第三話 ゲムマ族が住まう森
太陽は真上に差し掛かろうとしていて、初夏の空は腹が立つほど澄み切っていて一点の曇りもない。
こんな日の下では、オニキスの淡い金髪も白い肌も一層透き通って見える。
「ラルバ君、ただでさえ目つきが悪いんだからあんまり人を睨まない方がいいよ」
そうは言いつつも、オニキスはさもおかしそうに笑っている。
ラルバの三白眼は、眠気だの苛立ちだのでいつもの数倍鋭くなっている。しかし、少し長めの赤茶髪は寝癖だらけで、オニキスにはどうもそれがおかしく見えるらしい。
「オニキスさんが余計な事を言うからっすよ」
「あはは、ごめんね。ああ言わないと助けられないと思ったから」
「……たしかにそうっすね」
ここは少数民族ゲムマ族が住む、山の麓の森に囲まれた小さな村だ。神の使いなどと大げさに語られることもあるが、輝くような緑色の瞳と固有の能力を除けば、普段は人間と大差はないのだ。
オニキスは元は山を下りたところにある村に住んでいたが、代々病弱な家系であったらしい。両親が生まれてすぐに亡くなり、引き取ってくれた祖母も十年前に亡くなって天涯孤独になってしまった。
年齢的にも体質的にも一人で生きていくには困難とされ、ラルバとも交流があったためここで生活をしている。それに、ここには優れた薬師がいる。
薬師の名はイデア・ルーナエ。容姿端麗、怠け者で村人に嫌われているラルバにも優しく、非の打ちどころのない完璧美女だ。
「逆に僕に感謝するべきじゃないかな? 僕の付き添いっていう名目でイデアさんに会いに行けるんだから」
図星を突かれたラルバは恥ずかしそうに目線をそらした。
オニキスは知っているのだ。ラルバは彼女が気になっていることを。
しかし、そもそもこの村には基本爺婆しかおらず、若者はラルバ、オニキス、女神の生まれ変わり、イデア、ステラという少女しかいない。女神の生まれ変わりをお目にかかれることはまずなく、ステラは五歳だ。そうなればイデアを異性として意識してしまうのは、ごく自然なことであるはずだ。
「てかオニキスさんこそ、イデアさんのこと……ってあれ?」
彼はラルバを放置して村の爺婆と談笑している。だが、ラルバは爺婆のことなど興味ないので後ろでぼーっと今朝の夢に思いを馳せていた。
なんでこのオレに助けを求めてきたんだろう? てか助けるといったってどうすればいいんだろう?
「前から思ってたけど、ラルバ君ってジェイドに似てきたよね。小さい時はもっと素直で可愛かったのになあ」
いつの間にか井戸端会議は終わっていたらしい、唐突にオニキスが呟いた。
ラルバは一瞬苦い顔をして、ため息をつく。
「似てるとかは知らないっすけど、オレも大人は嫌いですから」
「良くないよーそんな態度してると、ジェイドみたいに居場所なくなるよー」
「……」
みんなジェイド────兄貴の事が嫌いだったから、村にいられなくなるように追い込んだんだ。そんな奴らと馴れ合いたくなんてない。
ラルバは心の中でそう吐き捨てた。
歩いていくうち、徐々に家が少なくなり草木が一層生い茂ってきた。彼らを導く獣道は、更に奥深くまで続いている。
イデアは村のはずれ、この森の中の家に住んでいる。この獣道をたどっていけば、教会のような古びた建物が見えてくるはずだった。
木々の若葉が日光にきらめいている。まだひんやりとした風が、木々を、ラルバの長い前髪を揺らしていく。服を半袖にするには少し早かったか、とラルバは思った。
ふと、突然風の吹く方向に人の気配を感じた。ラルバが驚いて見回しても誰もいない。
今朝夢に見た風景が、感覚が鮮明に蘇る。見知らぬ誰かが、すぐ側で見ているような気がする。まるで、自分の行動を観察しているかのように。
ラルバの目線は、獣道から外れた木々の向こうへ向けられている。
「……? ラルバ君?」
不思議そうな顔でオニキスがラルバを見ている。
「さっき、誰かいなかったっすか?」
「そう? 僕はわからなかったけど」
いや、いた。証拠はないけれど、そう言い切れた。あの夢で見たヒツジ女か迷子になったアホな爺婆か────?
「……オニキスさん。ちょっと先に行っててください。ちょっと見てきます」
「え、ここの森どれだけ広いと思ってるの? 下手に道を外れると迷子になって死ぬよ?」
「だいじょーぶっすよ、誰もいなかったら戻ってくるんで」
ラルバはオニキスの方も見ずに手をひらひら振り、足跡一つないところを進んでいった。
◆
暑い。
あれから恐らく数十分はあるき続けているだろう。
どこまで行っても、同じ風景が続く。
美しい鳥のさえずりも、キラキラと揺らめく日だまりにももはや何も感じない。湿った地面が滑るので、むしろイライラしていた。おまけに、さっきまで鹿でも歩いていたのか少し獣臭い。そして、風が吹いた時に感じた人の気配はあれから一回も感じていない。戻ろうにも右も左もわからない。つまりは、完全なる迷子だ。
「どうしよ……腹減った……」
オルミカから逃げるように外に飛び出してきたから、起きてから飲まず食わずだったのだ。視線を落とすと、丸々としたどんぐりが落ちていた。
「……」
途方に暮れていたラルバは思わず拾い上げる。
最悪これでも食って────いや、ねーわ。
舌打ちしてどんぐりを放ると、ちょうど飛び出してきたリスがすかさずキャッチして持っていってしまった。
ラルバはため息をつくと、またしゃがみこんでうつむく。流れる汗が、身体の水分を更に奪っていく。
目を閉じると、聴覚が研ぎ澄まされる。木々が風に揺れる音、自分の腹の音、猫の鳴き声────猫?
顔を上げると、吸い込まれるような琥珀色の瞳を持つ猫がこちらを覗いていた。
たしか名前はノックス。イデアが飼っている御年十七歳の年老いたメス猫だ。
ノックスは年に合わぬ軽い身のこなしでラルバの前に立つと、とことこと先へ歩き出す。
何やってんだろう、と黙って見ていたらノックスが不満げに振り返ってにゃあ、と低い声で鳴いた。
「道案内? ……お前がぁ?」
「フーッ」
ますます不満げ。間違いなくバカにされたとわかっている。
どうやらここはあの猫を信じるしかないらしい、ラルバは立ち上がって歩き出した。
しばらく歩くと、彼は開けた場所に出る。生まれて初めて見た光景に、ラルバは息を呑んだ。
目の前に広がるのは大きな泉。そよ風が吹き、水面がきらめく。向こうでは崖から滝が流れ、森よりも冷たく澄んだ空気と水声に包まれていた。
水は透き通っていて、魚が水面で泳ぐのに合わせていくつもの水紋が広がっていく。
そっと手を入れると冷たくて心地良い。ラルバはすかさず、すくって飲む。汗を流したくて顔も洗った。
濡れた前髪をかきあげながら、ふう、と一息つく。
まさか、住み飽きた森にこんな場所があるなんて思わなかった。少し疲れたことだし、邪魔者もいないから一眠りするのもいいかもしれない。
安心しきって目を閉じていたラルバは気づかなかった。
小さくて青い物体が、凄まじいスピードでこちらへ迫っていることに────
「……ん?」
目を開けた時にはもう遅かった。
「うげぇっ!!!」
その物体が何であるかを把握する前に額に鋭い衝撃が走る。更に勢いで後ろへ倒れ、後頭部を石に強打、彼の世界は暗転していった……