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二百年史

情報局

作者: 鱈井 元衡

2314年、京都府秋津あきつ大学に勤務する曽山そやま龍寛たつひろ教授の講義ノートより


 渡辺日本は情報戦略を極めて重視した。多くの災害や戦争で人材を失い、国力に乏しい以上、いかに他の国を騙し、出し抜くかに最大の関心を払わねばならなかった。

 国家の空気感を最も、支配したのはその辺に敵がいるということに対する恐怖であり、恐怖心と憎悪こそが社会を統制する手段だった。そのために必要以上に他者に排他的にならねばならない時代だった。

 だが、他者に無知でいられるはずもない。恐怖があるからこそ、その恐怖を打ち消すためにいかに敵を知り、いかなる対策を打ち立てなければならないか、為政者はひたすら苦心し続けた。


 特殊鉄鋼の中に、他の企業や国家機関から情報を収集する部門が秘密裏に置かれていた。特鋼は民間軍事企業としての一面が取り立てて有名だが、情報戦略においても非常に研究を行っており、潜入調査などにたけた優秀なエージェントを育成していたことが伝わっている。

 特鋼が短いながらも密度の高い歴史の中で蓄積したノウハウは確かに渡辺日本に継承されており、渡辺日本の負の側面として悪名高い情報局もまた、特鋼の軍事研究の賜物といっても過言ではなかった。


 情報局は諜報や破壊工作のみならず、国民の行動の監視など、幅広い業務を担当した。

 その全容に関しては、民主制移行直前に多くの資料が焼却されたことや、旧職員が秘密を守ってこの世を去ったことから未だに明らかになっていない。情報局の存在そのものは明らかであったが、情報局の内情は闇に閉ざされている。世間で喧伝されている情報局の残忍な所業や、陰謀とされているものは、情報局が事実を知られないために積極的に間違った情報を広めさせた面が大きい。

 正式な成立は2064年で、初代長官は長谷川はせがわ炭治郎たんじろうであった。炭治郎は救国戦争の間、特鋼の機密情報を哲雄率いる救国軍に知らせる役割を果たした。

 渡辺哲雄政権の発足直後は、国内はいまだ戦争で荒廃しており、兵器が至る所で流通し、いつまた大規模なテロや武装蜂起が起きてもおかしくない状況にあった。国内の危険分子をいちはやく発見することが急務であった。炭治郎は潜入や偵察のために各地を飛び回っていたため土地勘が冴えており、そこに哲雄は才能を見込んだのであろう。

 炭治郎の人柄に対しては、謎が多い。ただ彼は、口数が少なく、基本的に他者と付き合うことがほとんどなく、交友関係を持つこともなかった。

 そのために彼の素の姿を知るものはほとんどなく、前半生に関してはほとんど分からない。ただ彼も特殊鉄鋼の社員であり、哲雄の蜂起に呼応して彼の元に馳せ参じた所から彼の数奇な生涯についての記録が始まる。

 だが哲雄とは自衛官だった頃から旧知の間柄であったらしい。そして共に特殊鉄鋼の防衛部門に入社し、苦楽を共にした。

 哲雄の将軍就任以後、彼への崇拝を深めるため、自ら民衆の憎悪を一身に浴びたのは炭治郎であった。今日、炭治郎は太平洋戦争後の政財界を牽引した人物の子孫たちの虐殺を主導した、民主化運動家を拷問し処刑したなど、あらゆる悲劇の首謀者として弾劾されている。

 哲雄の死後、炭治郎は殉死を試みた。しかし止められた。神君の幻影を見たとされるが、詳しいことは分からない。彼は神秘体験だと考えていたようだが、現代的解釈としては単なる幻覚や妄想以上のものではないだろう。

 気を取りなおした炭治郎は、自分が哲雄の権威を永遠に伝える使命を与えられたのだと告げ、情報局はその使命を果たし続けなければならないと職員に言い聞かせた。炭治郎が情報局長を辞任した後も、彼を継いで就任した者たちは炭治郎の冷酷な掟を遵守し、あらゆるテロ行為や拷問をほしいままにした。

 事程左様に、情報局は、現職の政府や将軍より以前にまず神君に仕える組織である、ということを自負していた。

 組織のスローガンとして「神君の耳目」であることを掲げ、新規局員に対してその義務を果たすことを誓約させた。そのため組織の雰囲気はさながら宗教組織めいていた。情報局がカルト的な雰囲気をまとっていたことを伝える、ある逸話がある。

 開城ケソン事件において情報局の派遣した工作員により捕縛された、反体制派の民主化運動家であった石黒いしぐろ嶺児みねじ(2099-2167)は、日本に強制送還され拷問にかけられたが、一切哲雄を非難し、現状の日本国家を否定する自説を曲げることはなかった。そこで担当職員は一計を案じた。

 職員は顔を隠して、瀕死の嶺児を独房から連れ出した。そして「君は今から民主化運動に殉教した者たちに連なるのだ。光栄に思うがいい」と告げ、深い穴の中に嶺児を閉じこめた。そして時折穏やかな態度をみせながら、嶺児を生かさず殺さずの状態で誘導した。

 数時間後、嶺児は、激しいショックのために何かの光を見たらしい。その時から嶺児の人格は突如として変貌した。彼は今までの政治思想を完全に捨て去り、政府の意向に忠実な愛国者となった。

 後々行われた尋問で、この拷問の間に起きたことについて嶺児は「私は神君を見た」と職員に回答した。あとで種明かしがあっても、嶺児は哲雄を見たといって憚らなかった。そのためしばしば、嶺児は神秘体験を経験したのではないかという説がある。

 それ以来嶺児は熱心な神君信者となり、少しでも渡辺哲雄を冒涜した人物を摘発した。嶺児の『回心』は渡辺時代には美談とされ、民主共和国時代になると渡辺政権の狂気として語られるが、このエピソードは情報局がいかにカルト的な性格を持っていたか伝える恰好の題材となっている。そしてこの嶺児の件を応用して、反体制派に神秘体験を経験させ、神君信者に転向させる事例が情報局の記録にはたびたび登場する。


 嶺児は反体制派から情報局へと入った極めて特異な人物であるが、基本的に新規職員が情報局に加わる経緯は千差万別で、これといった正規な手段は存在しない。軍の中でも秀でた者が登用された他、ITや金融企業の社員からスカウトされた例もある。

 情報局は部署からは独立しており、将軍に直属する組織とされ、その権限はかなり自由がきいた。そのため、しばしば軍隊や警察とは衝突した。この衝突は時として組織同士が鍛錬する起爆剤となったという指摘もある。


 情報局は、最初から全く隠密に行動する組織だったわけではない。初期は、治安維持のために比較的公然と活動しており、時には民衆の生活にも警察のような機能を果たしたこともあった。炭治郎自身はあくまで隠密行動を担当していたが、これに対して行政への介入など、対外的な指導を行ったのが松田まつだひとしであった。炭治郎と同じく哲雄の古参であった等は炭治郎の非道な行為に反対していた。

 等は同僚と反目を重ねた末に、炭治郎の跡を継いだかたな亮輔あきすけ――かたなまことの甥――から退職を勧告された。等は激怒して退職届を引きちぎり、組織から身を引いた。

 だが、等にしてもあくまで国内外の社会を大いに揺るがすような行為を否定していただけで、民衆を抑圧するような体制を決して全否定したわけではなかった。亮輔は等の国内向けのキャンペーンをさらに推進し、その主眼は神君崇拝の定着となお流動的であった国民の把握にあった。


 2041年以降、旧日本政府は都道府県をいくつかの州に統合し、渡辺時代もこの行政区画を踏襲したが、情報局は国内の情勢を調査し監視するにあたってこの行政区画を大いに活用した。都道府県の上のある州制度はより広範囲、より深い段階へ迅速に指示を行き渡らせ、人員の移動を可能にすることを目的としていた。少子化や過疎化による社会変化に対応するのが州の第一の目的だった。

 22世紀初頭までの日本が民衆を徹底的にこの州の管理下に置く事業にいかに腐心したかは別の解説にゆずるとして、情報局は州ごとに支部を置き、各地で秘密の活動を展開していた。

 今ではあまり知られていないことだが、法制度としてきちんと機能する前に内戦を経験してしまい、有名無実の物となっていた州制度を定着させたのは情報局の功績と言ってもいい所がある。

 情報局の介入とは、他でもなく土地の精査による国民の管理であり、国家の管理下を逃れた人民が存在しないようにすることで支配を盤石にすることにあった。ゆえに情報局はしばしば住民の把握と監視のために各州の政府と接触した。

 州制度は戦乱によって離散した国民を哲雄が新たに再編した共同体の中に統合し、情報局は共同体に集まった国民の中に反乱分子がいないかどうか調査したのである。

 情報局が州に対して情報提供をしたり、逆に州から情報局に対し秘密の調査を以来する事例もあったようだが、このような記録は22世紀に入ってからほとんど見られなくなる。

 情報局は治安維持のために当初は広範な権限を有していた。それが、社会が次第に安定するにしたがって組織の規模が縮小し、行動目的も内密なものになっていったというのが定説となっている。

 だが、いずれにしろ汚れ仕事を扱う情報局は常に国外のみならず国内からも軽蔑されていた。将軍ですら、情報局に対しては基本的にいいイメージを持っていなかった。神君の耳目であろうという宗教的情熱のもと尽力していた頃はそれでも構わなかったかもしれないが、社会が予期しない方向に変化していくにつれ情報局の内情は現実の情勢と合わなくなっていき、実務に齟齬をきたすことが多くなっていった。

 このように情報局が周囲との対立を深める中で、将軍は情報局や警察機関を出し抜くため自分自身の『按察使あぜち』と呼ばれる自前の密偵集団を組織するようになり、この行動は情報局を怒らせた。情報局も、規模の縮小と零落で柔軟性が失われた結果、多様性に乏しい紋切り型の人材ばかりが集まるようになっていたのである。

 旧体制からの脱却を図り、民主政治に備えて改革を進めた渡辺匠は、国家の保安の名目で独断専行に走り、将軍の威光にすらたてつく情報局を叱責した。

 これに対して情報局は、神君への反逆であるとして逆に匠を恫喝した。これが主に若い世代を中心とする改革派にとっては情報局への激しい批判の引き金となり、情報局の地位は大きく低下していく。かつては国家の保安のために手練手管を尽くした情報局も腐敗が進み、機能しなくなっていた。(2)

 それでも情報局は将軍や他の組織との関係が複雑で整理しがたかったことや、属人性の高い業務を請け負っていたこともあり廃止に向けての議論が進まず、民主共和国成立まで廃止されることがなかった。

 だが、渡辺時代を通じて、国家機関が秘密警察的装置を駆使して国民を監視し、時に弾圧する風潮は変わらなかった。建国当初の、内外への恐怖と憎悪は一貫してこのような非人道的行為の継続を社会に強い続けた。そして民主共和国の成立から数年間、情報局はなお滅びずに生き延びていた。

 2272年、新政府により明確に情報局の解体が宣言され、いよいよ情報局庁舎に初めて外部の調査の手が入った。多くの悪行について記した資料は詰問されるのを恐れた職員により焼き払われるか、ほとんどどこかへと持ち去られていたが、会議室の壁に一体の小さな哲雄像が、円卓を見下ろすように立っていた。この像はすぐさま棒で叩き落とされ、転落してそのまま砕け散った。

 民主共和国にとっては情報局は最初から国民の弾圧を指導し続けた悪魔の根城であり、渡辺哲雄の歪んだ支配の根源であった。そのため、情報局の所業と内情の調査は今に至るまで国家規模で研究対象となっている。

 そして現在でも、旧情報局の関係者への追及は続いている。

 数ヶ月前も、かつて情報局に勤務していた90歳の男性が、民主運動家を弾圧していた職員の秘書であったかどで糾弾されたというニュースが流れた。いまだ民主共和国が旧日本のイメージを払拭する日は遠そうだ。


(1)こうした組織の乱立は、一般市民にとっては秘密警察から二重や三重に支配されることになり、一挙手一投足に渡って生活を監視されるストレスは相当なものだった。そのため警察権力に対抗する組織である軍へと信望が集まることになり、軍よりも警察への太平洋戦争後とは様相がかなり変わった。


(2)2202年、按察使の報告により情報局が将軍暗殺計画を立案した疑惑が持ち上がった。情報局は、ことを計画した下位の職員に自決を命じたことで事態を収束させたが、これが真実なのか、あるいは他の組織による陰謀なのかは定かではない。


 ○参考文献


古木ふるき健也けんや「情報局」2292年、民主文明社。

石井いしいたかし「初期哲雄政権資料集成」2196年、国史研究会。

香野こうの仁一じんいち「渡辺時代の情報戦略」2309年、近現代史出版。

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