第二話 駄目人間と羊の夢
さて、あるところで少年が最悪の予知夢を見ているかと思えば、ここではのんきに平和と惰眠を貪る奴がいる。
ここはディアローレン王国の最西端にそびえる聖なる山。その麓に広がる森には、ゲムマ族と呼ばれる不思議な少数民族の住む村がある。《神の使い》の別名を持つ彼らは、全知全能の女神ハルモニアから賜ったとされる美しい緑色の目と特別な力を持つという。
小生意気そうな印象を与える三白眼に深緑の光を宿すこの少年────ラルバ・ウォラーレもまた、夢を見ていた。
静かな森をひやりとした初夏の風が通り抜けていく。さわさわと木々が音を立て、小鳥が飛ぶ。日だまりがリズムを取るように揺らめくと、森はペリドットの輝きを放った。
しかし、どれもこれも幼い頃からここに住んでいる彼にとっては代わり映えのない見飽きた風景だ。
彼を照らす木漏れ日が眩しくて目をしばたたかせていると、遠くで彼を呼ぶ声がした。
ラルバが兄貴と呼んで慕う少年ジェイドとオニキスの声。今日もまた悪戯にでも誘おうとしているのだろう。
毎日聞いているはずなのに、なぜだか懐かしいような寂しい気持ちになって思わず二人を探して走り出す。
風の声か否か、走っているとどこからか声がした。
「ラルバ」
立ち止まって辺りを見回しても誰もいない。
夢中で走っているうちに、ずいぶんと奥に来てしまったらしい。いつしか太陽は隠れて霧がたちこめ、木々も黙り込む薄闇の森にラルバは一人立ち尽くしていた。
「ラルバ」
さっきより強くはっきりと聞こえた、聞き慣れぬ女の声。
「……なんだよ、隠れてないで出てこいよ」
強気に言い返してみてはいいものの、その声は震えている。
「……」
少し置いて、霧の中から現れたのは羊のようなふわふわの青紫色の髪を持つ眼鏡をかけた大人の女性だった。
ラルバの村では一回も見たことがない。第一、そのスミレのような瞳の色からして彼女はゲムマ族ではない。瞳と同じ色のドレスは、まるでどこかの国の貴族のようだ。
「……あんた誰?」
「あたくしは……イリス=ハルモニア・ラ・ルーナエの家庭教師と言うべきでしょうかね……彼女には先生と呼ばれておりますから」
「は?」
「あら、イリスをご存知でない? 彼女は貴方の村で《女神ハルモニアの生まれ変わり》と呼ばれているとお聞きしたのですけれど」
「……???」
女神の生まれ変わりといえば、ラルバの住む村にいるとされている少女だ。
神に相応しい、他のゲムマ族とは桁違いの凄まじい魔力を持つと言われているのだが、その姿を見た者はほとんどいない。その力を狙われる恐れがあるからというが、詳しい理由は誰も知らない。仕方がないから、村の爺婆共は毎日女神ハルモニアを模した像に向かって手を合わせている。
「貴方に彼女を助けてほしくて、こうして貴方の夢の中に潜り込んだのです」
「なんでオレが」
「彼女は今、軟禁されているのです。だから、彼女を助けて……」
ふいに周りの景色も彼女の姿も歪みだす。風が吹き乱れ、徐々に辺りは暗闇に包まれていく。
「ああ、もう目覚めの時間が来てしまったのね。あたくしの事は忘れていいから、イリスを助けて……またいつかお会いしましょう」
「えっ、ちょ、意味わかんねーんだけど! おい待てやナンキンって何────」
視界にひびが入り、何もかも暗闇へ飲み込まれていく。
やがて、視界が開けたと思えば目に映るのは見慣れた寝室の天井。
夢の中では違和感なく受け入れていたことでも、目を覚まして考えてみると、現実では絶対にありえない内容だったということはよくある────たとえば、もう二度と会えない人が自分を呼んでいたり。
忌々しき太陽の光が起きろと言わんばかりに彼の顔面を直射する。
しかし、おかしな夢を見たせいだろう、すぐ起きる気にもなれずにうつぶせになってまた目を閉じた。
が、そのとき。
どしどしという足音、わずかに揺れる家。
足音は彼のベッドの前で止まると────ふわりと薄っぺらい布団が持ち上がった。
続いて、ラルバの後頭部にチョップが命中する。
「いでっ!」
思わず頭を上げてしまった。
その目に映るのは、顔を真っ赤にして鬼のようになっている母親オルミカの姿……その手にはくたくたになった布団。
「ラルバァッ!!! あんたは一体いつまで寝てんのさ!?」
「えっ……いや別にやることないから寝てんだけど」
言った瞬間、やばいと口を抑える。オルミカの顔が真っ赤に膨らんでいく。
「全くあんたは十七だってのに、ろくに働きもしないで毎日ぐうたらぐうたら隣のステラちゃんなんて五歳でもうお手伝いもちゃんとできていい子だし、昔いたルーク君なんて────」
これ以上は早口すぎて何を言っているのか聞き取れない。言い返そうとしても、彼が口を開く隙すら与えてくれない。ひたすら耳を塞いで説教に耐えていると、開け放たれたままの扉の前で立っている人物に気がついた。
オニキス・トンプソン。血は繋がっていないが、昔から兄貴のようにラルバが慕っている、十九歳の居候の青年だ。まるでこちらの状況を楽しんでいるかのように、薄く笑みを浮かべている。
(オニキスさん、この人どうにかして……)
ラルバは深緑の瞳でそう訴えかけてみると、オニキスはウィンクしてみせた。
「ねえ、オルミカおばさん……」
オルミカが振り返った瞬間、オニキスは悪戯な笑みから少し気弱な微笑みに瞬時に表情を変える。
「僕が毎日飲んでる薬、うっかり切らしちゃって……ちょっと貰いに行ってもいいかな……?」
「あら、大変! でもオニキス君は寝ててもいいよ、ラルバに行かせるから」
なんでこんなにオレと扱いが違うんだ? オニキスさんも働いてないのに!
そう思うといらいらしてくる。人が気持ちよく眠っていたのを邪魔された後だから、尚更。今日に限ったことではないけど、大人は不公平だと思う。
しかし、オニキスは虚弱体質なのだ。しかも、できることはやっている。
ラルバといえば、腹いせに人の物を盗んだり、暇だからと他の村人に悪戯を仕掛けては困らせて遊んでいる始末。怠け者で家事の一つやりもしない。
この通り、ラルバ・ウォラーレという男は、基本的に駄目人間である。
「いえ! ラルバ君だけに行かせたら薬を間違えてきそうで心配ですから、僕も行きますよ。おばさんもまだお仕事があるでしょう?」
オニキスまで、さらっとラルバの心を突き刺してくる。
髪から目の色まで色素が薄くて、しかも中性的な顔立ちで病弱。こんな整った外見に穏やかな物腰で、誰もが儚げな印象を受けるだろう。だがしかし、彼が誰よりもしたたかな奴だということをラルバだけは知っている。
「そう……じゃあ気をつけなね?」
「うん、ありがとう。じゃあラルバ君、行こうか!」
「……」
「ん? どうしたのラルバ君?」
「……いや……なんでもないっす」
オニキスにも嫌味の一つや二つ言ってやりたい気分だったが、無邪気な優男の仮面を被った彼に何もできず、ラルバは半ば無理やり引っ張られていくのだった。
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