5-13.不平等で下劣な命
──数日後。
その日の授業を全て受け終え、アインズは帰路についた。相も変わらず西日をその青き眼に受け、自宅前最後の角を曲がった。往来を進みながら、自宅の庭を覗き込む。
「あれ」
この時間、アインズの母は庭の手入れをしている事が多い。しかし、今日は姿が見えなかった。
とは言っても、毎日そうという訳ではない。特に疑問を呈することもなく、アインズは玄関をくぐった。
「ただいま……?」
靴を揃えて居間を覗くと、やけに暗いことが分かった。夕日が差す時間であれば、もう灯りを灯していても良い。
それに、今日は父親の仕事が休みのはずであった。なおさら、暗い事に対する違和感が増していく。
「出かけてるのかな……?」
灯りをともそうと、居間を一歩ずつ進んでいく。その最中で、誰かの脚が見えた。テーブルと壁の間、人ひとりが横たわってちょうど良いスペースに、それはあった。
「もう、お父さん。そんな所で寝てると、風邪ひくよ?」
休日だからとワインを飲み過ぎたのだろう。そう推測し、暗い部屋を歩く。
「……ん?」
ピチャという音が耳に届いた。それと同時に、生暖かい感覚が彼女の足の裏を包んだ。
「お父さん?」
その場でしゃがみ、横たわった父の脚を揺する。反応がない。
よほど深い眠りに就いているのかと、視線を顔の方へ──
「えっ?!」
父親の腹に、何かが刺さっているのが見えた。木製で薄い茶色の円柱型。少し湾曲していたり、文字が刻まれていたりと、どこかデザイン性があった。
彼女はそれがナイフの柄であると、すぐに気づく。驚いてしりもちをついてしまい、アインズの手や尻は足の裏と同じ感覚に支配された。
「そんな、そんな! お父さん! 嫌だよ!」
父親の体にもたれかかり、必死に呼びかける。しかし、やはり返事は無い。すでに息絶えていたのだ。
何かの悪戯ではないだろうか。そんな淡い期待を込め、アインズはナイフを抜いた。傷口から、それ以上血液が流れることは無い。
「お父さん……なんで? 誰がこんな──」
その時。
台所から、女性の声が聞こえた。また、見知らぬ男の怒鳴り声も同時に響く。
──お母さんは、まだ!
抜いたナイフを右手に持ったまま、アインズは気配を殺して台所へと向かった。
刃物で脅され、家中からありとあらゆる金品を回収。更に「殺すぞ」と言葉でも脅されたアインズの母は、それらを必死に袋に詰めた。手が震えており、時折、手から床へ落ちる物もあった。
「おい、これで全部だろうな?!」
そう母親に問い質したのは、全身を黒い衣服で包み、顔に不気味なドクロの仮面を着けた男である。その手にはナイフを持っている。何本かの予備を携えてアインズの家を襲撃しに来ていた。
「は、はい! 家にはもう財さ──」
「ガタガタ言うな、早く寄越せこのババア!」
「ひぃっ!?」
左頬に男の拳を受けたアインズの母は、その場に倒れた。ちょうどその場面を見たアインズ。一歩、台所へ足を踏み入れた。
「お母さん……!」
「あ?」
「アインズ! 来てはダメよ!」
「んだ、ガキかよ。めんどくせぇな」
すっかり腰を抜かした母親に背を向け、男はアインズへ向かって歩み始めた。
「やめて!」
一人娘は殺させまいと、必死に男の足にしがみついて止める。そんな母の行動を見て、アインズの心に亀裂が走った。
「離せクソが!」
「娘は! 娘だけはっ!」
どうして母は、私「だけ」は殺させまいと言うのだろうか。私が死のうが、自分が死のうが、同じく命が失われるだけなのに。亀裂はさらに大きくなる。
「邪魔すんならテメェからだ!」
母親の妨害に激昂した男は、再びアインズに背を向ける。
「や、やめて!」
静止を促すアインズであったが、やはり聞き入れられることはなく、ナイフが振り上げられた。このまま見ていると、遺体が一つ増える事になるだろう。
「くっ!」
アインズは歯を食いしばった。ナイフの持ち手が軋むほど力を込めた。心のヒビ割れは一周し、ついに二つに分裂した。
──お母さん、ごめんなさい
刃先を男に向けたまま、柄を掴んだ右手を引いた。空いている左手は、刃先と同じ方向へ。足に力を込める。拍動が全ての音をかき消した。
この瞬間、アインズは初めて母の言いつけを破った。命は、全てが等価な訳ではなかった。守るべき命がある限り、その影となる命がある。
それすなわち、アインズは強盗殺人犯の命を、母のそれよりも価値の低いものと評価したのである。
今にも、男のナイフが振り下ろされようとしている。
──速く
──出来る限り速く
──そして、一撃で
その想いに支配され、一度、瞬きをした。次に目を開けた時には、男の左肩甲骨と背骨の間にナイフが刺さっていた。
「うぐっ……ク……クソ、ガ、キ──」
男は右手に持ったナイフを床に落とし、そのまま倒れた。動いて反撃に出ることはなく、父親と同じ状態になった。
アインズもまた、凶器から手を離し、その場に立ち尽くしていた。
「ア……アインズ……」
「ごめん……なさい……ごめんなさい……」
あっけにとられる母親の前で、彼女は涙を流す。薄暗いはずの台所は、アインズを包む黄金のオーラによって、仄かに照らされていた──。