第二十五話
「心配しないでジョウロちゃん。目的地はこの階段を上がり切ってすぐの所にある御劔社なんだ。雲外鏡はそこにある」
「わかりました、それじゃああと少し、頑張ります」
一体いつまで登らされるやらと疲労困憊したツユが階段を上がり始めると、安城は靴紐が解けたらしく、しゃがみ込みながら先に行ってくれと言った。今更だが、どうしてこの男は過酷なハイキングが待ち受けていると知りながら、ピカピカの革靴でここを訪れているのだろう。やはり随分と虚栄心が強く、見栄っ張りな男であるらしい。
順番が替わってツユは真ん中に、先頭がフーリで安城が最後尾になった。 何やら安城が度々と藪の近くにしゃがみ込んでいるが、また靴紐を結び直しているのだろうと思ってツユは気にしなかった。なので彼の衣服の腹の辺りが膨らみもって、何故かもぞもぞと動いているのにも気付かないでいたのだ。
深い夜に外灯の明かりが点々とあるだけの長い階段を上がって行きながら、ツユはメザメに一つ尋ねてみた。それは先程フーリとメザメが、栗彦の中に巣食った何かについて話していたのを耳にしていた頃より湧き上がっていた疑念であった。
「あの、メザメさん。私の兄は、栗彦は今どこにいるのでしょうか? もし異界に辿り着けても、そこに兄の体が無ければ……」
――兄と小耳に挟んで眉を寄せたのは。最後尾を行く安城であった。彼は何やら口を少し開いてから、いつに無く聞き入った様子で二人の会話に耳を澄ませている様子である。
『案ずるな。おそらく栗彦は今『異界のおみくじ』に滞在している』
「え、そうなんですか!?」
つまりツユのとってのあらゆる目的は、その一箇所に集約されていると言って過言では無いのだ。驚嘆の声があったのでメザメは説明する。
『栗彦の目的は小説家として文壇に上がる事だ。それはいずれ作家として大成すると言うのが、キミの兄と栗彦との間で交わされた契約だからだ。しかし素性を知る者が彼の元を訪ねて平穏を脅かした。つまりその時点で、栗彦にとって下界に滞在するのはリスクでしか無くなってしまった訳だ。僕らにとっては幸か不幸か、執筆というのは何処でだって出来る。そこがオフラインだろうとも……異界だろうともな』
「でもでもっ、異界には招かれた者しか行けない筈です! だから安城さんでも容易に立ち返る事が出来ないでいた、そうでしたよね?」
――いや、違う。
そう声を挟んだのは安城だった。
「ジョウロちゃんのお兄さんの中に巣食った何か。この世で唯一彼だけは、いついかなる時でも、京都中に張り巡らせたどの侵入口からも、異界への出入りを可能にするだろう」
「え、栗彦だけは例外的に出入りが……可能? どうして?」
「『異界のおみくじ』がそもそも、何かの為に作られた怪奇だからだよ」
メザメは安城の言葉を継いでツユに説明を続けた。
『『異界のおみくじ』とはそもそも、〈厄〉である何かをそこに引き留める為に創り出されていた怪奇。すなわち栗彦だけは永久的に招かれているのだ。故に何処からでも侵入が出来る』
「成る程、兄は今も異界に居る……じゃあ兄も栗彦も同じ所に居るんですね!」
安城は喜び勇んだツユの背を眺めながら、何処か憂いを帯びた表情で言った。
「ジョウロちゃん、やっぱりキミはもう、この一件から手を引くべきだ」
何処か冷たく、これまでの雰囲気とは様相を変えた声音の影に、ツユは訝しげに振り返っていた。
「安城さん……?」
「解き明かさない方が良い事もあるんだ」
――次の瞬間、懐にひた隠していた存在をフーリに向かってけしかけた安城。宙をひるがえった存在が「にゃー」と鳴くと、フーリがぎゃあと悲鳴を上げるのを聞いた。
――安城さん、これはいったい……。
呆気にとられたツユがそう言い掛けていると、彼の胸の前で一度柏手が打たれるのを聞いた。
そして耳元に「ごめんね」という一言だけを残されて――。
――ツユは一人、“神隠し”に遭遇する。




