第19話 空の箱作戦
ティアの言葉は、俊の『空の箱戦略』に、予測不可能な亀裂が入ったことを意味していた。
第三倉庫の連中は、すべて総合倉庫へ移動したはずだ。残っているのは、侯爵の計画外の『イレギュラー』だ。
俊の額に、冷たい汗が滲んだ。この場所で戦闘になれば、作戦は即座に失敗し、命はない。
(なぜだ? バルツは全ての戦力が移動したと報告したはず。残務処理か? いや、もし残務処理なら、それは第三倉庫の機密文書に関わる最も危険な人間だ)
俊は、ティアに再び口パクで尋ねた。
「荷物の形状は? どんな人物だ?」
ティアは、全身の神経を闇の奥に集中させた。
「……荷物は、木箱。小さくないけど、一人で持てる大きさ。そして、あの人……衛兵の服装じゃない。そして、すごく怯えている」
衛兵ではない。そして、怯えている。俊の頭の中で、情報が瞬時に再構成された。
(衛兵ではない。鉄の鎖の熟練戦闘員なら、怯えたりはしない。これは侯爵の私的な使用人だ。侯爵の誰にも見せたくない『私物』の移動を任された、使い走りの可能性が高いな)
俊の冷徹な目は、通路の奥、闇の中から姿を現し始めた人物を捉えた。ティアの分析は正しかった。
それは衛兵の鎧ではなく、侯爵邸の使用人――おそらくは執事の一人だった。彼は、木箱を抱えるようにして、肩で息をしながら、慎重に地下通路を移動している。
そして、その人物が向かっている方向を見て、俊の顔色が変わった。
(ティア、隠れろ)
俊は、ティアを連れて、T字路の角の、武具庫の積み上げられた資材の影に身を潜めた。幸い、その人物は疲労と恐怖で周囲への注意がおろそかになっている。
使用人は、重い木箱を抱えたまま、T字路を通り過ぎていった。彼は、第三倉庫へと続く左側の通路ではなく、古い武具庫や食料庫のある右側の通路へと向かった。
(……待て。右側? なぜだ!)
俊は、心臓が脈打つのを感じた。第三倉庫に、設計図が残されるという『論理上の確信』が、今、この使用人の行動によって、音を立てて崩れ去った。侯爵は、最後にリスクヘッジの最終段階を実行したのだ。
(第三倉庫の金庫は、外部の攻撃には強いが、侯爵邸の内部の者による盗難、あるいは内部の衛兵による不正には弱い。バルツの進言を受けた侯爵は、「設計図を金庫に残す」という最初の判断を、「最後に、最も信頼できる私的な人間に、第三倉庫から設計図を回収させ、より安全な私的な隠し場所に移させた」んだ!)
バルツの進言は、侯爵に『一時保管』という考えを植え付けたが、侯爵の『極度の情報漏洩への恐怖』は、最後の最後で、俊の予測を超えた行動を取らせた。
「兄さん、どうする? 行くべきは、第三倉庫じゃないの?」
ティアが震える声で尋ねた。俊は、もはや躊躇しなかった。目の前を通り過ぎた『ノイズ』こそが、真のターゲットとなったのだ。
「ターゲットが変わった。ティア、作戦変更だ」
俊は、羊皮紙を丸め、ランプの光をその使用人が消えた右側の通路に向けた。
「我々が追うべきは、『空の箱』ではない。あの男が運んでいる『最後の木箱』だ。侯爵の最も秘匿したい情報は、今、あの男の手の中にある」
それは、俊にとって最も確実性の低い、アドリブの追跡劇の始まりだった。しかし、彼の最終目標(命の安全)を達成するためには、この『使用人の追跡』こそが、最も合理的な選択だった。
「行くぞ。だが、音を立てるな。戦闘は絶対に避ける」
俊は、ランプの光を壁に向けて隠し、通路の角から素早く身を乗り出した。古い貯蔵庫へ続く右側の通路は、湿気とカビの匂いが強く、長らく使用されていないことが窺える。
ティアは、俊の服を握りしめ、目を閉じて、その使用人の**『気配』**を追った。
「兄さん、まだ近くにいる。速度を落としている。すごく疲れていて、不安を感じている」
ティアの報告は、追跡において完璧な地図となった。俊は、その使用人の**『疲労』と『怯え』**という心理的な穴を利用し、追跡の速度を調整した。
通路は、古い樽や、埃をかぶった武具が積み上げられたエリアへと続いていた。その先の、石壁が途切れた場所に、奇妙な**『石畳の段差』**が見えた。
(ここだ。この通路は貯蔵庫エリアで終わるはず。この先は、バルツも知らない私的な空間だ)
俊は、その段差の手前で立ち止まった。ティアの報告が、緊張に満ちた小声で入る。「止まった。今、荷物を床に置いた。そして、何かを探っている……」
俊は、壁に身を寄せたまま、息を殺して待った。カチリ、と、通路の奥でごく小さな金属音が響いた。
侯爵邸の使用人が、壁に巧妙に隠されていた**『隠し扉』**を開けたのだ。
それは、砦の地下通路の一部を、侯爵が私的に改造させた、第三倉庫以上の秘匿空間への入り口だった。
使用人は、重い木箱を抱え直すと、隠し扉の奥の闇へと消えていった。扉は、自動で閉まる仕組みになっている。
「今だ、ティア!」
俊は、音を立てるのも構わず、全力で飛び出した。
隠し扉が完全に閉まる寸前、俊は扉の隙間に手をねじ込み、強引に動きを止めた。ティアがすぐに俊の肩を押し、俊はそのまま体を滑り込ませるように、隠し部屋へと転がり込んだ。
石造りの小さな隠し部屋は、外の通路よりも空気が乾燥していた。中央には、頑丈な鉄の金庫が一つ置かれている。使用人は、その金庫の前に立ち、持ってきた木箱を床に置いたばかりだった。
俊とティアの突然の出現に、使用人は悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。彼の顔は、恐怖で歪んでいる。
「ひっ……だ、誰だ!?」
「静かに」
俊は、冷静な声で言い放った。彼は、戦闘を避け、交渉に持ち込むことを最優先した。
「私たちは、侯爵様に雇われた者だ。貴殿が運んでいる『木箱』の中身を確認するよう、最終的な任務を受けてきた」
俊は、その場にある最も説得力のある嘘を選んだ。使用人は、怯えながらも、床に置かれた木箱を抱きしめた。
「う、嘘だ! そんな命令は聞いていない! これは、侯爵様の最も大切なものだ!」
「最も大切だからこそ、侯爵様は貴殿の運んだ『木箱』を、この場で直ちに確認するよう命じたのだ」
俊は、一歩近づいた。
「抵抗するな。私たちは貴殿の命を奪うつもりはない。だが、もし侯爵様の任務を邪魔すれば、貴殿の未来はない」
俊は、ここで一切の猶予を与えなかった。彼は、床に落ちた木箱の蓋に手をかける。
木箱は、内側に羊毛が丁寧に敷き詰められた、厳重な作りだった。そして、その羊毛の中に収まっていたのは、ティアが以前、侯爵邸で目撃したものと寸分違わない、分厚い羊皮紙の束だった。
俊は、羊皮紙の一枚をめくった。そこに描かれていたのは、複雑な歯車機構と、巨大な魔石の挿入口を備えた、恐るべき『魔導砲』の設計図だった。
「成功だ、ティア」
俊は、ティアと目を合わせた。その達成感は、かつて、自分がフォルクナー商会の年間売上目標を達成した瞬間に匹敵するものだった。
侯爵の最後の保険を奪った。『魔石銃』の製造を可能にする情報の核心は、今、俊の手の中にある。
「さて」
俊は、床に座り込んだ使用人を見下ろした。
「貴殿には、次の合理的な選択を教えて差し上げよう」
その言葉は、俊が侯爵の使者という役割を終え、ここから取引のフェーズに入ったことを意味していた。
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