第零話 主は未だ夢の中
「こんにちは、イリス」
彼女の先生はいつもここで待っていてくれる。
彼女────イリスと先生のハンナ、そして空を泳ぐ魚のウェンディ以外には誰も来ない。
ここはイリスだけが知る木々に囲まれた秘密の泉。そして、彼女の夢の中。
しんとした薄暗い森に、そよ風が吹くと泉に光の波が立ち、木漏れ日が優しく二人と一匹を包み込んだ。
ハンナとウェンディ、風も森も花も、ここにあるもの全てが温かく迎えてくれているのに、イリスの顔はどこか浮かない。
「あら、どうしたの、イリス。そんな顔して」
「あたしわかるよ! こっそりお外へ行こうとしたら、フォルテにばれて連れ戻されたんでしょ!」
ウェンディは言葉も話せる。おっとりしたハンナとは対照的にいつでも元気にイリスの周りを飛び回っていて、リボンのような青紫の尾びれが度々イリスの頬に当たるのだ。
「うん、ウェンディの言う通りです……」
「あらあら、かわいそうに。でもね、貴方はお姫様のように、王子様が迎えに来るのを待っていればいいのですよ」
ハンナはイリスを抱きしめてその桃色の髪を優しく撫でた。青紫色の、羊毛のようなふんわりした髪がイリスの頬をくすぐる。
「王子様なんていないもん。誰も助けてくれないから、私が自分で動いてるんです!」
幼さが残った顔をふくらませるイリス。
「いいえ、助けは必ず来ますわ。だから、それまであたくしと一緒にここでお本を読んでいましょう?」
「それかあたしと鬼ごっこするー?」
ハンナは外に出られないイリスのために、いつもお話を読み聞かせてくれる。
ウェンディは外で遊ぶことのできないイリスにせめて夢の中だけでもと、かくれんぼや鬼ごっこで遊んでくれる。
物心がついた時からそうだった。
しかし彼女達はイリスに束の間の安らぎを与えるものでしかなく、決してこの現状を打ち破ってはくれない。
「……不満そうね、イリス。いつもは喜んでくれるのに、どうして?」
イリスが、閉じ込められている部屋から逃げ出したのは一度や二度ではない。
理由は単純。本当の空や木や花、動物に囲まれていたいから。そしてもう一つ。現実の世界に、気になっている男の子がいる。
小さい時に一度会っただけだからうろ覚えなのだけれど、大体同じくらいの年で、赤みがかった茶髪の男の子。
あれから、何度か彼を探していたものの、全て未遂で終わっている。
うつむいてしまったイリスの顔をしばらく見つめ、察したかのようにハンナは言った。
「ああ、すぐにでも王子様に会いたいのね。そうでしょう?」
「お姉様に言っても、なだめるだけで何もしてくれないから……今まで我慢してきたけど、もう限界なんです。私は外へ行きたい、お姉様以外の人ともお話したい、お友達が欲しい、王子様じゃなくたっていいから……!」
「……わかりました。それならば、あたくしに一つ考えがあります。きっと貴女の王子様を連れてきますわ」
ハンナがそう言うが否や、水面に揺れる水紋のように視界が揺らぐ。まもなく夢が終わる。
目が覚めたらイリスはまた薄暗く狭い部屋に独りぼっち。
いつもの部屋には、お姉様お手製の動物の人形と絵本が無造作に散らばっていた。