第19話 空の箱作戦
俊は、夜の闇に紛れるため、ティアを連れて書斎を出た。彼らが向かうのは、侯爵の私的な庭園。そして、その庭園の片隅に置かれた、古い樽の下の『裏口』だった。
今、侯爵邸に残る衛兵の意識は、すでに侯爵が向かった総合倉庫と砦に集中している。書斎の扉を静かに閉め、俊は細心の注意を払って廊下に滑り出した。館の内部は、使用人たちも深夜の静寂に沈んでいる。
二人は、靴音を立てないよう、絨毯の上を滑るように進んだ。廊下の突き当たり、庭園へと続く扉の前が、彼らにとって最後の内部の関門となる。
本来、そこには夜間警備の衛兵が一人立っているはずだった。
ティアは息を呑んだ。だが、扉の前は無人だった。
俊は、ティアに囁いた。
「バルツ隊長の最後の仕事だ。彼は衛兵隊長の権限を使い、この警備担当者に『庭園の不審な動きがあったため、一時的に警備体制を外部の者に引き継ぐ』という偽の緊急命令を出した。衛兵は、侯爵の目を恐れて、その命令を忠実に実行したんだろう」
侯爵は、魔石銃の移送で頭がいっぱいであり、内部警備の小さな変更など気にも留めていない。バルツは、その侯爵の油断と権限を最後に利用したのだ。
二人は、音を立てないよう進み、庭園へと続く重い扉を開けた。夜露に濡れた芝生の匂いが、彼らの顔を冷やした。
広大な侯爵の庭園も、深夜の闇の中では監視の目が行き届かない広大な迷路となる。俊は、懐からバルツが書き込んでくれた庭園の略図を取り出した。
「井戸の抜け道はこの庭園の南西の角。大きな生垣の裏だ。目印は『古い樽』……ティア、急ぐぞ」
彼らは、月明かりの下、庭園の暗がりを縫うように進んだ。一歩踏み出すたびに、靴の裏で芝生が押し潰される微かな音が、世界の終わりを告げる警鐘のように響いた。
ようやく、生垣の裏側、庭園の隅に辿り着いた。そこには、確かに古びた木製の樽が置かれている。
「これだ……!」
俊は、周囲に気配がないことを確認すると、樽に手をかけた。樽は重く、中に液体が入っているようだった。
「俊さん、私が手伝う」
ティアがそっと肩を並べ、二人は力を込めて樽を横に押し倒した。
樽が転がった跡には、古びた石板が敷かれた地面が見えた。その石板の中央には、錆びた鉄の輪が埋め込まれている。
「この下だ」
俊は、鉄の輪に指をかけ、全身の体重をかけて引き上げた。石板の下からは、冷たい湿った空気と、古い土の匂いが立ち昇った。
そこに現れたのは、成人一人がようやく通れるほどの、暗い縦穴。
俊は、懐から小さな油のランプを取り出し、火を灯した。ランプの光が、井戸の内部の石壁をわずかに照らし出す。
「ティア、降りるぞ。ここからが、本番だ」
俊は、ランプを口にくわえ、井戸の淵に足をかけた。その表情は、いつもの冷静なマーケターの顔に戻っていた。
「最終目標(命の安全)まで、残り、数時間だ」
俊は、井戸の石壁に這う蔦や、石のわずかな突起を足場に、ゆっくりと地下へと滑り降りていった。穴の深さは、目算で十メートルほど。湿気た石壁が、彼の服を濡らす。
「俊さん、気を付けてね」
俊が底に辿り着いたのを確認すると、ティアもまた、迷いなく井戸の縁に足をかけた。彼女は、王都でパンを売っていた頃の明るい看板娘の面影を消し、俊の側に立つ同志の顔をしていた。
数分後、二人は湿った井戸の底に立った。そこにはバルツの情報通り、井戸の壁に沿ってさらに奥へと続く人造の横穴が口を開けていた。
「バルツ隊長は、ここを『数年前に塞がれた抜け道』だと言っていた。つまり、侯爵も『鉄の鎖』も、この道の存在自体を、警戒していない」
俊は、手にランプを持ち、横穴の内部に光を向けた。石造りの通路は狭く、頭を低くしないと歩けない。足元は泥と水で滑りやすかった。
「魔石銃の製造は、ここから数百メートル先の第三倉庫だ。ティア、音を立てるな。ここからは、俺たちの情報と、感覚だけが頼りだ」
俊は、羊皮紙にバルツが描いた『砦の解剖図』を広げた。通路は、侯爵邸の地下から砦の地下へと、緩やかな上り坂になっている。
横穴を進むにつれ、通路は侯爵邸の地下の泥臭さから、硬く乾燥した石造りの地下通路へと変化していった。湿気た空気の中に、微かに鉄の匂いと、石炭のような匂いが混ざり始める。
「ティア、気をつけろ。もう、砦の地下通路に入った」
バルツの情報によると、この地下通路は砦の主要な貯蔵庫と繋がっているが、深夜は巡回ルートから外れているはずだ。しかし、彼らが今いる場所は、もはや侯爵の『裏庭』ではない。いつ衛兵と遭遇してもおかしくない、敵の心臓部だ。
俊は、壁にそっと耳を当て、周囲の音を探った。遠くで、衛兵の足音のようなものが聞こえるが、それは規則的な巡回の音であり、こちらの異常を察知したものではなさそうだ。
「通路は、この先で貯蔵庫のエリアと合流する。第三倉庫は、そのさらに奥だ」
俊は、ティアに一つの指示を出した。
「ティア、もし少しでも人の気配や異様な音を感じたら、すぐに俺の服を引け」
ティアは静かに頷いた。
二人が壁に身を寄せながら慎重に進んでいくと、ランプの光が届かない闇の奥で、通路はT字路に突き当たっていた。
「ここが、貯蔵庫エリアだ」
俊は、バルツの図面と、目の前の地形を照らし合わせる。図面によると、T字路の右側が食料庫や古い武具庫、左側が第三倉庫へと続く、より新しい通路だ。
「心臓部へ向かうぞ」
俊が左側へ足を踏み出そうとした、その瞬間だった。
チッ、と、微かな金属音が、通路の奥から響いた。それは、衛兵が持つ剣の鞘が、壁に軽く擦れる音だった。
ティアは、俊の服を強く引っ張った。俊は即座に壁の影に身を潜めた。
「どうした?」
俊は口パクで問う。
ティアは、恐怖に顔を青ざめさせながら、微かに首を横に振った。彼女の瞳は、闇の奥をまっすぐに見つめている。
「……衛兵じゃない。誰か、一人だけ。足音は聞こえないけど、すごく大きな荷物を運んでいるみたい」
衛兵ではない。一人。そして大きな荷物。
俊の頭の中で、バルツから得た情報と、この状況が瞬時に結びついた。第三倉庫は、すでに『空の箱』になっているはずだ。なぜ、この深夜に、衛兵ではない誰かが、大きな荷物を運んでいるのか。
(空の箱戦略は成功した。第三倉庫の連中は総合倉庫へ向かったはずだが……)
俊の額に汗が滲んだ。それは、計画の計算外の『ノイズ』が、発生した瞬間だった。
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