5-15.肯定を待ちわびて
──騎士になって約四年。二十二歳を迎えたアインズは、母にとある吉報を伝えるため、ブライトヒル王国の精神病院へやって来た。
「おはよう、お母さん。お見舞いに来たよ」
「あら、お帰りなさい、アインズ」
病室に入った娘にトンチンカンな返事をした彼女の姿は、まだ五十歳とは思えない程に老け込んでいる。声はかすれ、手足はやせ細っていた。
「今日はね、いい知らせがあるんだよ」
要件を伝えつつ、母が居るベッドの横に椅子を持ってきて、座った。
「そうなの。テストの成績が良かったのかしら?」
なんの悪意も無く、むしろ満面の笑みで母は返した。
「……」
強盗殺人犯の事件で、アインズの母は精神を壊した。
彼女の中では八年前で時が止まっている。夫は仕事に出かけており、アインズは学校に通っている……と、そう思い込んでいるのだ。
「私ね、王国騎士団第一部隊の隊長になるよ」
そう告げると、母親は一瞬何かを考えた。
「凄いわねえ。ああ、ごめんなさいね。夕食の支度はこれからなのよ」
しかし、帰ってくる言葉は、やはり支離滅裂であった。アインズは視線を左下にそらし、拳を強ばらせた。
医者が言うには、八年も経ってこの状態だと回復は期待できないとの事。
「お母さん……」
母がこうなった原因は何なのだろうか。
──脅された事?
──お父さんが亡くなった事?
──それとも……
ブライトヒルを守るのだと騎士になったアインズ。もし母を壊したのが自分の行動だったとするならば……母親ひとりすら正しく守れなかったのならば、果たしてもっと大きな国など守れるのだろうか。
「あら」
「うん?」
母の視線が向かう先は、病室の窓枠。チュンチュンと鳴くイエスズメがとまっていた。
「かわいいわねえ」
「そうだね」
見ると、小鳥は昆虫をそのクチバシに咥えていた。これから巣へ向かい、ヒナたちに与えるのだろうかとアインズは考えた。
「いい? アインズ。命は等しく尊いものなのよ」
そんな小鳥を観察して、彼女はまた呪文のように唱えた。目線の向かう先は鳥のままである。
「……うん」
あの時、母は何を考えていたのだろう。
強盗殺人犯の刃がアインズに向かった際、彼女は「娘だけは」と叫んだ。それは、命の平等性を主張する彼女の信念とは矛盾する。もしかしたら、そんな理屈は綺麗事だと、心の奥底では理解していたのではないだろうか。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの?」
「もし、もしもだよ? 私が死んじゃったら、お母さんは悲しい?」
アインズの問いを聞き、何を言っているのよとまっすぐ目を見て、母親は返事をした。
「当たり前じゃないの。あなたは私の一人娘なのよ?」
「じゃあ、名前も顔も知らない異国の、赤の他人が死んじゃった時はどう?」
「何度も言っているでしょ、アインズ」
──やっぱり、そうだよね
「命は等しく尊いの。どちらも同じ様に悲しいわ」
「……そっか」
──考え過ぎかな
それから、成り立たない会話を数十分繰り返し、アインズは病院を後にした。
アインズの命に関する思考は、余計に絡まるばかりであった。
──アインズが第一部隊の隊長に就任してから、約一年が経った。部隊を率いる者として戦場に立つと、仲間の死はより重く、敵の死は更に喜ぶべきものとなった。
「命は尊いが等しくなどない」という、あの時に自ら選択して会得した価値観。それと「命は等しく尊い」という、選択の余地なく刷り込まれた価値観。
平等性と不平等性の二つが、アインズの中に併存していたのである。
「報告は以上です」
「そう、ありがとう」
王国城の隊長室にて、部下のアルニムから戦況報告を受けたアインズ。決して悪い知らせではなかったのだが、彼女の顔は晴れていない。付き合いの長いアルニムは、彼女が悩みを抱えているのだろうと容易に想像がついた。
「アインズさん、何かお悩みでも? 浮かないお顔をされていますが……」
「分かっちゃった?」
図星を突かれた彼女は、少し照れくさそうにした。席に座ったまま頬杖をつき、溜息をひとつ。
「アルニムはさ、敵が死ぬ事と味方が死ぬ事に、どんな差があると思う?」
「え?」
「ああ、変な事聞いてごめんなさいね。忘れてちょうだい」
「死ぬのが大切な人か、そうでもない人か、じゃないですか?」
「……」
何の迷いもなく、アルニムは答えた。しかもそれは、母の刷り込みを真っ向から否定する考え方だ。アインズは驚き、彼の顔を見る。
「縁起でもない例えで申し訳ないんですけど、私は、アインズさんが敵の手にかかったら、怒り狂ってその敵を殺しにかかると思います。大切な、大切な先輩ですからね、アインズさんは」
「私もその敵も、同じ人間で同じ命なのに?」
「……あ〜、なるほど」
数秒ほど目線を上に向けて考え、視線を戻した後、アルニムは隊長に向けて続けた。
「そこまで、神様みたいな視点に立つ必要は無いと思います」
「神様、みたいな……?」
「ええ。アインズさんは一人の人間じゃないですか。なら、主観的に大切な命とそうでない命があるのは、当然だと思いますよ。アインズさんだって、顔も名前も知らない人より、ツヴァイさんが敵の手にかかった方が悲しいでしょう?」
「なんでツヴァイなのよ……? でもまぁ、確かにそうかもしれないわ」
多くの仲間が死ぬところを見て来て、アインズは思考と心のギャップを実感していた。
「仲間の死を見る度に、一時的に力が増すような気がするの」
「仲間の死が悔しくて、怒っているんでしょうね。なんだか、アインズさんの中に別人が居るみたいだ」
「別人ね……」
アインズはまた、命についての思考に埋もれる。アルニムが放った「別人」という表現は、彼女を妙に納得させた。一つの物事に関して、二つの矛盾した理解を持っている事は自覚していたからだ。
九年もの間、どちらの「自分」が正しいのか判断しかねていたのだ。
「おっと、もう行かないと。では、これにて失礼します」
「ええ。ありがとうね、アルニム。今度何かご馳走するわよ」
「えっ、良いんですか?! いやぁ楽しみだな〜」
「……遠慮ないわね」
アルニムはへへっと笑い、敬礼をして部屋を出た。彼を見送り、アインズは机に突っ伏す。
──もう、どちらが正しいのか考えるのは辞めよう
既に判っていた。学生時代に聞いたアンネの答えや、先程アルニムが語った言葉が、現実的に正しい事は。
──誰か、助けてくれないかな
その判断は間違ってないよと。
お母さんの言葉じゃなく、自分を信じれば良いんだよと。
誰かが肯定してくれるのを、アインズはずっと待ちわびていた……。