田んぼ道
さちこは風で飛ばされないように、帽子のひもをあごで結んだ。小学生みたいな帽子のかぶりかただけど、暑いよりはまし。
玄関の戸を開け、外に出ると太陽はじりじりと照り付け、セミの声はミンミンとうるさい。
中学最後の夏休み。暑いからいやだ、なんて言っていられない。これからが正念場、頑張って受験勉強をしなくちゃと思う。
今日は両親も、妹も出かけて留守。さちこ一人でクーラーをかけるのももったいない気がして、それなら図書館に行こうということになったのだ。
さちこは玄関の鍵をかけて、自転車に乗った。
図書館は自転車で十五分ぐらい走ったところにある。
さあ、早く行こう。さちこは自転車のペダルにかけた足に力をいれた。
クーラーのきいた涼しい部屋で、さちこはいつの間にかうとうとしていたらしい。首がかくんとなって目が覚めた。広げたノートにシャーペンは握ったままだ。
ふう、とさちこはため息をついた。気分がよくない。何か恐い夢を見ていたようだ。寝ていたのはほんの短い間だけだったけれど。
図書館の時計の針は、五時をさしている。誰にも邪魔されないで、集中して勉強できたのはよかった。
窓から外を見ると、まだ太陽は高いところにあって、ぎらぎらと暑そうだ。
さちこはのびをしてから帰り支度をはじめた。帰りはダンプがいっぱい通るほこりっぽい県道を通る のはやめて、ちょっと遠回りだけれど、田んぼ道を通って帰ろう。そんなことを考えていた。
両側に田んぼの一本道を自転車で走る。一本道はずっと先まで続いていて、稲がつややかに青々と茂っている。
しかし、風は生ぬるく、太陽の光は、半袖から出ている腕を痛いように射す。
さちこはこの道に入ってから、なんとなくいやな気がしていた。なにがいやな感じなのかわからないけれど、なにか変な予感のようなものが、さちこを不安にさせる。
早く家に帰ろう。さちこは力いっぱい自転車をこいだ。
それにしても、今日はいやに道が長く感じる。走っても、走っても田んぼが終わらないように思える。そんなわけがない。気がせいているから、そう感じるだけだ。と、さちこは思おうとした。
でも・・・。やっぱりおかしい。
さちこは自転車を止めて後ろを振り返った。
県道から入ってきた道が、見えない。あれ? この道こんなに長かったけ?
前を向く。民家がまだ大分先に小さく見える。
もう、とっくに民家があるところに出てもいいはずなのに。どうして、たどりつけないのか。
この道は車やバイク、自転車なんかは、普段はよく通る道だ。それなのに、今日は、どれも見かけない。
さちこはだんだん焦ってきた。必死であえぎながら自転車をこぐ。
気がつくとさっきまで鳴いていたセミの声がしない。いつの間にか、辺りも雨でも降り出す時のように暗くなっている。風も強くなってきて、さちこがかぶっている帽子を頭から吹き飛ばした。
いやっ、何? 怖い。さちこはただならぬ気配に恐怖を感じた。
何かが後ろから追いかけてきているような気がする。さちこは恐る恐るふりむいた。
が、何も後ろにはいない。
さちこは自転車を止めた。後ろのタイヤに、何か黒い影のようなものが、見えたような気がしたからだ。
さちこはタイヤのほうをのぞきこんだ。そして、
「ギャッ!」
と叫んだ。
五、六歳のおかっぱの女の子がしゃがんで自転車のタイヤをつかんでいる。それから、さちこの顔を見上げてニタッと笑ったのだ。
さちこは自転車から飛び降りた。その拍子に自転車は倒れ、さちこは尻もちをついた。
女の子は平たい黒い影になって道をはいずり、滑るように田んぼの中に消えていった。
(な、何?)
さちこは腰が抜けたようになって、しばらくその場で動けなかった。
どれくらい時間が経ったのか、我に返った時は、あたりは明るくなっていた。
さちこは慌てて自転車を立てて飛び乗った。
今度は、普通に走れているようだ。すぐに民家があるところに出て、県道にも戻ってこられた。
さちこは走り続けた。
ガソリンスタンドの角を曲がり、まっすぐいって突き当りを左に曲がる。右側の三軒目がさちこの家だ。
んっ? ここまで来て、さちこは違和感を感じて自転車のブレーキをかけた。
いつもの、見慣れた景色。車が二台がゆっくりと入る大きなガレージに車とバイクが一台ずつ入っている。お隣りの鈴木さん家のガレージだ。
そして、その横にはあたしの家が・・・・。
ない。あるはずのあたしの家がない。あたしの家があったところが突然、空き地になっている。
さちこは自転車を降りて、空き地を見ながら前に進んだ。空き地には雑草が茂っていて、突然、空き地になったようには見えない。
そんなばかな。いったいどうしたというのだ。何時間か前まで、ここにあたしの家があって、ここから自転車にのって出かけたのに。
空き地を過ぎると、川村さんの家がある。おじいさんと、おばあさんが住んでいて、さちこの顔を見ると、いつも声をかけてくれる。
さちこはその表札を見た。いつもと同じ表札の川村という文字がある。
さちこは自転車をUターンさせた。
どういうこと? さちこはぼんやりと空き地を見つめた。いったいどうなったんだろう。あたしの家は。なんでなくなっているの?
さちこは振り返って向かいの家を見た。松村さんの家。なにも変わりない。
なんで、あたしの家がないの? なんで、元から家なんてないみたいに、この空き地があるの?
さっきのことで頭が変になっているのかもしれない。あんな気味の悪い女の子を見たから。
それとも、家の場所を間違えている? いや、そんなことはぜったいにない。
さちこの体から汗が噴き出した。
そうだ! 電話。お母さんに電話だ。
さちこはかばんのポケットに手をつっこんだ。いつも、ここに携帯をいれているのだ。
あれっ、ない。ちがうポケットに手をつっこむ。ここにもない。かばんをひっくり返して中のものを全部だした。どこにも携帯はない。
自転車が倒れたときに落としたのだ。そんな・・・。あれがないと、どこにも電話できないじゃないか。
どうしたらいい? 泣きたい気持ちで、出した荷物をかばんに戻していると、鈴木さん家のドアが開いておばさんがでてきた。
「あ、あの、すみません」
さちこはとっさに声をかけた。
「あ、はい、何か?」
いつもなら、おかえり、とか言ってくれるのに、今日は変によそよそしい。まさか、あたしだってわかってないの?
「あ、あの・・・」
さちこはなんて言っていいのかわからなくて、くちごもった。
黙っているさちこに、鈴木のおばさんは首をかしげ、けげんな顔をして、行ってしまった。知らない人を見るような目であたしのことを見ていた。どうして? さちこは怖くなった。
川村のおばあさんなら、あたしのことをわかるはず。おかえりって言ってくれるはず。
川村さん家のベルをおす。「はい」おばあさんが返事をした。
「あたし田谷です」
さちこは言った。インターフォンのモニターであたしの顔が見えているから、大丈夫。
少して、おばあさんがドアをちょっと開けて、顔を出した。
「おばあさん、あたしよ、あたし」
さちこはおばあさんの言葉を待つ。あら、さっちゃん、どうしたの? とおばあさんは言うだろう そのはずだった。
おばあさんは鈴木さんと同じように、首をかしげて、
「どちらさんでした? 何の御用?」
と言った。
「えっ、うそ。あたしがわからないの?」
さちこは門をあけて、中に入ろうとした。おばあさんは慌てたようにドアを閉めて、中からガチャリと鍵を閉めた。
どうして? おばあさんもあたしのことを知らないみたいに・・・。
さちこは茫然と立ちすくんだ。
向かいの松村さんは? あまり話したことはないけれど、お互いのことは知っている。
さちこはインターフォンを鳴らして、名前を名乗った。
「なんですか?」
やはり、さちこのことはわからないようで、出てこようとも思ってない感じだ。
「あの、向かいの空き地はいつからありますか?」
さちこはインターフォン越しに、思い切ってきいた。
「もう、ずっと前からよ」
松村さんはめんどくさそうに言って、インターフォンは切れた。
ずっと前から・・・・。さちこはつぶやいた。
なにがどうしてこんなことになったのか。
あの田んぼの道に入ってから、何かがおかしくなった。いつまでも続く道、あの女の子のお化け、あたしの家がなくなってしまったことも。
さちこは空き地に座り込んだ。あたしはどうすればいいの?
お母さんとお父さんと、妹はどうしたんだろう。ここに帰ってきたのなら、あたしを待っていてくれたはず。いないってことは、まだ、帰ってきていなかったってことだ。
そうだ、ここで待っていればみんな帰って来る。あたしは待っていればいいんだ。
考えがまとまると、さちこはちょっと落ち着いた。
さちこは隣りの家の塀にもたれて、目を閉じた。
さちこは首がかくんとなって目が覚めた。クーラーのきいた涼しい部屋で、いつのまにかうとうとしていたらしい。
何か恐い夢を見ていた気がする。いやな気分だ。
図書館の時計の針は、五時をさしている。さちこはのびをして、帰り支度を始めた。
帰りは田んぼ道を通って帰ろう。そんなことを考えていた。
読んでいただき、ありがとうございました。