帰宅・遺影・仕事場の机
自宅に帰る前に和也として光輝は治江と病院で相談をしていた。当然のことながら光輝を相手に話している相手は息子の和也だという前提になっている。治江の言ってる内容が分からないことが多数あった。治江、花梨、瞳には事故で記憶が曖昧になっていると伝えていた病院の医師に口裏を合わせて息子を演じ続けていた。事故による一時的な記憶の喪失、いつ戻るかは分からない。日常生活をしながら 気長に待つしかない。この方が光輝にとって都合がいい。
そして退院の日、春江の運転にする車で自宅に戻ると、自宅兼設計事務所で瞳が迎えてくれた。
「おかえり、かず君」
「ただいま」
疑う余地もなく息子と瞳は恋愛関係にある。
「記憶まだ思い出せないんだ」
「うん、大丈夫絶対記憶は戻るから。焦らないで、気長にやろう」
そう言われると、瞳をだましているようで心苦しかった。治江が高校の方と話をつけてくれていたようで、約 3ヶ月を超える入院による病欠のため、しばらく体を慣らすために自宅でもリハビリが必要だったために、3月一杯まで休学して、4月から復学してもう一度 2年生からやり直すという結論に達していた。治江からこの相談があって光輝もそれがいいだろうと考えていた。特に記憶がないことを学校側に伝えてほしいと伝えていた。光輝が和也として復学した時に何も分からないわけで、その辺のつじつまを記憶喪失と出来れば都合がいいし、何よりそれなりに準備をするのには時間が欲しかった。
自宅のリビングに入るとリビング脇和室に仏壇が置かれていた。その中に光輝の遺影が飾られていた。笑っている。
(こんな 笑った写真なんかあったのか。いつ撮ったのだろう?)
本当に自分は死んでしまったのだなという複雑な思いにとらわれた。再三に渡って頭の中を巡っている1つの不安と疑問。
(和也の体に僕の精神が宿って今生きているなら、和也の精神はどこに行ってしまったのだろう。ひょっとすると僕の体の中に精神が入れ替わりそのまま死んでしまったのではないか)
治江から何度も聞いていたことだけど、改めて自分が死んでしまったことを突き付けられて胸が張り裂けそうになる。自分の身代わりとしてそう思うと目から大粒の涙が溢れ出てきた。
すでに葬儀も済んでしまっている。事故から3ヶ月以上経っているのだから当たり前だろう。
(困ったな。僕の意識の中には自分の記憶は残っていても、息子の記憶が残っていない。つまり息子が息子として生きてきた記憶がまるでない。この先現実問題、僕は和也として生きていかなければならないのか)
そんなことを考えると光輝は自分の仏壇の前でへたり込んでしまった。
「お父さんは最後にあなたをかばって死んでいったのだから、せめて和也はお父さんの分までしっかりと生きて」
やっと、我に帰れて顔を上げた。
「あの父さんの仕事はどうなったの? 父さん死んじゃったから仕事はそのままなの?」
頭の中にあったもう一つの不安。
「母さんと瞳さんでなんとか回しているわ。とにかく父さんが亡くなった特に、やりかけの仕事がたくさんあったから。でもなんとかしていくつもりだからあなたは心配しないで」
その後、息子の部屋に入ってみた。
(これから和也として生きてくならば、これまで生きてきた何らかのヒントが見つかるかもしてない)
引き出しの中へ置いてあるものをじっくりと見回した。
(自分の部屋、そう治江との寝室を覗いてみたかったが今は無理をするのはやめよう。明日からその機会はいくらでもある。3月いっぱいまで自宅でリハビリということになっているしな)
その日の夕方、
「お兄ちゃん」
学校から帰宅した花梨が笑顔で抱きついてきた。仕事が終わったら瞳もリビングにやってくることになっている。
「今日は和也の退院祝いしないとね」
治江はそう言って
「あなたの好きなもの作るからね」
(本当は僕の好きなものを作って欲しいのだけど、それは言えないからな)
1時間ほどすると治江と花梨と瞳、3人並んで台所で料理を作っていた。山のような唐揚げそれにメンチカツ、ハンバーグにグラタン。どれも息子の好物だった。光輝は48歳のおっさん。
(洋食かぁ。日本酒を飲みながら刺身や煮物いいんあだけどな。こんなに脂っこいもの食べれるかな)
正直不安になる。
「たくさん食べてねお兄ちゃん」
「 たくさん食べてカズ君」
(女性陣は自分がいないとこんな感じだったのか)
「どうしたの全然食べないじゃない。もっと食べていいんだよお兄ちゃん」
「私の作ったメンチも食べて」
「母さんのハンバーグも食べてみてね」
夕食が始まると女性陣の食べての要求がすごかった。
「ごめん、お腹いっぱいだよ。久しぶりだとあんまり食べれないね。病院の食事は少量で味が薄くてあっさりしたものばっかりだったから」
(あ~酒が飲みたい。本当だったら退院祝いをビールで乾杯してから日本酒。締めでウイスキーロックでていきたいところだ。だけどこの体じゃそうは言ってられない)
幸い10年前にタバコはやめていたので、吸わないでもいられた。でも酒だけは、こればっかりは体が変わっても記憶の中に嗜好品の記憶が残っている。辛いところであったけど、本当に息子の好物攻めで腹が一杯になっていた。
その日の夜、眠れなかった。和也のベッドで寝るのは初めてだろう。 なかなか寝付けないでいた。時計を見るとすでに12時を過ぎていた。再三心配になっていた事。どうしても確かめたいことがあった。そしてそれを実行するために寝室のドアを音を忍ばせて開けた。
治江と花梨が寝付いたことを確認すると、足を忍ばせて事務所に向かった。 自宅内から事務所へは内部のドアで行き来できる。深夜の事務所内。3ヶ月前よりも多少書類が整理されていた。あの日事故ってしまい、抱えていた設計の案件を全て投げ出してきてしまっていた。幸いなことに自分の席はそのままで書類が山積みになっていた。愛用椅子に座ってみる。部屋の電気はつけず机の上のスタンドだけをつけた。パソコンの電源を入れる。それぞれのパソコンにはパスワードをかけてあった。覚えていたパスワードを入れるとWindowsが立ち上がった。登録してあるメディアプレイヤー内のクラシックの音楽を音量を下げてアットランダムに起動させた。ドヴォルザークの交響曲が静かに流れ始めた。目を閉じて静かに呼吸する。深夜の事務所内に流れるクラシック。懐かしい日常。我が家に帰ってきたんだと実感することが出来た。しばらく余韻に浸ってから、マウスを操作してフォルダをクリックして自分の抱えていた設計の案件を確認する。データは3ヶ月前の描きかけの状態から平面図や立面図が完成されて入力されていた。おそらく治江か瞳が打ち合わせをして入力したのだろう。
(違う、これでは駄目だ。僕の考えていた設計案ではない)
それでも描き直すわけにはいかない。次にエクセルのデータを開き財務会計の状況を確認した。僕が抱えていた物件の1/3は完了しているらしい。
(治江と瞳君には本当に苦労をかけた)
状況は事故の日よりも進んでいる。
身に染みた習慣で立ち上がり暗闇でお湯を沸かすと、愛用のカップにドリップコーヒーを入れて席に戻る。音楽を聴きながら目を閉じてコーヒーを口にした。事故前の毎日の光景。
(一体これからどうなるのだろう)
安堵感と不安につつまれていた時に突然照明がついた。
「何をしているの?」
そこにはガウンを羽織った治江が戸口に立っていた。