2 逃亡と失敗
ロイアルバから言われた時はイマイチぴんとこなかったけれども、妻と聞いて私は思い出した。
「貴方の嫁ぎ先はエバガンテに決まりそうよ」
そうお母様から聞いていたことを。
グシャナト公国百年の歴史の中で、今までの公女達は十六になると同時に家臣へ下賜されたり、他国へ嫁いだりした。
私が十八まで嫁ぎ先が決まらないのは、より良い嫁ぎ先を吟味しているからだと家族から聞かされていたけれども、愛されていると幸せを感じたこととはまた別に、やはりどうしても若干の焦りがあったので、母から嫁ぎ先の話を聞いた時はとても嬉しかったことを覚えている。
エバガンテは、リンダンロフ帝国よりも力は劣るが、グシャナト公国と比較的友好的な関係にある共和国である。
共和国といえど、国民から選ばれた国家元首はここ四十年程変わっておらず、実質君主制のようなものだ。
エバガンテの国家元首は祖父くらいの年齢で、後宮には三十人近くの妃を抱え、そしてその倍程の人数の子供達がいた。
私が嫁ぐのは国王の孫のうちの誰かだろうと思った。
その内の誰に嫁ぐことが決まったのかお母様に聞いても、「候補が沢山いすぎて、誰だかはっきりしないのよ」と困り顔をされていたが、そう言うからには候補は何人かに絞れていたのだろう。
ただ、王位継承で揉めているらしいから、なかなか決まらなかったのかもしれない。
国を復権させるには、力がいる。
ならば、味方を増やさなければならない。
リンダンロフに連れて行かれては、味方なんて作ることが出来ないだろうし、下手をすれば復讐を果たす前に自分が殺されてもおかしくない。
──一度、エバガンテに亡命しよう。
そこから体勢を建て直して、エバガンテの後ろ盾を得て公国を取り戻すのだ。
公国を取り戻したら、エバガンテと一緒にリンダンロフを攻め落とす。
ロイアルバはリンダンロフの守護神と称されるような猛将と聞いているから、戦時になれば必ず姿を現すだろう。
この筋肉ダルマを殺すことは、私一人で挑むよりも戦争のどさくさに紛れた方が成功するだろうし、ずっと現実的に思えた。
そうと決まれば、さっさと逃げるに限る。
「後何日くらいで、切り通しに入りますか?」
ロイアルバとは口もききたくなかったが、必要な情報は仕入れておかないと逃げるべきタイミングを失う。
「そうだな、明日の昼くらいかな」
ロイアルバは私が逃げるつもりだなんて微塵も考えていないのか、普通に答えた。
グシャナト公国は昔、リンダンロフ帝国の防御の砦と言われていた。
二国を繋ぐ道は一部馬車が通ることの出来ないような切り通しの道になっている。
万が一グシャナトが突破されても、その切り通しでは軍隊が編成出来ず、馬一頭ほどしか通れない。
リンダンロフに入られる前に、その切り通しで確実に進軍してきた敵兵を潰すのだ。
因みに私自身はリンダンロフに行ったことなどなく、この話は昔ロイアルバ本人から聞いた話だ。
本人も、暇つぶしの雑談で話したことを私が覚えているとは思っていないだろう。
他に逃げ道がない為、切り通しまで行ってしまえば追手を撒くことは難しくなる。
今はまだ森の中だから、逃げるなら今日しかなかった。
「お尻が痛いので、休みたいです」
「後一時間程で森を抜ける。拓けた場所の方が安全だから、もう少し我慢出来るか?」
森を抜けられては身を隠す場所もなく、逃亡しにくくなってしまう。切り通しに辿り着くまでずっと森だと思っていた私は慌てて叫んだ。
「嫌です。今すぐに休みたいです」
「わかった。よし皆、止まれ。ここで休憩だ」
私の我儘をあっさり聞き入れたロイアルバに、部下達は一切の不平不満を言うことなくその場で各々休憩に入る。
無駄に統率力が高くて感心した。
部下達はロイアルバに全幅の信頼を寄せているらしかったが、それが仇になるとは思いもしないだろう。
「エフィナ公女、こちらへ」
ロイアルバは先にさっと馬から降りて、私の腰を掴むとひょいと降ろす。
城から持ってきたらしいフカフカのクッションが地面に敷かれ、私はそこに座らされた。
逃げるからには、それなりに準備を整えておかなければならない。
ロイアルバの動きをじっと観察し、水筒の位置を確認する。ロイアルバは手にしたその水筒に口をつけず、一番に私に渡した。
「……乾物を下さい」
「珍しいな。ちょっと待っててくれ」
珍しいと言われ、私は勝手にドキドキする。
公国の民の様子を知ってから、私の身体は食事に拒否反応が出てしまった。
ここに連れて来られるまでの道中、何か物を食べても吐き戻してしまい、それもまた許されない気がして私は食事自体を一時受け入れられなくなったのだ。
心配したらしいロイアルバに、魔石というものを使われ、私は強制的に休息させられた。
魔石。そう、我が公国にはない便利なもので、あるのとないのでは全く異なる、らしい。
私達グシャナト公国は百年前とそこまで変わらない生活を営んでいたのだが、リンダンロフは魔石を活用して公国よりずっと進んだ文化を営んでいるらしいのだ。
無知であることは恥ずかしくて……私の常識は、リンダンロフでは非常識であることを知った。
魔石は世界的に見ても決して豊かな資源とはいえず、リンダンロフで発見されて以来、その場所以外から発掘された例はないらしい。
発見された当初はそれなりに出回ったものの、最近では特に採掘量が減ってその価値はうなぎ登りであるとのことだ。
そんな便利な魔石らしいが、私には無用の長物だ。
使い方もわからないので、使いこなせない。
しかし、魔石を他国で売れば金になることはわかったし、何よりも魔石がなくなれば少しはロイアルバを困らせることが出来るだろう。
「ロイアルバ様、少々ご報告が」
「何だ?」
ロイアルバは私から離れ、誰も私に関心を払わないように見えた。
──今だ。今しかない。
私は、水筒と乾物と癒やしの効果がある魔石を頂戴して、ゆっくりと森の木々の中へ身を隠す。
枝や枯れ葉で音を立てないように最初だけ慎重にその場を離れると、百メートル程歩いたところからは、思いきり駆け出し、リンダンロフの軍隊から離れた。
来た道を戻るのでは目立つし遠回りになる。
南だ、南に行こう……!!
太陽の位置を確認しながら、私は森を縫うようにして南下する。
直ぐに足が靴擦れで痛くなり、血が滲んで歩けなくなった。
私は適当な岩に座って休憩をとる。
ジンジンとした痛みを感じながら、家族が斬られた時はどれだけの痛みを伴ったのだろうかと考えてしまう。
家族の痛みに比べれば、こんな傷なんて。
ドレスの裾を破り、足にグルグルと巻く。
布が多過ぎたのか、今度は靴が履けなくなってしまい、途方に暮れる。
折角なのでここで少し休憩を取ろうと、追手が来ていないかキョロキョロと辺りを見回しながら耳を澄ませた。
──何の音もしない。
安心したと同時に、違和感が胸に広がる。
なんの音もしない?
こんな鬱蒼とした森の中だ。
少しくらい、鳥や虫が鳴いていてもおかしくないのでは。
私は顔を上げて立ち上がり、再びキョロキョロと見回す。
ふと、藪の中から何かがいる気配を感じた。
息を潜めて、こちらをつけ狙っている。
「……ロイアルバ、様?」
緊張により掠れた声が出た。
ロイアルバでないほうが良い筈なのに、ロイアルバであれば良いと、今は思ってしまう。
私が声を掛けた先で、グルルルルと猛獣の唸り声のようなものが聞いた途端、私は思わず、北の方角へと走ってしまっていた。
ガサガサガサッ!
枝や草が顔やドレスに引っ掛かるのも構わず、私は死物狂いで走る。
肉食獣には背中を見せて走ってはいけないとよく聞くけれども、実際問題としてそんなのは無理だ。
私は懸命に走って、走って、走って……叫んだ。
「ロイアルバ様っ!!」
「大丈夫だ、エフィナ公女」
ない筈の返事があり、私の横を巨体が正面から走り抜けた。
後ろからキャウン、というまるで虐められた犬のような鳴き声と、どす、ずしん、という重たい音がする。
「怪我はないか?」
「……はい」
気付けば私は腰を抜かしたらしく座り込んでいた。
「失礼」
私の状態を察したらしいロイアルバは、私を横抱きにすると、迷いなくすたすたと森の中を歩き続ける。
「……私をつけていたのですか」
「ああ」
「なぜ、直ぐに連れ戻さなかったのですか?」
気づいていながら泳がせるような真似をして、この男は何がしたかったのだろう。
「この森も、この先の切通しも、その先にある草原も、どこも危険な生物が潜んでいてエフィナ公女一人であればあっさりとそいつらの腹の中に収まると言うことを知って欲しかっただけだ」
「……わかりました」
言ってくれれば良かったのに、とは言えなかった。
もし先に教えて貰っていたとしても私は逃げ出していただろうし、本当に怖い思いをしなければ、仮に連れ戻されたとしても何度でも逃亡をはかっただろう。
とても長い距離を歩いていたと思っていたのに、ロイアルバはあっさりと自分の隊と合流した。
「お帰りなさいませ、公女の手当てをいたしましょう」
ロイアルバの側近と思われる人が救急箱を片手にそう声を掛けたが、彼は「私がやる。それを寄越せ」と救急箱を受け取っただけで、私をフカフカのクッションにそっと下した。
「さっき馬から降ろした時も思ったが、君は軽すぎるな」
「……普通だと思いますけれど」
私の足に巻かれたドレスの切れ端を取り去って、慣れた手つきで患部を清め、そして包帯を巻いていく。
「ドレスを破ったのか。切り通しに入ったら、一度テントを張らせるからその中に着替えを用意させよう。リンダンロフに到着したらもっと美味しいものを準備させるから、口に合わないかもしれないがそれまでは乾物を食べてくれ」
「……はい?」
「乾物が我慢できずに逃げ出したのではないのか?」
――違いますけど!!
私は食べ物が気に入らないくらいで腹を立てて周りの人を困らせるような人間だと思われていたことに衝撃を受けながら、やはりこの男にはきちんと口で言わなければ伝わらないのだとしっかり理解した。
「それは違います。あなたの傍にいたくなかっただけです」
「そうか。しかし、君を私以外の傍に置きたくないので、馬車が通れるところまで我慢してくれ」
「わかりました。それと、猛獣から助けてくださったことには感謝申し上げますわ」
「私の名を呼んでくれた時は嬉しかった」
「……呼びましたっけ?」
記憶にないので首を傾げると、ロイアルバはわかりやすく肩を落とす。
もっと早く助けてくれても良かったのではないかと思わないでもなかったのだが、それは怖い思いをした側の時間の流れの感覚で、実際は猛獣が現れてから掃討するまであっという間であったことを、ロイアルバと一緒にあの場にいた兵士と話した後で知った。