第五十五話
「数百年の永き時を、この場所で。人を怨み、世界を憎んで過ごし続けた。死を渇望し続け、これだけの歳月が過ぎ去った。そしてようやくとやって来た最期の時に……何の因果か、私は忌まわしい人間の中に棲まい、あの牢獄を出る事となった」
思いの丈を吐き尽くしていく魃は、慈愛の表情で微笑んでいる。雲間を抜けた緩い光が、彼の表情を照らし出す。
いわゆる裏であった異界の夜が終わりを告げて、おぼろげな薄明が石畳を照らし始める。
霧散していく魂は一つ残らず煙となって立ち消えていった。
――私が作中で“栗彦”と名付けた男の願いはこうだった。
作家になりたい。
何者にもなる事の出来ない自分を、何か形あるものにして欲しい。
私は忌々しく思いながらも、そんな人間の願いを聞き届け、栗彦という人間の内情を知っていく事となった。
初めはほんの、些細な興味のつもりで、人間との間に交わした契りなど、頃合いを見て反故にしてやろうと考えていた。
しかしどうだ、数百年と余り生きてきた私が、ついぞ知る事の無いと思われた世界がそこにあったのだ。雨を原点とするこの男は、私とは性質の根本から違っていた。
その時私を強く突き動かした衝動の正体はわからない。
……けれど理解したいと、理解せねばとその時思った。彼自身を探り、理解して、栗彦となって願いを成就する必要があった。しかし、私達にはどうしてもそれが叶わなかった。この生涯に雨を知らない私にとって、それを原点とする男の心情を、どうしても理解し切る事が叶わなかったからだ。
「雨の中に手を差し込んで見た。されど私の手は雨を干上がらせた。雨の方からこちらに手を差し伸べて欲しいと思った。けれど私の手は雨粒を弾き返してしまう」
ツユはコクリと魃の声に頷いていた。
「知りたいと、初めて思った。永き時を無為に生きて来た私が、死の間際に一つ、人への興味を抱いた」
――栗彦という人間を理解したい。
「興味はいつしか願いに変わり、願いはいつしか思いになっていた」
そこまで聞くとツユは、いま愛おしそうに胸に手を当て首を垂れている存在を認めながら、メザメが言った「野暮」という言葉の意味を理解してしまった。
「まさかアナタ……兄に」
魃の独白は続いていく――。
「栗彦を理解したい。この衝動が何なのかわからないまま、例え昇天する前の刹那の時間だとしても、彼と一つとなって願いを叶えてやりたいと、強く思うようになった」
――魃は、その瞳に燦然たる光を灯してこう言った。
そしてこれからを生きていくアナタへ。
無限の可能性を秘めた素晴らしきアナタへ。
その魂を躍動させるだけの弾みを一つ、残してやりたかった。
私はアナタの背を撫でてやる事も出来ないし、声を掛ける事も、微笑みかける事も出来はしない。
だから出来るのは、残してやる事だけだった。
――ただそれだけの。自らでも不可思議に思えるそんな情動が、私を突き動かしたすべてだった。
魃はそう、言葉を結んだ。




