謎の彼女
「あの女の子、いったい何者だったんだ……」
女の子に手を引かれ街の雑踏を駆け抜けていたはずだった青年は、あれから小一時間が経過した今、ひとりでとぼとぼ通りを歩いていました。
「いや、あの女の子のことが気になってるってわけじゃ……ないんだ。ただ…」
彼の周囲には他に誰か話し相手がいるようには見えません。どうやらさっきの女の子について、ひとりでつぶやいているようです。独り言なのですが、ただ、の後に続く言葉がなかなか出てきません。
「……ただ、こんなところで売り物の籠に隠れるなんておかしなことをしてるから……それが気になって。い、いや! そうじゃなくて……」彼は急に立ち止まり、慌てた様子で続けます。
「き、気になるというのは、あくまで彼女が何をしてたのかってことで……なにか困ったことにでも巻き込まれているなら、助けてあげようと思って」
どうやら彼は、ひとりで独り言の弁解をしているようです。もちろん、誰か話し相手がいるわけではありません。そもそも弁解が必要な状況なのかはわかりませんが、青年のような性格の持ち主に取っては不可欠なものなのかも知れません。
「だから、おれは女の子だから声をかけたわけじゃないし、そもそも下心なんて持ってなんかなかった……」
興味や想像力が旺盛で、根が真面目。普段は自分を“私”と称する大人びたタイプかと思えば、独り言では自身を“おれ”と呼ぶちょっと複雑な思考の持ち主です。
彼は、深呼吸をひとつしました。
「……でも、心のどこかではあの子と話したかっんじゃないのか?」
いささか真面目過ぎる性格の彼は、こうして自身の行動を振り返ることで、ようやく自分自身の行動にも納得できるのかもしれません。
「はぁ。おれはどうして、あの子に声をかけたんだろう……」
彼が歩いているのは、かなり発展した大都会です。大通りは車で混雑していますが、彼は観光客があまり入り込んでこない裏通りに立っています。先ほどまで一緒にいた女の子と出会ったのも、この裏通りの一画です。周囲には買い物をする人々がたくさんいますが、彼自身はあまり気にしてはいないようです。
もっとも、周囲の人々も彼を気にしてはいません。むしろ彼の存在自体が他の人々を近付けないのでしょう。彼はTシャツに作業着のような少々野暮ったい服装をしているのですが、この裏通りにいる人々は一様に同じ格好----いわゆる民族衣裳と呼ばれる伝統的な服装をしています。人通りの多い表通りは、観光に来たさまざまな人種の人々が思いおもいの服装で歩いていますが、裏通りは現地に暮らす人々の多い街区で民俗衣装を着ることが多いのでしょう。
青年自身はハンチング帽を被っていますが、髪も金色なら瞳の色も違います。ただ彼の肌の色はこの異国での生活が長いためか、灼けて染み込んだ色素が肌に膠着しているようです。
「しかしあの子、この辺りは観光客はあまり来ない地域だけど……」
ふと歩みを止め周囲を見回すと、女の子と出会った辺りの路地です。籐製品の路面店もありますが、女の子が身を隠していた籠はばらばらになったまま。飛び散った破片を足で少し寄せたくらいなのでしょう、すぐ近くに小さな椅子を出して座っている店主らしき男性は不機嫌そうに煙草をふかしています。
「やっぱり、あの時は表通りからこの辺りまで逃げ込んできて、とっさに籠に隠れたってところか……」
青年は少し元気を取り戻したようです。女の子と出会った場所に戻ってきて、記憶が鮮明となり何かを思い出したのかもしれません。
「あの時彼女は怯えたりはしてなかったけど、いたずらや遊びで隠れていたわけじゃない……よな? だからおれも、見つからないように隠れた」
先ほどの店主が青年に気付いた様子でしたが、煙草をつまんで痰を吐いただけで興味なさそうに商品に視線を戻します。
「きっと、あの子なりに隠れるだけの理由があったんだ。あとから来た、あの人たちにはわからない理由が……たぶん」
彼は道の真ん中であごに手をやって、なにやら考え込んでいるようです。裏通りですからいささか無用心にも思われますが、この調子ならひとりで歩いていた理由も思い出してくれそうです。
* * *
「お嬢様、そこまでにしていただきます」
得意気に青年の手を引き街中を走っていた女の子の進行方向に、スカーフのような布で顔を隠した女性が現れれました。このまま観光客でごった返す表通りへ進み、人ごみに紛れて追っ手を振り切ろうと目論んでいたらしい女の子は急停止します。
現れた女性が顔の布を取り去ると、大人っぽい白人の顔が現れました。布はイスラム圏に属す国家の多くで女性に着用が義務付けられているか、もしくは歴史的に義務付けられていたものでヒジャブと呼ばれます。国によっては外国からやってきた旅行者でも、強制こそされませんが身につけるよう推奨されます。
「Uターンして逃げようとしてもお見通しですよ、エリザベスお嬢様」
「うわ、ととっ……」牽引者が急に止まったため、足がもつれてしまった青年。あやうく転けそうになったところ……
「あぶない……」
女の子----エリザベスというのが彼女の名前のようです----の前に現れた女性は、警告というより自身の確認のため発した声の途中で、ふっと姿が消えました。
「あ、れ?」
青年は姿勢が崩れるよりも早く、背後から抱き止められていました。片腕で背後から彼を抱き止めたのは、腕を組んでいた先ほどの女性です。青年の視界には歳上の女性の美しく整った笑顔があって、彼はそれを間近に見上げていました。
「大丈夫かしら、こんな異国の地でできたお嬢様の初めてのお友達、お怪我をさせたりしたら御主人様に顔向けできません」
「ずるいわっ! あなたまで……来てたなんてっ!」
いつの間にか、エリザベスは後ろ手に縛られたような格好で身をよじっていました。青年を助け起こした女性は、同時にエリザベスのブラウスの両袖を片手の曲げた指でつまむように持っています。軽く指で引っ掛けているだけに見えますが、女性による拘束はなかなか強力なもののようです。
「あなたが、いたんじゃ……にげ、られっ…ないじゃ……ないのよ、もぉーーっ!」
「はしたないですわ、お嬢様。こちらの方もご覧になってますよ」
「う~~」
「ごめんなさい、お若い方。見たところ、お嬢様とはこれまで接点をお持ちになられたことはなかったものと思われます。わたくしの不見識でしたら、まことに申し訳ありません」
「あ、いえ……こちらこそ、助けられたままですみません」
ほんのりと頬を染めながら、やさしく抱き止められた温もりから脱出した青年は、自分でも感じる頬の上気を隠そうと深々と頭を下げます。
「ロイド・カークライトといいます、このカイロの地で遺跡発掘の手伝いをしてる学生です」
「へえ~~、そうだったんだ! へー……」
青年の答えを聞いてまず最初に声を上げたのは、エリザベスでした。先ほどまで彼女自身が手を引いて走っていたロイドという青年を、自分が拘束されているのも忘れ、改めてじっくり見回しています。
「予想してたとおり、ぴったりだわ! なにもかも、おあつらえ向きよっ!」なにがぴったりなのかロイドには皆目も見当がつきませんでしたが、エリザベスは興奮した口調で続けます。
「あたしエリザベス、リズって呼んで。子供のころから、友達はみんなそう呼ぶの! あなたは…ロイドね、よろしく……ううー」
恐らく握手をしようとした彼女でしたが、身動きが取れない状態にあることを失念していたようです。後ろ手に縛られたようにバランスを崩しかけた体勢で、袖口を持つ女性にうらみがましい視線を送ります。
「落ち着きなさい、エリザベス。あなたは小さい頃からそうだったわ」
エリザベスを拘束する女性は、それまでの口調とは変わって小さい声で厳しく叱りつけます。身を乗り出そうとするエリザベスの身体を引き寄せ、お嬢様とロイドの間に立ち位置を戻す彼女。一度咳払いをし、口調も元に戻してから青年に対し言葉を続けます。
「申し遅れました。わたくしはエリザベスお嬢様付きの使用人で、名をマルファ・モロゾヴァと申します、どうそお見知りおきを」
「よ、よろしくお願します」
エリザベスへ伸ばしかけたロイドの手が、聞きなれない名前の女性に改めて伸ばされます。が、ロイドはその名にロシア語風の響きがあることに気付き、差し出した手を恥ずかしそうに下ろしました。
「ロシアでは、あまり握手は好まれないんでしたよね、すみません」
「まあ、あなた連邦について詳しいのですね。気にされなくても、いいんですよ」
マルファ・モロゾヴァは袖を掴まえている手とは逆の腕を伸ばし、彼の手をとって握手を交わしました。
通常は敬遠されるロシア女性との握手にロイドは緊張しつつも、相手が思ったよりも背の高い女性なのだと気付きます。彼は遺跡発掘の手伝いをする上で外国からの旅行者の相手をすることが多く、ロシア女性は異性との握手はタブーだと上司である教授に聞いていました。そんな相手の方から積極的に行われた握手を交わしながら、彼は別のことを考えていました。
マルファの手は、滑らかで細かく手入れがなされた女性らしい手のひらですが、小さくてやわらかい手ではありません。仕事をしてる大人の女性ならではの、美しい手でした。
「良い男の子ですね。縁があれば、またお会いすることもあるでしょう」マルファは笑顔のまま、続けます。
「でも、お嬢様とお近づきになるのは、もう少し先ですね。もしあなたが下心を持ってお嬢様に近づいたのなら、その目標は達成されることはないでしょう」
「な……っ!」
ロイドはその下心という言葉に虚を突かれ、とっさに言い返すこともできない状況です。マルファはその瞬間にあごを使って周囲の黒服たちに指示を出します。
「なにすんのよマルファ! あたし、まだロイドに……用事があるんだからっ!」
マルファがエリザベスを軽々と肩に担ぎ上げた時、ロイドの両脇にも男たちが立っていました。行動を制限するつもりはないようですが、余計なことはするなと言外に脅しているようです。
「ちょ…マルファさん? あなた方、まさか誘拐犯なんかじゃないですよねっ!?」
「もちろんそんなこと、しません」抱え上げた手足をじたばたさせるエリザベスを苦ともせずに、マルファは笑顔で応えます。
「わたくしは、エリザベスお嬢様の教育係で、立派な花嫁に育て上げる使命があるのですから」
マルファがそういうと、表通りから大きな黒い車が入ってきて止まります。車の広い後部座席の扉に入れられそうになる中、エリザベスはロイドの名を叫びます。
「後でまたくるから! ぜったい、待ってて! 約束だからね!」
そこで、エリザベスの声が途切れます。マルファが後部座席に収まり、扉が閉じられたのです。車幅が広い分少しだけUターンにもたつきこそしましたが、車は表通りに出て瞬く間にロイドの視界から消え去っていきました。
車がターンする間、エリザベスはずっと後部座席から身を乗り出すようにして、ロイドを目で追っていました。車からは、電気モーターの作動音として設定された疑似エンジン音しか聞こえず、エリザベスが車内で発した声は届きません。
ロイドは気が付いたら、両脇のふたりに軽く肩を押さえられていました。車が視界から完全に消えたことを確認し、それぞれロイドの肩から手を下ろします。
ふたりが先ほどのエリザベスの逃走劇に加わっていたのかは、外見からの判別では判断はつきません。片方の男が、逡巡したのちロイドの肩にもう一度手を置こうとします。もうひとりがそれを止め、無言のまま頭を左右に小さく振りました。
無言の会話はそれで終わり、そのままふたりはロイドに背を向け、立ち去りました。
青年は車が走り去るのを見送った体勢のまま立ち尽くしており、黒服の男ふたりが立ち去ったことにも気付いてはいませんでした。
* * *
こんな出来事があったようです。ロイドの脳裏には、叫べども声が届かないエリザベスの表情が繰り返し再生されていたのでしょう。独り言が口から漏れてしまうのも、不思議ではないと言えます。
さて、彼がこれからどうするのか、エリザベスとは果たして再会できるのかは、次回のお楽しみとなります。