第7話 再び流れる黒い噂
公開品質証明会という名の、壮大な反撃劇が幕を閉じた後。広場は、熱狂的な歓声と拍手に包まれていた。悪徳なライバル店主が連行され、コルネ亭とアランの店の潔白が証明されたことで、人々は正直者たちの勝利を称賛した。
その日の午後から、二つの店にはかつてないほどの客が押し寄せた。人々は、噂を信じてしまったことへの罪滅くばしをするかのように、あるいは、真実が明らかになったことを祝うかのように、次々とパンやケーキ、そしてアイスサンドを買い求めていく。
「ありがとう、信じていたよ!」
「これからも美味しいパンを頼むぜ、ロランさん!」
温かい声援に、ティアもニコラも、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、何度も何度も頭を下げていた。
数日後。街の熱狂も少しずつ落ち着きを取り戻し、しかし二つの店の賑わいは変わらぬまま、穏やかな日常が戻ってきた。
そんなある日の昼下がり、コルネ亭のドアが軽快に開いた。少し早足で店に入ってきたのは、証明会の数日前に初めて野菜ケーキを買っていった、身なりの良い商人だった。
「これはこれは、奥様。先日いただいた例のケーキ、まだございますかな?」
エマが驚きながらも笑顔で応対する。商人は、カウンターに並べられたキャロットケーキとパンプキンケーキを見るなり、感極まった様子で話し始めた。
「ぜひ、聞いていただきたい! あれから家に帰り、野菜嫌いの娘にこのケーキを出してみたのです。妻は『どうせ食べないでしょう』なんて言っていたのですが……それが、一口食べたら『おいしい!』と、目を輝かせまして!」
男は、その時の光景を思い出したのか、目元を拭った。
「生まれて初めてですよ、あの子が自分から野菜の入ったものを、しかもあんなに喜んで食べるなんて……! 妻と一緒に、嬉しくて泣いてしまいましてね。本当に、本当にありがとうございます!」
深々と頭を下げる商人に、ロランとエマは顔を見合わせ、そして、心からの笑みを浮かべた。自分たちの作ったパンが、どこかの誰かを、こんなにも幸せにしている。その事実が、何よりの報酬だった。
「今日は、あの時の倍、いただいていきますよ! 親戚にも配って、このケーキの美味しさを広めさせていただきます!」
商人は、丁寧に包まれたたくさんのケーキを抱え、満足そうな顔で店を後にしていく。そして、この心温まる物語は、商人自身の口によって、王都や各地に広がっていくことになった。
「聞いたかい? コルネ亭の野菜ケーキを食べたら、野菜嫌いが治るらしいぜ」
「まあ、うちの子にも食べさせてみようかしら!」
噂は、人の口から口へと伝わるうちに、少しだけ尾ひれがついて、しかし、どこまでも温かい、希望に満ちたものへと変わっていった。
それは、かつて彼らを苦しめた黒い噂とは正反対の、「白い噂」だった。その評判は、やがて平民だけでなく、貴族たちの耳にも届くことになる。
証明会から、一週間ほどが経った頃。コルネ亭に、一人の見慣れない客が訪れた。仕立ての良い、しかし華美ではない、落ち着いた制服を着た若い女性。その胸元には、小さな紋章が刺繍されている。
「……あの、こちらで、お子様の野菜嫌いにも良いと評判の、お菓子を扱っているというのは、本当でしょうか?」
女性は、少し緊張した面持ちでティアに尋ねた。その紋章を見て、ティアは息を呑んだ。それは、王都に居を構える、子爵家のものだった。
「は、はい! こちらの、キャロットケーキとパンプキンケーキでございます!」
「まあ、素敵な色……。では、それぞれ一つずつ、いただけますか? 当家のお嬢様が大変な偏食で、奥様が大変お嘆きでして……」
使用人の女性は、安堵したように微笑むと、丁寧に包まれたケーキを受け取り、静かに店を出ていった。呆然とその後ろ姿を見送るティアの肩を、エマが優しく叩いた。
「すごいじゃないか、ティア。私たちのケーキが、貴族様のお屋敷に……」
「うん……うん……!」
ティアは、こみ上げてくる喜びを抑えきれず、何度も頷いた。
店は、確実に新しいステージへと歩みを進めている。俊がもたらした知識と戦略、そして、皆で勝ち取った「信頼」という名の追い風を受けて。
その夜、閉店後の店で、俊はラッドの元へ戻る日が近いことを、改めて皆に告げた。寂しさを滲ませながらも、誰もが彼の門出を祝う言葉を口にした。
コルネ亭の再建は、もはや成し遂げられた。あとは、この店が自らの力で、どこまでも高く羽ばたいていくだけだ。
俊は、窓の外で輝く月を見上げながら、フォルクナー商会のことを考えていた。そろそろ、ラッドと約束した一ヶ月が経とうとしていた。
***
一夜明け、俊がコルネ亭を旅立つ朝が来た。店の中は、早朝からパンを焼く香ばしい香りと、客たちの楽しそうな笑い声で満ちている。
それは、俊がこの店で皆と共に築き上げてきた、温かい日常の光景そのものだった。
店の前に、見送りのために全員が集まってくれた。ロラン、エマ、アラン、そしてニコラ。皆、寂しさを隠せないでいるが、その表情は晴れやかだ。
「じゃあ、そろそろ行くよ。みんな、本当に世話になった」
俊が、少し照れくさそうに頭を下げる。
「礼を言うのはこっちの方だ、俊。お前さんは、俺たち家族の恩人だ」
ロランが、分厚い手で俊の肩を力強く叩いた。
「俊さん、どうかお気をつけて……」
エマは、目に涙を浮かべながらも、母親のような優しい笑みを向けている。
「俊さん! 僕も、ニコラさんも、あなたから教わったことを胸に、もっと店を盛り上げていきます!」
アランが、決意を込めて宣言した。
それぞれの言葉を胸に、俊がフォルクナー商会へと歩き出そうとした、その時だった。
「待って、俊さん!」
凛とした、しかしどこか震える声が、俊の背中を引き留めた。振り返ると、そこに立っていたのは、ティアだった。彼女は、ぎゅっと拳を握りしめ、まっすぐな瞳で俊を見つめている。
「……私を、あなたの助手として、一緒に働かせてください!」
「ティア……!?」
思いがけない言葉に、俊だけでなく、アランたちも目を見開いた。
「何を言っているんだ、ティア。お前の居場所は、このコルネ亭だろう?」
「昨日の夜、父さんと母さんにお願いしたの。私のわがままを、許してほしいって」
その言葉に、ロランとエマが静かに頷く。ティアは、一歩前に進み出ると、溢れ出しそうな想いを、言葉に乗せた。
「私、俊さんと一緒に働いて、分かったの。商売っていうのは、ただ物を売ることじゃない。人の悩みを解決して、笑顔にして、幸せにできる、すごい力があるんだって。あなたはこの店を救ってくれた。アランさんの力になってくれた。街のみんなを、笑顔にしてくれた。……私も、そんな風になりたい! あなたの隣で、もっとたくさんのことを学んで、誰かが幸せになるお手伝いをしたい。これからは、この店で待っているだけじゃなくて、私自身の力で!」
それは、かつてのおっとりとした看板娘からは想像もつかないほど、力強く、確かな意志のこもった言葉だった。
俊は、何も言わずにティアを見つめていた。彼女の瞳に宿る光が、本物であることを見極めるように。やがて、彼はふっと息をつくと、試すような口調で尋ねた。
「俺が今携わっているのは、傾きかけた大きな商会だ。パン屋の仕事とは訳が違う。辛くて、地味で、厳しい仕事になるぞ。それでも、お前は来るのか?」
ティアは、一瞬の迷いもなく、満面の笑みで答えた。
「ええ! 望むところだわ!」
その笑顔に、俊は小さく笑みを返した。それは、彼女の成長を認めた、兄のような、あるいは師匠のような、温かい笑顔だった。
「分かった。今日からお前は、俺の初めての弟子兼、助手だ。フォルクナー商会で、早速働いてもらうぞ」
「……! ありがとう!」
ティアは、目に涙をいっぱいに溜めると、振り返ってロランとエマに深々と頭を下げた。
「父さん、母さん、行ってきます!」
その声は、人生で一番元気で、希望に満ち溢れていた。こうして、コルネ亭の再建という大きな仕事を成し遂げた俊の隣には、確かな意志を持って未来を見つめる、一人の頼もしい仲間が加わった。
二人の新たなる挑戦が、今、始まろうとしていた。
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