5-12.呪詛の上塗り
──数ヶ月後
アインズはいつも通り、学校へ行くために起床した。カーテンを開けて陽の光を浴び、覚醒。寝間着から着替えて居間へ降りる。
父親は既に家を出発しており、姿は無い。
「お母さん、おはよう」
「ええ、おはようアインズ。朝ごはんできてるわよ」
「うん、ありがとう」
冷たい水で顔を洗う。少し気温が高くなってくる時期のこの瞬間を、アインズは密かに好いた。
次にブラシを取り出し、金髪をとかす。よく手入れされており、引っかかる箇所は無かった。
鏡で自分の姿を確認し、問題ない事を確認して居間に戻る。作業を一段落させた母親が、コーヒーを飲んでいた。
「わあ、美味しそう」
皿に乗った朝食のメニューを見たアインズは、それがいつにも増して豪華であることに気付いた。毎朝の硬いパンではなく、甘い匂いを放つクロワッサンが二つ置かれている。
「そうでしょう? お隣さんが、おすそ分けしてくれたの。沢山焼いたからぜひ、ってね」
「凄い、お店で売ってるパンみたい」
パンの味に期待しながら、母の向かい側に座った。
「いただきます」
時間を気にしつつ、アインズ宅にとっては珍しいパンを味わう。ジャムを塗らずとも、ほんのり甘い。
「美味しい!」
表面がポロポロと崩れやすい事に気付き、床にこぼさぬよう注意を払う。あまりの美味しさに、寝起きとは思えないペースで二つのクロワッサンを平らげてしまった。
出発時間になり、アインズは家を出た。玄関まで見送りに来た母に手を振り、前を向いた。
「……騎士?」
目に映った景色は毎日の通学路だが、その中に、鎧を身に付けた屈強な者が四人見えた。皆、それぞれの方向を注視していて、まるで警戒しているようであった。
──何かあったっけ?
騎士団の凱旋パレードか、国王のパレードか。どちらにせよ、何かしらのパレードでもなければ、この辺りを騎士が警戒する理由が見つからなかった。
クロワッサンで増した幸福度が一変。アインズの中に、少しの不安が生まれたのであった。
学校へ着くと、他の生徒たちがザワザワと騒いでいた。
「おはよう、アインズちゃん」
教室に入ったアインズに、待っていたと言わんばかりの勢いで、隣席の友人が駆け寄った。
「うん、おはようアンネ。みんな、どうしたの?」
「あれ、見なかった? なんかね、街中に騎士がたくさん居たんだって。ただ事じゃないって、みんな言ってるよ」
ふと、玄関を出た時の記憶が蘇る。同時に、自分も抱えたあの不安感を共有する為に騒いでいるのだと合点がいった。
「席に着け!」
真剣な表情で、教官が入って来た。始業まではあと三十分あるはずだが、なにか急いでいる様子である。
「知っている者も居るかもしれないが、現在、王国城の牢獄に収監されていた強盗殺人犯が、脱獄中だとの知らせが入っている」
──それでか
「騎士団が警戒しているが、もし犯人に遭遇したらすぐに彼らに伝えること。諸君らはまだ騎士の卵だ。決しておかしな気は起こさないように」
以上と告げ、彼はまた教室を出た。
「ねえ、アインズちゃん、アンネちゃん。聞いた? さっきの犯人の事」
「ううん、何も聞いてないよ」
「噂なんだけど、懸賞金がかかってるんだって。それも、生死不問でね」
──生死不問?
──そんなの、変だよ
犯人にだって命がある。アインズが真っ先に考えたのはそれだった。同じ命なのに目の敵にして、生死不問でお金をかけるなんて……と。
彼女の「等しさ」へのこだわりは、もはや狂気と呼べる域に達していた。
──翌日。
アインズが学校に到着すると、騒がしさは昨日の比ではなかった。ザワザワと言うよりも、ガヤガヤと言った方が適切である。
「おはよう、アンネ。……なんだか騒がしいね」
「大変だよアインズちゃん! 見てこれ!」
「なに?」
アンネが手に持っていたのは、緊急ニュースを知らせる印刷物であった。
「脱獄中の男による犯行と思われる……強盗殺人事件。老夫婦を殺害し、金品を奪取」
「怖いよね。でも……申し訳ないけど、ウチじゃなくて良かったなって思う」
紙をアンネに返しながら、アインズは考えた。
もし、被害にあったのがアンネだったら?
自分だったら?
老夫婦の知らせを見て、アインズは泣いたり悲しんだりはしなかった。
「このニュースを見て泣かなかったなら、他の誰が狙われたって泣くべきじゃないでしょ?」
「……まあ確かに、不平等だとは思うけどさ。アインズちゃんだって、自宅が襲われたら最悪でしょ?」
「……どう、だろう」
自宅が襲撃されれば何が起こるか。そのイメージがつかなかった訳ではない。アインズが言葉を詰まらせたのは、命の不平等性を謳うアンネの言葉に、少しばかり共感したからであった。
──いい? アインズ
──命は等しく尊いものなのよ
また、母親の言葉が彼女の頭を支配する。その呪詛が響く度、アインズは内心で謝罪をしながら己の考えを改めた。
「ううん、やっぱり同じだよ。見知らぬ老夫婦だろうと、家族だろうとね」
「……そっか」
こうして洗脳の上塗りを繰り返すうちに、アインズは自分で考える事を忘れた。母が言ったから正しい。それが当たり前だと思っていた。
幼くして植え付けられた価値観を破壊する、絶望に出会うまでは。