第8話 商会への帰還、新たなるチーム
グランツでの一夜が明け、太陽が活気ある港町を照らし始めた。俊とティアは、朝食を済ませると、早速グランツ支店へと向かった。
しかし、二人はすぐには店に入らない。通りの向かい側から、まるで何気ない通行人のように、静かに店の様子を観察する。
「……ティア、何が見える?」
俊の静かな問いに、ティアは真剣な眼差しで店を見つめ、気づいたことを一つ一つ、丁寧に口にし始めた。
「まず……お店の看板が、潮風で少し錆びてる。窓ガラスも、よく見ると汚れていて、中の様子が少し見えづらいかな。それから……」
ティアは言葉を続ける。
「一番気になるのは、お店の前に、人の流れができていないことね。周りのお店には、商品を眺めたり、店員さんと話をしたりするお客さんがいるのに、このお店の前だけ、みんな素通りしてしまっているもの。まるで、そこに店がないみたいに……」
その言葉は、この店の現状を的確に表していた。活気に満たた商業都市の中で、この一角だけが、時間が止まったように静まり返っているのだ。
俊は、ティアの観察眼に静かに感心しながら、視線を店の入り口に向けた。かつて彼が設置を指示した、『本日のおすすめ』を知らせるための黒板は、店の隅に追いやられ、何も書かれていないまま放置されている。
(……やはりな)
俊は心の中で呟いた。問題は、彼が考案した施策の中身ではない。その施策を、実行し続けるべき現場の人間が、もはや何もしていないのだ。
「よし、入るぞ」
俊がティアに目配せし、二人は通りの喧騒を横切って、店の扉へと向かった。カラン、と乾いたドアベルの音が鳴る。
しかし、奥のカウンターから聞こえてきたのは、「いらっしゃいませ」という元気な声ではなく、「……んあ?」といったような、気の抜けた男の声だけだった。店の中は、外から見た印象以上に、空気が淀んでいた。
窓が汚れているせいで薄暗く、商品棚には埃がうっすらと積もっている。商品はただ無造作に並べられているだけで、それらを魅力的に見せようという工夫は、どこにも感じられない。
カウンターの奥で、一人の男が気だるそうに頬杖をついていた。年の頃は三十代半ばだろうか。覇気のない目をしたその男が、この店の支店長、ブレンナーだった。
ブレンナーは、俊の顔を見ると、一瞬きょとんとし、次の瞬間、何かを思い出したように慌てて椅子から飛び上がった。
「しゅ、俊さん!? も、もしや……もう1か月経ったので……?」
「その通りだ、ブレンナー支店長。約束通り、様子を見に来た」
俊が静かに告げると、ブレンナーの顔がさっと青ざめる。
「こ、これは、その……! 昨日はたまたま忙しくて、掃除が隅々まで行き届いておらず……!」
見え透いた言い訳をするブレンナーを、俊は冷たい目で見下ろした。だが、彼を責める言葉は口にしない。それでは、何も解決しないことを知っているからだ。
「彼女を紹介しよう。俺の助手のティアだ。これから、この店の再建を手伝ってもらう」
「は、はあ……。ご丁寧にどうも……」
突然現れたティアに、ブレンナーは戸惑いの表情を浮かべるばかりだ。俊は、店内をゆっくりと見渡しながら、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで言った。
「ブレンナー支店長。俺は、君を叱責するためにここに来たわけじゃない」
「え……?」
「俺が知りたいのは一つだけだ。なぜ、こうなった? 俺が教えたことは、実行が難しいことだったか? それとも、他に何か問題があったのか? 君の口から、正直な答えを聞かせてくれ」
それは、尋問ではなかった。医者が患者に、痛む場所を尋ねるような、静かな問いかけだった。ブレンナーは、俊の真摯な眼差しに気圧され、しばらくうつむいて何かを逡巡していたが、やて、ぽつり、ぽつりと、諦めたように言葉をこぼし始めた。
ブレンナーの口からこぼれ落ちたのは、予想通り、しかし予想以上に根深い「諦め」の言葉だった。
「最初は、俊さんの言葉に皆が目を輝かせました。『本日のおすすめ』を黒板に書くのも、商品を綺麗に並べ替えるのも、楽しんでやっているように見えました。実際に、客足は目に見えて戻り、売り上げも一時は以前の何倍にもになりました」
そこまで言うと、ブレンナーは力なく首を振った。
「しかし、俊さんが王都に戻られて一週間もすると、黒板を書くのを『忘れる』者が出てきました。注意をしても、どこか上の空で……。売り上げが少し落ち込む日があると、『ほら、やっぱり無駄だった』と、そんな空気が店に流れ始めるんです」
それは、長年負け続けてきた組織に特有の、重い病だった。一度の成功体験だけでは、染みついた敗北主義を拭い去ることはできない。強力なリーダーがいなくなった途端、彼らは安易な「元の自分たち」へと、いとも簡単に逆戻りしてしまったのだ。
「……いつしか、誰も黒板のことを口にしなくなりました。棚の陳列も、掃除も、元の……何も変わらない、ただ店を開けているだけの毎日に戻ってしまっていたんです。全ては、支店長である私の、力不足です。申し訳ありません……」
がっくりと肩を落とすブレンナーを、俊は黙って見つめていた。彼の隣で、ティアは商品棚に積もった埃よりも、従業員たちの心に深く積もった諦めのようなものを感じ取り、きゅっと胸が痛くなるのを感じていた。
しばらくの沈黙の後、俊は静かに口を開いた。
「わかった。ブレンナー支店長、君一人の責任じゃない。俺が伝えた施策に不備があったわけでもない。本当の問題は、もっとシンプルだ。……君たちの、『心』の問題なんだ」
「心、ですか……?」
「ああ。だから、難しい話は後だ。まずは、一番簡単なことから始めよう」
俊は、店の入り口を指さした。
「ブレンナー支店長。店の従業員を、全員ここに集めてくれ。これから、この店の大掃除を始める」
「……え? 大掃除、ですか?」
あまりに予想外の言葉に、ブレンナーは目を丸くした。俊の指示で集められたのは、ブレンナーの他に三人の従業員だった。皆、どこか覇気がなく、不思議そうな顔で俊とティアを見ている。
俊は、彼らの前に立つと、まっすぐな目で言った。
「今日から、この店の改革をもう一度始める。だが、難しいことは言わない。まずは、俺たちの働く場所を、俺たちの手で綺麗にすることからだ」
俊はそう言うと、自ら袖をまくり、一番汚れていた窓に手をかけた。ティアも、すぐに駆け寄って雑巾を手に取る。
「さあ、やろう。床、棚、窓、看板。この店を、港町で一番ピカピカな店にするんだ」
従業員たちは、戸惑いながらも、しぶしぶ掃除道具を手にした。最初は、ただ言われたからやっているだけ、という空気が漂っていた。
しかし、俊とティアは、文句一つ言わず、黙々と手を動かし続ける。
ティアが楽しそうに鼻歌交じりで床を磨き、俊が普段は見えない棚の裏まで丁寧に拭き上げていく。その姿に、従業員たちの心に、少しずつ変化が生まれ始めた。
「……ちくしょう、なんだってんだ……」
一番年配で、一番やる気のなさそうだった男が、悪態をつきながらも、看板の錆を懸命にこすり始めた。若い店員も、埃まみれになりながら、商品の陳列を一つ一つ丁寧にやり直し始める。
ブレンナーもまた、自らの手でカウンターを磨きながら、忘れかけていた何かを思い出そうとしていた。
数時間後。
店は、見違えるように綺麗になっていた。磨き上げられた窓からは、明るい陽光が差し込み、商品の一つ一つが輝いて見える。潮風で錆びついていた看板も、本来の美しい金属光沢を取り戻していた。
「……すごい」
誰からともなく、感嘆の声が漏れた。従業員たちの顔には、疲労の色と共に、久しぶりに見る、晴れやかな達成感が浮かんでいた。
俊は、綺麗になった店内を見渡し、満足げに頷いた。
「どうだ。気持ちがいいだろう?」
その言葉に、皆、こくりと頷く。
「これが、俺たちの仕事の第一歩だ。自分たちの職場に誇りを持つこと。そして、その誇りを、お客様に商品を通じて伝えること。明日からは、その具体的な方法を、もう一度一から叩き込んでやる」
俊の力強い宣言に、従業員たちの目に、消えかけていた小さな希望の火が、再び灯ったように見えた。
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