第1話 売れない理由は…?
パンを食べ終えた頃には、腹は落ち着いたが、頭の中はまだ混乱していた。
異世界――たぶんそれで間違いない。言葉も文化も、なぜか理解できている。でも現代日本ではないことは確実だった。
そして目の前にあるのは、潰れかけのパン屋。看板は擦れ、扉は傾き、窓越しに見える陳列棚もスカスカ。客の姿も見えない。
だが、パンはうまかった。
(商品にはポテンシャルがある。だが“魅せ方”に、決定的な問題がある)
広告、販促、陳列、ネーミング、価格設定。どれもが「売らない方向」に作用している。本人たちは気づいていないだろうが、これは損失だ。機会損失というやつだ。
「……あの、本当に大丈夫ですか?顔色が悪いような……」
目の前の少女が心配そうに覗き込んでくる。声も表情も柔らかい。だが、その手はパン粉だらけで、エプロンの裾も粉まみれ。朝から仕込みをしていたことがよくわかる。
「いや、助かった。ありがとう。ちょっと疲れてるだけだ」
「……そうですか。よかった」
少女はほっとしたように微笑むと、扉の前の木箱をどかしはじめた。朝の開店準備らしい。だが、その動きのひとつひとつが、どこか覇気に欠けている。
「客、入ってないんだな」
ぽつりと呟くと、少女の手が止まった。
「……最近、あまり来ないんです。前はもっと賑わってたんですけど……」
「何が原因か、心当たりは?」
「えっ……?いえ、たぶん……味、ですかね……」
違う。それはない。
味は確かだ。素朴で温かくて、素材の良さが出ている。問題があるとすれば、“それをどう伝えているか”だ。
俊は、あたりを見回した。
通りの向かいには、派手な垂れ幕を下げたベーカリー。焼き上がりのタイミングに合わせて、香りが通りに流れるような設計。価格もわかりやすく、陳列も目を引く。
対して、このパン屋は──
「導線、死んでるな」
「えっ?」
「入りにくい。店が暗く見える。看板も読みにくいし、売りの商品が何かもわからない。ついでに言えば、パンの名前が悪い。“粗麦パン”とか“塩なしブレッド”じゃ誰も買わない」
「し、塩なしブレッドは……そのままの意味で……」
「売りたいなら、そのままじゃダメだ。“素材の良さ”を伝える名前にする。“森の恵みパン”とか“朝焼きの無塩ブレッド”とか。ついでに試食を入口に置いて、焼き上がり時間を掲示しろ。話はそれからだ」
少女はぽかんと口を開けて、俊を見つめていた。
その目は、怪訝と好奇心と、ほんのわずかな期待が入り混じっている。
俊はパンくずを払って立ち上がると、扉の方を指さした。
「ちょっと店内、見てもいいか?」
「あ、はい……」
少女に案内されるまま、俊はパン屋の中へ入った。
中はさらに寂れていた。
棚の配置はバラバラ、照明は暗く、焼き立てのパンの香りも店の奥にこもってしまっている。
商品は並んでいるが、どれも素朴で、逆に言えば目立たない。パンの名前は、やはり素材そのままだ。
「……なるほどな」
俊は腕を組み、店内を一周しながらブツブツとつぶやいた。
「棚、全部やり直し。目線の高さに主力商品。照明を当てて、陳列を揃える。あとは入口付近に試食を──」
「し、ししょく……?」
「ん?ああ、“試しに食べてもらう”ってこと。タダで一口だけ出して、食べたら買いたくなるようにするんだ」
少女は目を丸くした。
「タダで、パンを……?」
「そう。“まずは知ってもらう”が先。売りたいなら、まず味を感じてもらうのが一番早い。いい商品なら、試食が最強の広告になる」
少女は小さく息をのんだ。
俊の言っていることが正しいのかどうか、今はまだ判断がついていない。けれど、何かが変わりそうな予感だけは、確かに感じていた。
「……なんだか、すごいですね」
「別にすごくない。売れる仕組みってのは、だいたい決まってる」
俊はそう言って、ニヤリと笑った。その笑みは、少しだけ楽しげなものだった。
店の奥、厨房に移動した俺は、少女と並んで試作を始めた。
材料は限られていたが、砂糖と卵、小麦粉、そしてパン生地さえあれば十分だ。表面に甘いクッキー生地を重ね、ふんわりとした中身を包み込む──その焼き上がりは、見た目にも惹きつける黄金色のまんまるパンだった。
「わあ……!」
少女が目を輝かせた。
「この、上の部分……さくさくしてるんですね!」
「“クッキー”と“パン”を一つにした贅沢仕様だ。スイートクッキーブレッドって名前も、ちょっと高級感あるだろ?」
焼き立てを手に取り、俺は少女に差し出した。
「じゃあ、聞くけど。これ、普段のパンの三倍の値段で売っていたら──買いたくなるか?」
少女は一瞬黙りこくった。眉をひそめ、パンと俺の顔を交互に見つめる。
「……すぐには、わかりません」
「だよな。だから、試しに食べてみればいいんだよ」
「試しに……?」
「試食だよ。無料で味見させて、“これ欲しい!”って思わせるんだ」
少女は恐る恐るパンを両手で受け取り、ひと口かじった。
さくっ。中から、ふんわりと甘い香りと柔らかい生地の優しい味が広がる。次の瞬間──少女の表情がぱあっと明るくなった。
「おいしい……! なんですかこれ、また食べたくなります!」
「それが“試食”の力だ。食べてもらえば、言葉はいらない。売れる理由を口じゃなくて、味覚で伝えるんだよ」
俺がどや顔でうなずいたそのとき、厨房の扉が開いた。
「おまえ、まさか知らないやつを厨房に入れたのか?」
入ってきたのは、年配の男性と、その後ろに控えた落ち着いた雰囲気の女性。少女が顔をほころばせ、駆け寄った。
「パパ! ママ!」
女性は娘の肩越しに、俺の顔を警戒するように見た。
男性──少女の父親は、俺に厳しい目を向ける。
「えっと、この人……あのね、お店を助けてくれるって……!」
言葉を探している少女に代わって、俺が前に出た。
「通りすがりのものです。そちらのパンを食べて、勝手に“惜しい”と思ってしまいまして…」
「変なやつだな。娘と何をしていた?」
「新しいパンを一緒に試作していました。これが、“スイートクッキーブレッド”です」
俺は焼き立てのパンを差し出す。父親は眉をひそめ、それをしげしげと見つめる。
「……なんだ、この見た目は。はじめて見るパンだ」
母親が興味深そうに手を伸ばし、一口かじった。次の瞬間、目を見開き、思わず声をもらす。
「……なにこれ。おいしい……!」
父親も渋々、ひと口。咀嚼するうちに、表情がほんのわずかに揺らいだ。
「……なるほど」
しかし、すぐに真顔に戻る。
「だが、味だけでどうにかなる話じゃない。こっちはな……向かいに新しいベーカリーができてからというもの、ずっと客足が遠のいた。この店はもうダメだと……半ば諦めていたんだ」
その言葉に、少女がぎゅっと拳を握った。
「だからこそ、やってみたいの! 私、このままじゃダメになるって分かってた。でも、どうすればいいのか分からなかった。でも──この人の話、すごく納得できたの。わたし、やってみたい!」
父親は娘を見つめる。真剣なまなざしに、しばし言葉を失ったようだった。
沈黙ののち、小さく息を吐いてつぶやく。
「……まだ、遅くないのか」
そして、俺を見た。
「……先ほどは失礼なことを言ってすまなかった。どうか、うちを助けてくれないか?こんな小さな店でも、妻とはじめた大切な城なんだ」
俺は、にっと笑った。
「任せてください。まずは、このパンを“売れるパン”にしましょう」
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