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イリスの灰色の世界~白の女神と黒の魔女~  作者: 右京 直
第三章 無垢より純黒に
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第二十六話 悲しみの連鎖

 その日の夜のこと。


 容態が急変した時に備えてルークもラルバの側にいるつもりだったが、彼に寄り添うイリスと二人きりにしてあげようと思って二階を離れた。


 ……いや、違う。本当はそんな気の利いた理由なんかじゃない。その光景が見るに堪えなかっただけだ。

 ファドは素直だから嫌いじゃないけど、ラルバの事は気に食わない。でも、幼い頃から知っている人間の変わり果てた姿なんて見たくないだろう。それに、残されたイリスさんだって可哀想だ。全くあいつは……周りの心労ばかり増やしやがって……!!


 色々な感情が混ざり合い、どこにもぶつけようのない苛立ちへと変わる。

 さっきまではロタスが食卓の片づけをしていたが、おもむろにスープを持って二階へ上がっていったことで、いよいよ一階は重々しい空気に満たされた。


 ランタン一つの明かりしかない部屋の中、フォルテは二階を気にしているように時々上を見上げている。ロタスが用意してくれた鳥かごの中には、イリス達が持ち帰ってきた捕虜ジルエットが死んだように眠っている。


 ────故郷を奪い、罪なき人々を悲しませ、神聖な大地を血で穢したその罪を今すぐにでも地獄の苦しみと死をもって償わせたい。


 そう思ったが、安易に殺すのは法と倫理に反する。僕はそんなに短絡的な人間じゃない。理性を保たなければ。奴にはまだ聞かなければならないことがある。だから殺しちゃいけない。ジルエットと同等の人間にだけはなりたくない。


 ……そう言い聞かせていたけれど、ずっとここにいたら頭がどうにかしてしまいそうだった。


「ルーク、どこへ行く?」

「……少し頭を冷やしてきます」


 ルークはたまらず外へ歩き出す。


 長い長い夜だ。光は何も見えなくて、暗闇が彼らを包囲している。


 心の奥底で燻っている怒りに理性で蓋をした後、いつも襲ってくるのは疲労と虚脱感だ。

 ルークは家の壁にもたれると、大きく息をついて目を閉じた。


 いつだって最善を尽くしてきたつもりだった。でも、何をやっても結局は魔女に弄ばれているだけだった────僕も、もう疲れた。

 あの日、僕を導いてくれた神様はこんな僕を見てどう思うだろうか? どうして何も語りかけてはくれないのだろう? いつかラルバが言っていた通り、最初から僕の思い違いだったのだろうか……それとも僕は見捨てられた? それならば次はどうする? どうしたらいい? ……誰か教えてくれよ……


 明けない夜はないと思っていたけれど、夜明けが想像できなくなっていた。どうしたら魔女を止められる? 僕の使命は? もう何も見えない。何も……


 ジルエットがいなくなった後の夜は無風だ。不快な暑さだけがルークに纏わりつく。けれどもう動く気力も無く、心を虚空に浮かばせて、いつまで呆けていたことだろう。


 突如視界に飛び込んできた一筋の光が、ルークを我に返らせた。二階で彼女が何かを叫びながら、何発も何発も、狂ったように暗闇に向かって光線を撃ち続けている。


「イリスさん……!?」


 勝手に身体が動き出す。

 フォルテも異変に気がついたようで、二人で二階へと駆け上がった。





 少し前。


 イリスはラルバの側を離れることができずにいた。

 彼は辛うじて息があるものの危篤状態であることに変わりはなく、少しでも目を離したら死んでしまいそうな気がしていたからだ。

 それともう一つ、イデアが消えたことも、ファドの正体もまだ受け止めることができず、彼の手を握ることでなんとか正気を保っていたというのもある。


 そんな彼女を見かねたロタスが小さな器にスープを入れて持ってきてくれた。


「イリスちゃん。辛いかもしれないけど、少しでも口に入れておきなさい」


 夕方、食卓にイリスが現れなかったものだから心配していたのだろう。


「……ありがとうございます」

「温かいものを食べたら、少しは気持ちも落ち着きますよ。ゆっくりでいいですからね」

「…………」


 食事はあまり喉を通らなかったけれど、スープから伝わる温もりはイリスをたしかに癒した……限界を超えて止まっていた彼女の思考を、ほんの僅かに動かすくらいには。


「大丈夫、ラルバ君は助かりますよ。みんなついているし、イデアちゃんも見守ってくれているもの。おいで、イリスちゃん」


 疲れ果てたイリスにとって、ロタスは蝋燭の灯火だった。とても小さく、頼るには心許ないかもしれないけど、暗闇をたしかに照らしてくれる温かい光。


 椅子に座ったロタスに膝枕をしてもらって、イリスは目を閉じる。

 彼女は歌を歌っていた。優しい歌声で。ラルバの閉ざされた右目から、一筋の雫が伝い落ちたことは誰も気づかない。


 ……私のお母さんがもし生きていたら、毎晩こんな風に子守歌を歌ってくれたのかな。


 温かい毛布にくるまれているような、覚えのない懐かしさに身体を委ねていると、フッと突然その声が止まった。


「……お婆ちゃん?」


 何事かと顔を上げたら、彼女は歌いながら眠ってしまっただけみたいだった。

 眠れずに夜にとり残されたイリスはしばらくそのままぼんやりしていたが────ふいに窓を叩く音がした。


「……!!」


 目をやると、一羽の大きなカラスがラルバの方をじっと見つめている。

 急に心臓を鷲掴みにされたような、強い不安感がイリスを襲った。


「……タナトス?」

「ごきげんよう、ルーナエ様」

「……何しに来たんですか。ラルバさんを連れ去りに来たのなら、帰ってください」

「そんな、ワタクシはただ……様子を見に」

「帰って!」

「うひゃぁ!」


 放った光線はかわされて闇に消える。だからすかさず乱射した。


「帰って! 帰って帰って帰って、帰ってよぉっ!!」


 あわあわ言いながら逃げ惑うタナトスが完全にいなくなるまで、夢中になって光を撃ち続けた。


「はぁ、はぁ……」


 やっと追い払ったと思ったら力が抜けて、その場に崩れ落ちる。


 ……あれ、何かおかしい。


 タナトスは消えた。それなのに、不安がますます強くなっていく。視界が歪んで、前がきちんと見えなくなる。息ができない。どれだけ吸っても、息が苦しい。わかんない、今自分に何が起こっているのか。何もかも、もうわからない。わからないわからない────


「イリスちゃん、大丈夫?!」


 全身の震えが止まらず、這いつくばっているところを抱きかかえられた。


「はあっ、はあっ、はあうぁ……ラ、ラる……こわいよ……」

「よしよし、怖いね────まで、一緒に────ね」


 どうしよう、音までくぐもって、何を言ってるか全然わからない。


 その時、激しい足音と共に誰かがこちらに近寄ってくる音がした。

 ベッドの前に座り込む彼女の背中をさすりながら、誰かが口々に何かを言っている。


 先生かもしれない。辛い時、いつも必ず来てくれるから……でもおかしい。先生がいっぱいいる。皆私を囲って何かを言っているけど、皆何を言ってるの……?


「せんせ…… せんせい……たす、…け…っ……!」


 全身が熱い。助けを求めよう、と思った瞬間────


「うぅっ…………う、うああああああぁぁァァァ────ッ!!!」


 身体の内側で、何かが大爆発を起こした。





 イリスが叫び声をあげた瞬間、巨大な魔力の衝撃波が放たれた。

 夜空に緑色の光が水紋の如く広がり、家が、森が、山さえもが一斉に震えあがった。

 

 彼女を支えていたルークとロタスは衝撃波の直撃を受けて倒れ込み、唯一魔力を浴びても平気でいられたフォルテは、うずくまるイリスに駆け寄った。


「イリス様、イリス様」


 彼女は瞳孔を大きく見開いたまま動かない。焦点の合わない目は暗闇の中煌々と輝き、誰も寄せ付けない不気味なオーラを纏っていた。


 一体、何が起こったというのか。

 しばし考えを巡らせ、たった一度似たような出来事があったことを思い出す。十年近く前のことだが、あの時もイリス様は錯乱した後、叫び声と共に衝撃波を放った。もし、前と同じことが起こっているならば────


 フォルテは聴覚を研ぎ澄ませる。

 どこからか不気味に響き渡る、無数の虫が蠢くような不快極まりない音。その音は次第に大きく広がっていく……


「う、うぅ……なんだ今のは……」


 ルークが呻きながら、なんとか起き上がる。


「イリス様の力が暴走したのだ。……それより、外を見てみろ」


 ルークは窓の向こうに広がる景色に首を傾げていたが、その正体に気づいた瞬間目を剥いて絶句した……まあ、無理もないだろう。


 闇に沈んだ山の方に、赤い光が無数に浮かび上がっている。光は小刻みに揺れたりしながらも段々近づいて来ていた────そう、それらは全て双眸そうぼうだ。百……いや、千はいるであろう得体の知れない怪物共の軍勢が、イキシアに一斉に向かってきていたのだから。


「ああ……なんということでしょう……」


 外の異変に気がついて、目を覚ましたロタスも声を失った。


「あの赤い目……魔女の使い魔でしょうか。イリスさんの魔力を感じ取って……」

「恐らくは」


 イキシアは、無数の怪物達によって完全に包囲されていた。


「……終わった」


 そう零し、膝を折るルーク。

 いつだって諦めようとしなかった、そんな彼の心がへし折れた音がした。


「終わった? 逃げられないならば、選択肢は一つだろう────死ぬまで抗い続けるだけだ」

「抗う? …ふざけた事を抜かしてんじゃねえよ!! あんな数、どうしろってんだよ! 戦ったって敵うはずがないじゃねえかっ!!!」


 ルークが声を荒げてフォルテに食ってかかったが、すぐに我に返って「……すみません」と俯く。しかし、その目は血走らせ、苛立たしげに頭を抱えていた。


「……でも、もう…どうしたらいいかわからなくて……!」


 しかし、たしかにルークが言う通り、普通に戦っても敵いはしないだろう。それに、今日は魔法を使いすぎた。これ以上使えば、身体がもたない可能性がある。他は見捨て、この家だけを守る事に集中すれば……


 考える彼にロタスが「フォルテさん」と向き直り、突然跪いた。


「……?」

「このままでは、イキシアは壊滅してしまいます。どうか、私達を……イキシアを救っていただけませんか。お礼は致します。なので、どうかこの通り、お願いします……!!」


 イリス様さえ無事ならそれでいい。危険を冒してまで助ける理由はないはずだ。


 …………だが…………


 しばらくフォルテは無表情で頭を下げる彼女を見下ろしていたが────やがて口を開いた。


「長老。今すぐに全住民をこの屋敷に避難させることはできるか?」

「それは難しいかもしれません。皆老いぼればかりですので……」

「……────ならば仕方がない」

「フォルテさん! どこへ行くんですか」


 一人で外へ向かおうとするフォルテを、ルークが呼び止めた。


「イキシア全体を守る壁を作る。多少森に被害は出るかもしれないが、イキシアのためと思ってご了承願いたい」

「ああ……! ありがとうございます……」

「じゃ、じゃあ僕に何かできることは」


 少し迷ったが、念のために言っておくことにした。


「……今回ばかりは、おれも無事ではいられないかもしれない。もしおれが帰ってこなかったら────ルーク、お前がイリス様を守れ」

「えっ……僕が?」

「ああ、頼んだぞ」


 その一言で、焦燥に駆られ乱心していたルークが幾分か平静を取り戻したのがわかった。


「……はい」





 女神を勇者に託し、一人外に出たフォルテは地面に手を当てて強く念じる。魔力が手を伝って大地に吸い取られ、身体が重くなっていくのを感じながらも更に意識を集中させたその刹那。


「ぐ……!!」


 全身に激痛が迸り、危うくその場に崩れかけた。


 ……これまで痛みなど感じたことはなかったのに。

 やはり限界が近づいているのだろうが、今更引き返すつもりもない。


 体勢を整えて魔力を注ぎ込み続けると、地震と共に大地が隆起してイキシアを取り囲む巨大なドームが形成された。

 しかしこの壁も、攻撃を受け続ければやがては壊れてしまう────そう思った彼は、闇を迎え撃つために山に眠る砂蛇の力を再び借りることにした。たとえ、身体にかかる負荷が更に大きくなったとしても。


 フォルテは痛みに胸を押さえながらもサファイアの目に光を滾らせ、砂の大蛇を呼び起こす。


 これで全ての手筈は整った。

 目と鼻の先まで迫っていた軍勢を蛇の一撃で蹴散らし、強烈な大砂嵐ハブーブを巻き起こした。


 自分の正体が神か否かも、たとえここで力尽きることになろうとどうだっていい。ただ、守護という使命を果たすだけだ。


「……さあかかってこい、化け物共」

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