第三十一話
「実はこの安城廻にも、妹がいたんだ」
「それは狐としてのアナタではなく、依代となった安城廻の、という事ですか? でもそんなの公式プロフィールの何処にも書いてなかったですよ」
「長らく前に死別してしまったからね」
それとこれとがどう繋がるというのだろうか。重苦しくなった空気を気にせずにフーリがお茶をすする。
「契約を終えた依代に魂の憑依が完了すると、ボクの中にこれまでの安城廻の記憶が流れ込んで来るんだ。まるで一冊の本か映画を客観的に感じるみたいに」
その話を聞いたツユは、栗彦に感じていた妙な違和感の事を思い出す。きっと栗彦もそうして如雨陸の記憶を引き継いだのだ。だから彼が過去の事を思い返す時には、結果と事実しか答えられなかった。その時どう感じ、何を思ってそうしたのか。そういった微細な魂の揺れ動きが観測出来ずにいたのはこれが要因だったのだ。
「安城廻が俳優を目指し始めたのは、妹のマユの為だった」
暗い面差しを見せながら、安城は苦痛に喘ぐみたいに必死に言葉を紡ぎ始めた。きっと入れ替わった人格である狐自身も、この記憶にひどく心を痛めているに違いないのだ。
「先天性の病に冒され、長く病床に伏していたマユは、治療の甲斐もなく衰弱していって、十歳の頃には痩せぎすになり、余命を宣告された。マユはずっと、病室の中だけでしか生きられなかったんだ。外の世界で元気に走り回る事だけを夢見て健気に治療に向き合って来たのに、マユは結局一度も外を走る事も出来ずに死へと向かっていった」
想像以上に重い話題に、今度はツユの方が神妙な顔付きをして居住いを正すしか無かった。フーリは鋭い眼差しで安城の脳天を見つめたまま、少しは空気を読んで箸を止めていた。
「一面無機質な白い壁、長く続いたリノリウムの床、消毒臭い病室の匂い。それがマユの知る全てだった。その白い正方形の部屋を自由に出る事さえも、彼女には叶わなかったんだ」
「要点を言えよ」
不躾に横槍を入れたフーリをツユが目で叱っていると、安城はまた口を開き始める。
「十歳まで生きられなかったマユが、外の世界を擬似的に体験する事が出来る……それが映画だったのさ」
安城廻という人物が、何故『異界のおみくじ』に招かれる程に俳優としての才能を渇望していたのか、その理由の一端が垣間見えた瞬間であった。
「もう手足も自由に動かせなくなったマユが夢を見られるのは、四角い電子映像の中だけだった。マユはそんな小さな画面から外の世界を夢想し、画面の中の主人公になって外の世界を自由に走り回っていた」
――ボクは。
安城は言った。彼の根底とも言える、心の底の全てを吐きだすかの様に。
「マユと一緒に遊びたかった」
「安城さん……」
「画面の中に映る映画のキャラクターになって、マユの夢想の中でも彼女の手を取って走りたかったんだ。そうする事でしかもう、マユの夢は叶えられなかったから」
――で、それとこれがどう関係あるんだよ? そうフーリが言い掛けていると、嗚咽しながらティッシュで目元を拭くツユに少し面食らって最後まで言えなかった。
「あの時ボクは、健気に兄の行方を案じるキミの姿に、ボクとマユとの関係を重ねてしまったんだ」
安城は泣きじゃくるツユに向かい合って語る。彼の伏せったまつ毛の先にも微かな煌めきが見えた気がした。
「結局、ボクが俳優として映画にデビュー出来たのはマユの死んだ二年後の事だった。余りにも全てが遅過ぎたのだけれど……ボクが俳優になるとマユに語ったあの日、目を輝かせながら、痩せ細った小指を伸ばしてくれたマユとのあの約束の為に、ボクはそれからも俳優としての高みを目指し続けた。いつか何処かで、この地に生まれ変わったマユに見て貰える様にって」
輪廻転生を語る余りにも人間臭いその思考は、現世に長く触れ続けた末に俗世に染まったという事なのだろうか。
しかし大切な妹の姿をツユに重ねたというのなら、どうして彼女を危険にさらす様な真似をしたのだろう?
安城は続けていく。
「けれどある時思ったんだ。あれはマユの兄であり本当の安城廻との約束で、狐であるボクと果たした約束では無かったのかも知れないって。今話したマユとの記憶だって全て、ボクでは無く安城廻の記憶に過ぎない……今マユが蘇って変わり果てたボクを見たらマユは。…… マユはボクの事をどう思うのだろうか、ふと考えた事があったんだ。マユが銀幕の中に夢見た安城廻は、今のボクでは無いんじゃないかって……」
「そんな、安城さん……」
慰めるように言ったツユに安城は首を振ってみせた。
「わかってるさ。そんな観念的な妄想に答えなんて無いって。マユはもう死んでしまったのだから。考えたって意味の無い事でしかないのさ」
――だけどあの時。
「キミの姿が、マユに重なってしまった。居なくなった兄を健気に探すその姿が、まるでマユが現代に蘇って、本当のボクを探しているみたいに思えた……だからっ!」
『謎を解き明かして欲しくは無かった。解き明かさなければ、本当の魂などそこに存在しないのと同じ。自己の存在を否定する根拠も無くなれば、もう誰も自分の存在を疑う事は出来ない……そんな所か』
差し込んで来たメザメの声に一同は黙り込んだ。安城は、依代との真なる同化を求めていたのだ。そして本当の意味での“安城廻”となり、過去も今も無い、唯一無二の人間になろうとしていた。
だからツユが兄の魂へと辿り着き、今の如雨陸の魂に取り憑いた何かをその肉体から追い出そうとするその試みを、安城は恐れた。妹のマユとツユを重ねたからこそ、マユに自らの存在を否定されるかの様で恐ろしかったのだ。
「わかってる。全てはボクの身勝手な思想が引き起こしてしまった事件だったって。キミがマユでは無いという事だって頭の片隅ではちゃんと理解もしていたんだ。……だからボクは今回、とても卑劣な行いをした」
膝先の畳の目をじっと見やりながら、改めて安城は頭を深く垂れる。




