第四十五話
メザメの勢いに仰け反って、目を瞑っていたツユがようやくと瞳を開ける。彼のこの、怪奇の事となると我を忘れた様に血相が変わるのは何なのだろうか。
冷たくなった首筋に手を当てながらツユは首をかしげる。
「つ、つまり……なんですか?」
「この地では、いかようなる不可思議も起こり得るという事だ。強くそう、信じる事が出来ればな」
未だにメザメの語る言葉の真意がわからないでいるツユは、松原通の坂を上って行く着物の背を追い掛けながら、その藤色の袖に縋ろうとして――再びひょいとかわされた。
まるでツユの行動を先読みしているかの様な見事な所作である。
「メザメさん、それと異界への行き方に何か関係があるんですか!」
しかしツユの疑念には素直に答えずに、メザメは大手を広げて言った。
「ここは現世と冥界との辻。冥界通いの小野篁の伝承然り、あの世とこの世に密接に語られるのには由縁がある。歴史上、この地は鳥辺野と呼ばれる大規模な遺体の風葬地だったのだ」
ツユは絶句しながら居住まいを正していく。
「風葬って……かつては遺体を野ざらしにしていたってって事ですか? この場所で?」
すっかりとそんな面影も無くなった綺麗な町並みに視線を渡らせながら、ツユは引きつらせた顔をメザメへと戻していく。
「この地は今は轆轤町と呼ばれているが、かつては髑髏町と呼ばれ、余りに縁起が悪いと寛永の時代に改名された歴史のある地なのだ」
そこらに髑髏が転がっていたから髑髏町? 死体を晒して鳥に啄ませたから鳥辺野? だからあの世とこの世に関わる伝承が?
……しかしどうして今そんな話をする必要があるのか?
「まだわからないのか」
冷酷な声にその身を引かれながら、いつしか安城達と異界に踏み込んだ地点も過ぎ去り、メザメと共に六道珍皇寺の境内へと踏み入っていたツユ。そうして遠慮も無しに砂利道を踏み荒らし、やがて本堂の奥にひっそりと佇んだ怪しき井戸の前で立ち尽くす。
「メザメさんこれ……」
「『黄泉がえりの井戸』。小野篁がかつて冥界への入り口としていたという井戸だ」
何処か妖しく、そして荘厳なる佇まいさえ風格に漂った、しめ縄の施された井戸が今ツユに向かってポッカリと暗黒の口を開けていた。何処と無く、ここらの空気だけはひんやりしている様な異様な気配がする。
「でも、本当に繋がってなんかいませんよね、伝承なんですから。それに行き先は異界では無くて冥界ですし」
「無論そうだが、この井戸には不思議な力があると強く信じられている。そしてこの地には巨大な龍脈があり、僕の力も相乗する」
メザメは目を見開いて強く言う。
――ここは辻だ、あの世とこの世の分かれ道だ。つまりこの世とあの世の狭間にだって行ける筈だ。
言い終えてからメザメは、懐から取り出した翡翠の石を、その井戸を中心にして五芒星の形で置いていき始める。
「これは?」とツユが目で問い掛けていると、しゃがみ込んだ男の薄い唇が徐々にと開かれていく。
「結界を張る」
「結界ってあの!?」
忙しなく動くメザメの手首で数珠が揺れた。
「結界とは、あちらとこちら、彼岸と此岸の区切りをつけるという事。その境界線を、あえて取り除く」
「いやいや、そうじゃなくて、何者なんですかメザメさん」
メザメは五芒星を型取った翡翠の石を二つ取り除き、あちらとこちらの境界線を取り除く。つまりメザメの弁舌になぞらえて言うなれば、これより現世と冥界の境界は入り混じる、という事になった訳なのかと、ツユは混乱しそうな頭で思う。
「一度、異界へと到ったキミの体はいわばコンパスの様なもの。キミが指針となり、僕が辻よりその道を探す」
「さっきから何なんですか、まさか、メザメさんも実は不思議な力を持った、妖怪……とか?」
いそいそと儀式めいた行為の下準備をしていく男の背中が不意にツユへと振り返りながら言う。
「僕は人間だ」




