貨1枚と銅貨5枚くらいかな。高すぎると誰も手に取らなくなっちゃうし……」
「それなら、このパンは銀貨3枚ってとこかな。高めに見えるけど、“限定品”ならアリな値段だ」
「銀貨5枚!? う…売れるかなぁ…」
「高くても“ご褒美”ってコンセプトに合っていれば買う人はいる。特別だからこそ買いたくなる。それが、商品の“価値”ってやつだよ」
「なるほどぉ……そっか」
彼女は感心したように頷いたあと、ふと外の通りを見た。
「そういえば……遠くから来たって言っていたけど、どこから来たの?」
「ちょっと訳アリでね……いつか説明するよ」
そう返しつつ、俺は店の外を見た。通りはそこまで賑わっていない。
「ちなみに、ここはどこなんだ? 遠くに城が見えるから、王都か?」
「うん。ここはヴェリディア王国の王都の端っこ。中心からは少し離れているね。」
「なるほど、ヴェリディア王国って国なのか…」
俺がそう呟いていると、ティアが黒板を抱えて外に出ていった。
──さて、“王都の端の小さなパン屋”が、どこまでやれるか。試してみようじゃないか。
「よし、じゃあ今日はこれで準備完了だ。あとは、お客さんを待つだけだな」
俺が店の前の通りを見ながら言うと、ティアがそわそわした様子で手を胸の前で組む。
「本当に……誰か、来てくれるのかな」
「来るさ。こういう仕掛けは、最初の一歩を引き寄せるためにあるんだ。最初の一人が買えば、次も続く。あとは“流れ”を作るだけだよ」
俺はそう言って看板を確認し、パンの陳列棚の前に立った。
クッキー生地がきらめく《スイートクッキーブレッド》は、他の素朴なパンに比べて明らかに目を引く存在だ。しかも、黒板のイラストと「限定10個」の文字が、その価値を後押ししている。
ティアが笑顔で頷いた。
「1日10個だけの限定品です!」
ティアが笑顔で声を張ると、通りを歩いていた一人の女性が足を止めた。
「……限定?」
黒板に書かれた文字と、焼きたてのパンに視線を移す女性に、ティアは木皿を差し出す。
「よければ、試してみてください!無料ですので!」
「無料なら……そうね、ちょっとだけ」
女性は小さく笑い、パンを一口。数回咀嚼したあと、目を丸くした。
「……甘くて美味しい!こんなの、はじめて食べるわ」
「ありがとうございますっ!」
ティアがぱっと明るく微笑み、丁寧に包みを渡す。
「……ちょっと高いけど、たまにはちょっと贅沢しちゃおうかしら」
そのまま帰るかと思いきや、女性は棚のほうへと視線を向けた。
「“森の恵みパン”?名前も素敵……こっちも気になるわね」
そしてもう一つ、素朴な見た目のパンを手に取ると、にこりと笑った。
「朝ごはんにちょうど良さそう。これもお願い」
「はいっ!」
店内の空気が、少しだけ温かくなるのを感じた。
それから間もなく、母親と小さな女の子が通りを歩いてきた。
「パン屋さん……ねえ、見て、お母さん!」
女の子が黒板のイラストを指さして声を上げる。
「うわぁ……これ、食べてみたい!」
「おいしそうだね。でも今日は、お昼ご飯の分だけしか――」
女の子がぐいとティアの前に出て、瞳をきらきらさせながら言った。
「ねえ、お姉ちゃん、このパンって、もう売り切れちゃった?」
ティアが微笑みながら首を横に振る。
「いえ、大丈夫ですよ。まだ少し残ってます。よければ……どうぞ」
木皿に乗せた小さな一切れを差し出すと、母親が少し驚いたように声を上げた。
「あら、試せるのね。ありがとう」
親子は顔を見合わせ、小さく頷き合ってから、それぞれ手に取った。
「……んー!サクサクしてる!」
「うん、これは……美味しい。外がカリッとしてて、中はふわふわで……なるほど、これはちょっと特別ね」
女の子がじっと母親を見上げて、袖を引っぱる。
「ねえ、お母さん……お願いっ!半分こでもいいから!」
母親が苦笑して、銀貨を取り出した。
「……お手伝い頑張るって約束よ?」
「うんっ!」
二人はスイートクッキーブレッドを一つ手にし、そして棚の他のパンへと目を移す。
「“森の恵みパン”?……ネーミング、かわいいわね」
「この“森のめぐみ”ってやつ、お父さんにあげようよ!」
「そうね。あと、“朝露の小麦パン”ってのも美味しそう……こっちも買っておきましょうか」
「わーい!」
親子は次々とパンを選び、ティアはその対応に忙しく動き回る。
その光景を、俺は少し離れた場所から見ていた。
やっぱりネーミングの力は大きい。味がいくら良くても、名もなきパンじゃ“選ぶ理由”にならない。その一歩を後押しするのが、言葉の力だ。
すると、ロランが静かに俺の隣に立った。
「……ちょっとしたことを変えただけで、本当に変わるんだな」
「はい。まだ始まったばかりですけど」
「そうだな。……だが、今日は少し、希望が持てそうだ」
俺は黙って頷いた。
小さなきっかけが、未来を変える。
今日のこの流れが、コルネ亭の“明日”につながっていくことを、俺は確信していた。
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