7-12.主君への恋
──月の神殿、未詳の場
彼は目を覚ました。起き上がろうと試みるが、四肢に力が入らずに断念した。覚醒から十秒ほどの間隔をおいた後、己の四肢はもう右腕以外に存在しない事を思い出した。
日の巫女に選ばれし者ユウキに敗北し、彼の攻撃によって両腕両脚と胴体の一部をを失くした。残りの体力を全て用いて右腕だけ再生し、主君への贈り物を持ち帰ったのである。
しかし彼は、自身が神殿の何処に横たわっているのか把握していない。力の消耗と、セレーネが装置から石を取り出したことで完全に帰還できず、思いもよらないような場所に転移したのだ。
《ボクは……ボクハ……》
身体から頭の中までを後天的な月長石の力によって侵食された彼──ジュアンは、その右手にしっかりと握られた青白い石を眺めた。暫くそうしていると、やっと己の使命を思い出した。
《セレーねサマに、届け……なくテハ》
右腕の力だけでうつ伏せになり、また右腕の力だけで這いずって前へ進む。身体を引き摺ることによる痛みや倦怠感を忘れようと、彼は自分にとっての幸せについて考えた。すなわち、主君セレーネについてである。
《ボクハ、あなタノ奴隷……アナタ様ノ……》
いつも彼に仕事を与える少女。いつも力をくれる少女。そして、いつも優しく微笑んでくれる少女。そんな彼女を主君とし生きていられる自分は、世界で最も幸福な存在なのだと感じていた。
しかし同時に、不安も感じていた。
《ボくハ、アナタのオ役に……立テて、イナイ……?》
セレーネがジュアンに与えた最初の仕事は、桜咲き誇るウルスリーヴルでユウキを滅することであった。彼はこれに失敗し、本来の左腕を失った。
次に、音の乱れ響くトリシュヴェアの渓谷でユウキを滅すること。彼はこれも失敗し、身体の多くを失った。さらに、ユウキの眠れる力の片鱗を呼び起こしたのである。
西に刺さった鎖の月長石を回収する仕事は成功を収めた。
最後に、クライヤマでユウキら旅の御一行を迎え撃つ仕事である。それはまさに先程失敗し、こうして様々なものを失った。力も身体も、そして──
《信……ラい…………》
セレーネから与えられた仕事の内、ジュアンが成し遂げられたのは月長石の回収のみであった。腕も足も理性も失くし、主君からの信頼さえも失ったと彼は悲観した。
さらに不愉快な事に、彼の脳内にはユウキによる問いが響き続けている。
──出身は?
──年齢は?
──何処で生まれてどんな人生を歩んできた?
──なぜセレーネに仕えてる?
《ボクは、何処カラ来たンだ……?》
気が付いた時には既に月の神殿に居り、セレーネの前で跪いていた。それよりも古い記憶は存在しない。
《年れイ……? どう、生きテ来た?》
太古の時代からセレーネに仕えている。ヴェルクリシェスにて、彼はユウキにそう答えた。実際にそう思っているし、そのはずであった。
しかし、やはり記憶は存在しない。ただそうであると思っているだけなのだ。やはり、神殿で気が付いた瞬間より前は把握していない。
ただ、一つだけ覚えていることがあった。記憶と呼べるかも分からない。もしかすると夢かもしれない。しかしそれは、確かに何度か頭の中に浮かんだ絵である。
《花畑…………》
静かな夜。満月の元で白い花が咲いている。彼はその中に一緒に居て、月を眺めている。そんな不思議で断片的なものだ。
《分か、ラナい…………》
自分は何故、セレーネに忠誠を誓ったのだろう。「ご褒美」を欲しがったからか。そういう使命だからか。
《違ウ……!》
四つ目の問いに対する答えの仮説を、彼は自ら否定した。かと言って正しい答えを導き出した訳でもない。ただ本能的に違うと判断したのだ。
《もっと、美シイ理由が……》
次にジュアンが思い出したのは、ユウキが「僕たちは同じ」と言ったことである。
ジュアンははじめ、自分もユウキも復讐がしたいのだろうと言う意味で「同じだ」と発言したつもりだった。ユウキはそれを否定し、復讐などしないと語った。
しかし、クライヤマで対峙した時には同じだと話した。彼は何を以て同じと言ったのだろう、という疑問を抱いていた。
《こノ気持チは、なンだ……?》
自らの感情一つ一つについて考えていたジュアンは、最後の一つのみ、それが何か判別しかねた。それは、セレーネの遣いであるというモチベーションの中に潜む、温かい気持ちであった。
《忠誠心トは違う。使命感、でモなイ……。何だ、何ナンダ……?》
右腕に力を込めて少しずつ、しかし確実に前へ進む。同時に、己の疑問に対する答えを探し続けた。
《セレーネ様……》
名前を呼ぶ度に、ジュアンは彼女の姿を鮮明に想像できた。整った顔も、綺麗な髪も。黒い羽衣姿や、多く露出した白く美しい肌と肢体も。声すらも寸分違わずに。
《こレは……?》
彼女の事で頭を埋め尽くすと、ジュアンは鼓動が激しくなるのを感じた。また、突如として顔面に熱が生じた事も実感した。その途端、ジュアンは直前まで不明だった気持ちの正体を瞬時に理解する。
《そうカ。こレは、恋ダ。ボクは、セレーネ様に恋ヲシテいる……》
同時に、ユウキが言った「同じ」の意味も理解した。
《フフフ。そうカ、そうカ。ボクはセレーネ様ノ事ヲ愛シテいるノダナ》
その事に気が付いた彼の意思は、次第に強くなっていった。体力が伴わない事を悔やみながら、なおも前へ前へ這いずる。
《どうでも良いサ、ボクが何者カなンテ。何であろウト、こノ恋ゴこロだけは本物なのだから》
それからもう少し進んだ頃、ジュアンは激しいオーラを感じた。愛おしき主君が放つ、月輪の力である。
《ああ、始マル! セレーネ様の罰ガ、いよいよ開幕すルンダ!》
起きている事を理解したジュアンは、もう一度セレーネに会うことを強く望んだ。
仕事をなせなかった自分に、「ご褒美」が与えられないであろう事は分かっている。しかし、それでも彼はセレーネの元へ急ぐ。もう一度彼女の顔が見たい。もう一度彼女の声が聞きたい。その一心であった。
《月ノ巫女セレーネさマ……いや、ボクの想イ人セレーネ……!》
その時鏡面の様に磨きあげられた神殿の床を這っていたのは、もはやセレーネの遣いジュアンではない。
ただただ、恋焦がれる一人の少年であったのだ。