第四十九話
やがてゆるりと立ち上がった栗彦は、冷酷なる魃自身の存在感を紫色の空へと解き放ちながら、おぞましい眼光で振り返って来た。そこに携えた鋭い視線は明らかに兄のものとは違う異質を纏っている。
「……人間、いや、“祓い師”か。……何をしに来た?」
――よもや俺を祓うとでも言うつもりか? 言葉にせずとも、そういった気迫を声が帯びていた。
喉元で唾がつかえた様な感覚に襲われて、ツユは何も言い出せぬまま鼓動を早くしていた。しかし一瞥を受けたメザメは、袖口にしまい込んでいた右手を抜き出して、気楽そうな嘲笑混じりに天上に吊られた二人を指し示すのだった。
「干して貰った洗濯物を取りに」
メザメがその吊り上がった目元を冷ややかにして魃に差し向けていると、栗彦はやがて不承不承と二人を吊るした肉の管を垂らし、地上の側で拘束を解いて投げ出した。
気を途絶したまま大地に投げ出された二人。すると栗彦は沈んだ目付きでこちらを見もせずに言う。
「帰れ……」
静かなる怒気がその声には刻まれていた。
緊迫の糸がピンと張り詰めていた。静寂に肌がピリつく。いま一つでも言動を間違えようものなら、即座に首をはねられても不思議で無い様な、厳格極まる神前の空気に異界が満たされている。
ツユが二人を小道の傍に引きずっていくのを見届けてから、メザメは口元に長く白い指先を沿わせて、
――「ははァ」そう声に出して嗤った。
その嘲笑が静寂を破り、蝋の様に推し固まっていた栗彦の眦がピクリと動く。
「折角本物の神に出会えたのだ。すぐに身納めるのは勿体が無い」
――そんな軽口を叩いた瞬間だった。
神の怒りに触れた代償。肉の管という名の無慈悲なる鉄槌がメザメに目掛けて一直線に飛び、石畳を突き破って高い土煙を上げた。
「メザメ……さ、ん?」
意識さえも置き去りにされ、瞬時に執行された神罰に、ツユは愕然と顎を震わせるしか他が無かった。あれ程の身体能力を誇ったフーリですらが肉の管に簡単に絡め取られてしまったのだ。一介の人間の、それもひどく運動音痴なのだと自称していたメザメがこれを避けられる筈がない。
……魃自身も直撃確信していたからこそ、見るまでも無い結末に、興味も無さげに背を向けていったのだろう。
しかし――。
「悪いがその体には使命があるようなのだ。文壇を目指して四苦八苦し、そして妹を可愛がるという、誠に妙な」
背後に向き直り掛けていた栗彦が、声のする方へと首だけを振り返らせながら、その縒れた長い前髪を表情に垂らす。暖簾の垂れたその表情の真相は未だ計り知れないが、その隙間より僅かに窺えたのは意外にも――驚嘆の色であった。
「なんだその目は……」
栗彦が刮目していたのは、半歩横に退いて肉の管をスレスレにいなしていた男。
何よりも目を引くは、彼の右目より解き放たれし、爛々とした菖蒲色の発光。
闇世に浮かんだ妖しき光――その妖気。
「人間……では無いのか?」
「僕は人間だ」
眉根をひそめた栗彦に構わずに、メザメは飢えて仕方がないかの様な鈍くギラついた右目を光らせて、不気味にその口角を吊り上げる。
「妖の眼。人はこれを妖眼と呼ぶ」
――“妖眼の怪奇蒐集家”。
ツユはそんな二つ名でメザメが呼ばれている事を思い出す。




