6-4.月の巫女
セレーネ過去編 開始
──ルナリーゼン
そう呼ばれる集落では、人々が平和に、かつ穏やかに生活していた。暴力など欠片も無く、富も貧も無い。
所有という概念を持たず、採れたものはその全てが、ルナリーゼンに住む全員の財産として共有された。
誰もかれもが、真に平等で同じ高さに立っていたのだ。
集落の奥には、ひときわ目立つ建築物がある。木造建築物が大半であるルナリーゼンにおいて極めて異質な、石材によって建てられた神殿だ。
真っ白で飾り気のないその場所に、一人の男が入って行く。鏡のように磨かれた床に自身の姿を見ながら進み、やがて最奥の部屋へ。比較的新しく、後付けによって設けられた木製の扉を、男は開いた。
「巫女様」
そう呼びかける。視線を向けた先には、黒を基調とした羽衣に身を包んだ少女が一人。その体格に対して大きすぎる椅子に、姿勢よくお淑やかに座っている。
「ちょっと。レディの部屋に入る時は、ノックくらいしなさいよね〜」
しかし、その言動は姿勢と相反しておちゃらけた様相である。
「も、申し訳ございません!」
「ま、いいけどさ。それより、何か相談事?」
「ええ。実は最近、困ったことがありまして」
少女の前まで歩き、男は膝をついて用件を述べる。視線は、数段高い場所にいる高貴な存在へと向いていた。
「食物庫を荒らすネズミが出るのです」
「ネズミ? だって、ネズミ返し付けてあるんでしょ?」
「はい。付けてあるのですが、何処からか入り込んでいる様なのです」
少女は、うえぇ……と怪訝な表情を浮かべる。集落の畑や倉庫を荒らす小さな悪魔を、彼女は好かない。その姿を想像するだけで身震いする程であった。
「そ。じゃあ、駆除しちゃってよ。一匹残らず、徹底的にね」
「しかし、いつどこから現れているのか──」
「交代で見張ってたらいいじゃない。ルナリーゼンの食料危機なんだから、お願いよ」
「え……は、はあ」
決して聡明とは言えない解決策が提示され、男は少し困惑した。しかし、自身らの信仰対象がそう述べているのなら、従うまで。彼はそのように納得し、礼を言って立ち上がった。
「それと、ネズミの死骸はしっかり焼いて棄ててよね。病気が広まっちゃたまらないから」
「かしこまりました」
最後にまた一礼し、木の扉を開けて男は巫女の間を出た。その様子を確認し、少女は耳をすます。
「……もう居ないかな」
他に近付く足音は無いかの確認をしたのである。やがて邪魔者は居ないと判断し、少女は姿勢を崩した。
「あ〜しんど」
座面に右足を乗せて片膝を立て、左脚はだらしなく放る。右肘は立てた膝に乗せ、背もたれを大いに活用して体重を預けている。
「なんで私がこんな事しなきゃいけないのよ」
その語気には、僅かな怒りの感情が籠っていた。ルナリーゼンにおける信仰対象である「月の巫女」は、彼女──セレーネの家系が代々継承してきた役割である。
月長石の飾りを身に付け、月輪に祈る。そうやってもたらされた恩恵を、集落の人々に分け与える存在だ。天候の変化を予め告げたり、作物の適切な収穫時期を案内したりする。また、先程のような民の相談事に答える事もしばしばある。
「ほんっとヤダ」
巫女を継承するまで1人の少女として存在していたセレーネ。しかし、数年前に巫女となると、それまでに築いてきた交友関係などは全て破棄させられた。「月の巫女」はルナリーゼンの象徴的存在であり、特定の個人のみと特別親しくする事は許されないからである。
生まれながらにして背負った運命を、彼女は心底鬱陶しく感じていた。即位は名誉な事だと聞かされていたセレーネだが、他人のために己の自由を奪われる苦しみは彼女を追い詰めたのである。
「こんなことなら、巫女なんか継ぐんじゃなかった。集落のみんなの為とかどーでもいいし、私は私で在りたいのに!」
突如として感情的に叫んだセレーネは、十六という年齢に見合わず、手足を振り回してジタバタと暴れた。すぐに止まり、また椅子にだらしなく座る。
そこへ──
「巫女様、巫女様」
何者かが彼女を呼ぶ声が聞こえた。今の幼児退行を見られていないか、彼女は背筋が凍るような感覚を覚えた。
「いいよ、入っておいで」
入る前に声をかけるなどの合図をしろという決め事を守る貴重な存在であるため、その声の主についてはセレーネの記憶に刻まれている。顔も名前も、深く印象にのこっているのだ。
「いらっしゃい」
木製の扉を開いたのは、ルナリーゼンの神殿近くに住む少年である。歳はセレーネの二つ下で、名をジュアンという。数日に一回の頻度で月の巫女への貢ぎ物を持って神殿を訪れる、大人しい性格の男児である。
「巫女様に、貢ぎ物をお持ちしました」
「……もう、ジュアン」
巫女の間に入った彼が扉を閉めると、セレーネは椅子から下り、そう言いながら客人の元へ。山盛りの果物を乗せた籐籠を持つジュアンは、その優しげなほほ笑みに見惚れた。
「二人だけの時は、名前で呼んでって言ったでしょ?」
彼女が巫女になった当初から、ジュアンは貢ぎ物を持って来る役を担っていた。頻繁に自身の元を訪れる少年の反応を面白がって、セレーネは時折、冗談を言ってからかうなどしていた。
そのおかげか、セレーネとジュアンは次第に打ち解けた。ジュアンは唯一、月の巫女を本来の名前で呼ぶ存在になっていたのである。
「ご、ごめんよセレーネ」
「よしよし、よく出来ました」
少女は可憐な笑みを浮かべながら、ジュアンの頭を右手で数回撫でた。
「ちょ、ちょっと。ボクはそこまで子供じゃないってば」
セレーネの行動に照れくささを感じ、少年は声を吃らせた。その反応もまた、セレーネが面白がるものの一種である。