最終話 奇蹟よ、もう一度
イリスにとっては最高の、ラルバにとっては最悪の再会だった。
彼女は車椅子の女の元に駆け寄ると、お互いに抱き合った。
「先生! 助けてくれてありがとうございます。でも、その足は……」
「お気になさらないで、生まれつきですわ。だからあたくし、夢の中でしか自由に出歩けませんの」
「ねえ、ババア。あのガキ死んだの?」
茶化そうとしたジルエットをイリスが睨みつけると、彼はばつが悪そうに黙り込む。
タナトスはラルバの前に降り立つと、大きな鎌を携えた小男の姿になった。
「ふう、少し手間取りましたが、今度こそお迎えに参りましたよ。ソーリス様」
ラルバは目を見開いた。
タナトスと同じ力を手に入れた、今のラルバならわかる。
……まだ、魂? 微かな魔力の塊のようなものが身体の中で小さく留まっていると。その状態から生き返るかなんてわからないけど……一つだけ言えることがある。
ルークを後ろに寝かせ、ラルバは目の前の小男に低く囁いた。
「お前、そういえば言ってたよな? 肉体と魂が揃ってんなら蘇りの儀式ができんだろ? ……やれよ。今すぐに」
「ああ、その節はご迷惑をおかけしました、ウォラーレ様。あの時はどういうわけか、ワタクシも少々乱心していたのでございます。でも、本当はそういう事はやれないのですよ……」
「もう遅いんだよ。俺をこんなにしやがって、お前も共犯だからな。だから、やれ。じゃなきゃ」
ゆっくりと息を吐き出す。
糸でその場にいた全員を縛り上げ、左手から大鎌を取り出す。
「……ここにいる奴ら全員殺してやる」
その一言で、皆が凍り付いたのがわかった。
「ちょっ……ちょっと待ってよ。アンタ狂ってんの? さっきあんなに助けようと必死だったのに」
「黙れ鳥野郎」
放り投げた鎌が風を切り、ジルエットの足元に突き刺さって消えた。
「ひぇっ、マジかよこいつ……」
「なあタナトス? 困るよな、そんな事されたら。それが嫌なら、黙って俺の指示に従いやがれ!!」
震えた声を誤魔化すように、怒鳴り声をあげた。
「ウ……ウォラーレ様、誠に申し訳ありません! でも、できないものはできないのですよ。壊れたら元に戻らないものってあるでしょう? 失われた命は元に戻らないのです……当たり前の事でしょう?」
…………え?
「は? それじゃ……何? あれはお前の嘘だったって事……?」
「そう…なりますね。ルーナエ様の力を手に入れるのと、大勢の魂を集めるための……し、信じて頂けないかもしれませんが、なんでそんな愚かな事をしたのかわからないのです。魔が差したとでもいいましょうか、なんだか貴方様の状況が他人事に思えなくて、つい嘘を」
「もういい!」
鎌を振ると、タナトスは小さな肩を震わせて押し黙った。
じゃあ、俺が今までやってきた事は、全部無駄だったということか?
近い未来が、手に取るようにわかる。
自分は罪人として裁かれ、誰も彼もが自分の前から消えていく。どこにも居場所はない。それなら、もはやこの世界に希望はない。
……門番とファドが一瞬光を信じさせてくれたけど、そんなものは幻想だった。やっぱりここで皆一緒に死んでしまおう。そうしたら、二度と失うことはないから。
その鎌を振り上げた時、「ちょっと待って」と黙っていたイリスが口を開いた。
「ラルバさん……どうしてこんな事をするのです?」
「ごめん、ごめんな。俺だってこんな事したくないよ。でも……昔、お前にイキシアで話した事、覚えてるか? ……天罰の話だよ。あれは本当だった。俺、わかるんだ。俺の周りの皆が、近いうちに消えていくってな。だから死んだ人を蘇らせるか、運命を変えることが、俺にとっての希望だった。せっかく、ファドが運命を変えるきっかけを作ってくれたのに……俺は特別な力を持ってるのに……それでも変えられないなら、俺はもう……明日を見たくない……」
誤魔化した感情を抑えきれず、その場に崩れ落ちた。
糸が溶け、何もできない彼らは破滅していく男に憐れみの視線を向ける。
しかしイリスだけは彼に歩み寄ると、静かに言った。
「実は……私、一度だけ女神として奇蹟を起こしたんです。一度は呼吸がほとんど無くなって、冷たくなっていた人を一晩で呼吸が安定するまでに快復させたんですよ。薬も、医療の知識もほとんど無い中で」
「え……?」
「ラルバさん、あなたの事ですよ。ジルエットに斬り裂かれた事、覚えてますか。あなたが眠っている間、私、あなたの手を握っていたんですよ……」
そして、ラルバの前を通り過ぎてルークの手を両手で包み込む。仄かに、その手が柔らかな緑色に輝きだす。
「それから私、自分の能力について考えたんです……あなたがファド君に無意識に生命力を分け与えていたのと同じことが、私にもできるかもしれないって……それはもしかしたら、同じゲムマ族だけかもしれませんし、条件もよくわかりません。でも、試す価値はあるでしょう?」
「……イリス」
「私が諦めないでって言った理由がわかりましたか? ……私があなたの希望になれると思ったからです。あの時は竜に邪魔されてしまいましたけれど」
ふと、夢の中でイデアが言っていたのを思い出した。
イリスは無意識に、ゲムマ族の生命の源になっている魔力を放出し続けていると。
彼女は目を閉じ、強く祈ると光は更に輝きを増す。ラルバと車椅子の女、そしてフォルテも目を閉じて祈った。
いつの間にか女神ハルモニアが奇蹟を起こす瞬間を、誰もが見守っていた……たった一人を除いては。
唐突にタナトスが動き出し、イリスとルークに襲い掛かった。風も水も地も、彼には通用しなかった。振りかざした大鎌は空を切り────もう一つの黒い刃とかち合った。
「させるか!」
ラルバが翅を広げ、二人の前に立ち塞がる。
「お待ち下さいませ! これで蘇生したら、運命が本当に変わってしまうわけですが……」
「そもそも運命なんて誰が決めた? 変えて何が悪い? ……どの道へ行くかは俺らが決める。だから、勝手に決めねえでくれるかな!」
胸倉を掴んだところを糸でがんじがらめにした。
「あ、あああぁあああ、本当に色々とおかしくなってしまいますから! ちょっと!!」
その刹那、呼吸が途絶えていたルークが血を吐きながら激しく咳き込んだ。
「!!」
一瞬、全ての時間が止まった。そして────彼がほんの僅か、呼吸を始めたのを見てラルバとイリスは歓喜の声を上げた。抱き合って、お互い涙で顔をぐちゃぐちゃにして、そしていつぶりか心から笑い合った。
「イリス……ありがとう…本当にありがとう……!」
「いいえ……ファド君やあなたやフォルテの誰が欠けても、運命を変えることはできなかったと思います。ルークさんもここに来るまで頑張ってくれていましたし、皆で戦った結果ですよ……」
フォルテも何も言いはしなかったが、ただ静かに彼らを見守っていた。
「窒息しないように横向きに寝かせてあげて、自由を愛する鳥さん」
「な、なんでボクが。てか、なんでアンタあいつらの肩持ってんの。アンタもボクと同じ立場だろ?」
「どのような形であれ……あたくしはイリスの、そして皆さんの幸せを願っていますから。黒の魔女は、幸せになるための一つの方法に過ぎませんわ」
ふと、遠くから響き渡る蹄の音にジルエットは血相を変えた。
「……やば、人間だ! ボクもう行かなきゃ、流石に今あの人数は相手にできない……!」
「戦う前提ですの?」
「ケッ、アンタとは違うんだ。今日のところは……逃げる!」
「あっ、待ってジルエット。まだ解放するなんて一言も」
「イリス、悪く思うなよ! 約束通り、これでボクは自由だ! アヒャヒャヒャヒャ」
青い小鳥の姿になったかと思うと、ふらふらとまだ雨降る空に飛び立っていく。
「……ふう、もう大丈夫そうね。あたくしもお暇しようかしら」
「え、先生も行っちゃうんですか? やっと会えたのに……」
「ええ、また竜が起きないうちに……それでは、ごきげんよう。また夢でお会いしましょうね」
各々立ち去っていく中、一人放置されていたタナトスは恐る恐る本を取り出してページを繰り、魂の抜けた声で呟いた。
「あ……ソーリス様の寿命が変わってる」
「それって、そんなにコロコロ内容変わるのか? ハハッ、運命なんて意外とあてになんねえな」
「もう……どうなってもワタクシは責任は負いかねますよ」
「それならそれでいいよ……運命は絶対ではないって事がわかったからな」
その視線の先には、イリスがいる。傷ついたフォルテに、声をかけながらそっと抱きしめていた。
コーラムバインは完全に壊滅した。沢山の死者や行方不明者も出した。ファドも犠牲になった。これが黒の魔女が民衆に広く知れ渡るきっかけとなり、後に『コーラムバイン大災厄』と呼ばれるほどの甚大な被害だった。
たしかにそれは、まごうことなき災いだ。しかし、少なくともラルバの胸に最後に残されたのは、微かな希望の光だった。
黒の魔女やその使い魔達の脅威、自らが背負った罪の贖い、これからの生活────決して、未来は明るいものとは言い難い。
けれど、イリスの輝く瞳を見ていたら少し心が安らぐのを感じる。死の運命を覆したあの子と一緒にいたら、きっと何があってもどうにかなるんじゃないかと。彼女は、ラルバの新たな希望だった。




