第1話 売れない理由は…?
少し前後で齟齬のある箇所を修正しました。
パン屋の軒先で、俺は腕を組んで通りを眺めていた。
朝の市場通りは、それなりに人通りがある。木箱を担いだ商人や、布袋を抱えた主婦、子どもの手を引いた若い母親たちが行き交う。けれど、俺の背後にあるこのパン屋に足を止める者は、ほとんどいなかった。
「……不思議ですね。味には自信があるのに」
隣に立つティアがぽつりとつぶやく。どこか寂しげな横顔が、ほんのりと朝日を浴びて揺れていた。
「それは、STPが足りていないからだな」
「えす、てぃー、ぴー……? それって魔法の呪文ですか?」
「まあ、俺にとっては魔法みたいなもんだよ」
俺はくすっと笑って、店の壁に立てかけてあった木の板を手に取る。チョーク代わりの炭をつまみ、板に大きく「S」「T」「P」と書きつけた。
「まず、Sは“セグメンテーション”──市場の切り分けだ。この通りを歩いてるのは誰だ?」
「え、えっと……荷車を引いていた商人さん、子どもを連れたお母さん、あと兵士の人も……」
「いいね。ほかにも、旅人や、たまに通る貴族夫人なんかもいるな。客層はけっこうバラバラだ」
俺は「労働者」「母子」「兵士」「旅人」「貴族」などと書き連ねていく。
「で、次がT、“ターゲティング”だ。全部に売ろうとすると中途半端になる。だから、その中から“誰に”売るかを絞る」
「……じゃあ、誰を選ぶんですか?」
「“ちょっとだけ贅沢したい庶民”だな。日々のごはんは粗末でも、たまにはおいしいものを食べたいって人たち」
ティアは目をぱちぱちさせた。
「パンで贅沢……なんだか、不思議な感じです」
「だからこそ効く。パンの価値は、食材だけじゃなくて“気分”にもあるんだ」
最後に「P」と大きく書き、下に太く「ご褒美パン」と添える。
「そしてP、“ポジショニング”──どういう立ち位置で売るかって話。向かいのベーカリーは安くて品数も多い。だからうちは、“可愛くて特別感のあるパン”で勝負する」
「……可愛くて、特別?」
「そう、昨日作って試食したあのパンだ」
ティアの目がきらりと輝いた。
「あれ、本当においしかったなあ…!」
俺は炭を板に戻し、にやりと笑った。
「よし、狙う相手は決めたから、次は、“その人たちに刺さる魅せ方”だ。明日から本格的に動き出そう」
俺がそう言うと、ティアがふと首をかしげた。
「そういえば……あなたの名前、まだ聞いていなかった気がします」
「あ、そうか。俺は日向 俊ひなたしゅん。遠い場所で、商人たちの商売を繁盛させるようなサポートをしていて……まあ、そういうのにはちょっと詳しいって感じかな」
「ひなた、しゅん……」
ティアが口の中で繰り返す。その響きが気に入ったのか、ふんわりと笑みを浮かべた。
「私はティア。ティア・コルネです。で、こちらが……」
「ロラン・コルネ。パン屋の主人であり、ティアの父だ」
「エマ・コルネよ。ティアの母親。よろしくね、俊さん」
こうして、ようやく全員が名乗りを終えた。
「じゃあ改めて。今日からこのパン屋、仕掛けていきますよ」
***
その日の夕方、さっそく店内の棚やカウンターの配置を見直し始めた。
「まずは、お客さんの目に入りやすい場所にスイートクッキーブレッドを置きましょう」
俺が指さしたのは、入ってすぐ正面の棚。そこに主力商品を置けば、自然と目に留まる。
「そう。だから“ご褒美パン”として、少し高めの価格にして目玉にする。隣には“森の恵みパン”を並べよう」
「森の……?」
「名前の話さ。素朴なパンでも、名前を変えるだけで印象が違う。“なんだろう?”って思わせたら勝ちだよ」
ティアが目を丸くして、ぽんと手を打った。
「なるほど……!」
エマさんがキッチンから顔を出す。
「パンの名前を変えるだけで、本当に売れるのかしら?」
「もちろん、それだけじゃダメです。でも“魅せ方”は大事なんです。商品の見栄え、並べ方、そして……価格」
俺は黒板を見つけ、チョークで大きく書いた。
《本日のご褒美! スイートクッキーブレッド 限定10個》
「えっ、たったの10個だけ? それしか売らないの?」
素朴な疑問を口にするティアに、俺は頷いた。
「それでいいんだ。これは“限定”だから価値が出る。足りないくらいが、ちょうどいい。POPも、こういう風に“限定”とか“今日だけ”って書くと、お客さんの心をくすぐれるんだ」
ロランさんが腕を組んで「ふむ……」と唸った。
「どうやら、本当に“売るための工夫”ってやつを知っているようだな」
「多少は、ね」
ティアがにっこり笑った。
「なんだか……ちょっと、楽しくなってきた!」
そう、これはただのパン屋の立て直しじゃない。
俺のマーケター人生、第二章の始まりだ。
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