第一話 長き雨夜に
災厄の日、夜更け。
窓の向こうの暗闇の世界に、降り注ぐ雨音だけが響き渡る。まるで、今の私の心のようだとイリスは思った。
イリス、イデア、フォルテは町の人々の厚意で宿を無料で貸してもらっていた。しかし、疲れているはずなのに眠ることができず、一晩中ベッドに腰かけて窓の向こうを眺めていた。星一つ見えない夜に何も見えるわけがないと知りながら。
────ラルバさん、遅いな……。
彼だけではない。イリスと同い年で、物心がついたときから近くで見守ってくれたノックス。窓越しに会いに来てくれたり、何度も脱走を手助けしてくれたピッコロ。そして誘拐作戦に命を懸けてくれたオニキス。無邪気で優しいステラ。みんな、炎の中へ消えてしまった。
視界の隅にいるフォルテに文句を言う気力もなく、ぼんやり泥沼のような憂いに沈み込んでいたとき。コンコン、と控えめに扉を叩く音に現実に引っ張り戻された。
「イリス、入るわよ」
イデアはイリスの隣に座る。
「お姉様……」
今にも泣き出しそうなイリスの顔を見たイデアは、そっと彼女を抱きしめた。
イデアの温もりに包まれたその瞬間、イリスの心が弾けた。無意識に封じ込めていた思いも、涙と共に次から次へと溢れて止まらない。
「お姉様……! どうしようどうしようっ……私、怖いよぉ……みんな……死んじゃ……」
「大丈夫、きっと生きているわ」
「でもっ……!!」
怖い。こんな状況で無事だなんて信じられない。でもみんな死んだなんて信じたくない。何が言いたいんだろう。ぐちゃぐちゃだ。泣いても泣いても、湧き上がる感情は留まることを知らない。
泣きじゃくるイリスが落ち着くまで、ずっとイデアは寄り添ってくれた。
「……お祈りしましょう。みんなが無事でありますようにって」
どれほどの時間、二人で祈りを捧げていただろう。フォルテもいつもと変わらない仏頂面だが、静かに事の成り行きを見守っているように見えた。
轟音をたてていた激しい大雨はいつしか雪解けのせせらぎのような優しい雨に変わり、煙と雨雲が交じり合う空はやがて澄んだ水の色へと変わっていき────
「ねえ、イリス。イリスってば」
リボンのような柔らかいものでさわさわと撫でられて、彼女はぱっと目を開ける。
「……えっ?」
そこはイリスが昔から大好きだった、そして現実にはもう無い、夢の奥底にひっそり佇む秘密の泉。
先生の姿はなく、ウェンディが一匹、ゆらゆら漂いながらイリスを待っていた。そして彼女の顔を撫でているのは、ウェンディの尾びれだ。
「よかったね、イリス……これであなたは自由の身だよ」
彼女のその声には寂しげな響きを帯びている。
「そうですね、でも……決して私はこんなことを望んでいたわけじゃないの。こんなことになるなんて思わなかったの……」
「知ってるよ。別にあなたが責任を感じる必要はないよ」
ふと、いつもと変わらぬ泉なのに先生の姿がどこにもないことに気づく。
「そうだ……先生は? 先生はどこに行っちゃったの?」
「知らなーい。王子様に会いに行くとか言って、あたしを残して行っちゃったー」
「王子様……まさか、ラルバさんのこと?! 生きてるんですか!?」
「知らなーい」
「もう! いじわる言わないで」
「……」
「……ウェンディ?」
今日は色々と様子がおかしい。
いつもは彼女はいじわるは言ったりはしないし、この泉の夢に先生────ハンナがいないなんてこと一度もなかった。
沈黙を破り、ぽつり、ぽつりとウェンディは話し出す。
「イリスが外に出たら、お友達ができたら……あたしの事もこの泉も忘れちゃう。だってあたしやこの泉は外に出れないイリスのために生まれた夢だから。あたしはこの夢の中でしか、自由に動けないし、そしたらあたしは……」
「なぁんだ、そんなことだったんですね」
イリスは彼女を抱き寄せると、きらめく波間のような身体を撫でた。
「忘れるわけないじゃないですか。ここは私の、唯一の安らぎの場所ですもの」
「じゃあ、また会いに来てくれる? 現実が嫌になった時とか。いつでも、ハンナと待ってるから……」
「ええ、約束よ……」
◆
────ここは、どこだろう。
ザーザーと耳障りな音だけがこの世界にこだましている。冷たい水が、仰向けになった身体を容赦なく打ち付ける。
目を開けると、初めてイリスに出会った泉にいた。
今までオレは何をしていたんだっけ?
思い出そうとしても何故だか全然思い出せない。絶え間なく降り注ぐ雨音が、思考をかき乱してしまう。
そして泉の前にはいつか夢の中に出てきた、紫のドレスを纏った女が立っていた。名前も覚えていないが、青紫色のふわふわとカールした長い髪と眼鏡の奥の虚ろな瞳がまるで羊のようだと思った記憶がある。
「ごきげんよう、王子様」
女はドレスの裾を両手で軽く持ち上げ、恭しく一礼した。
「……オレそんなんじゃないんだけど。人違いじゃないすかね」
「王子様、イリスを助けてくれてありがとう」
「いやだから」
「でも、こんなことになってしまって……貴方には申し訳ないことをしてしまいました」
「何があったんだっけ」
「今あたくしにできるのは、悲しみで空を覆い涙を降らせることで、竜の大いなる怒りを鎮めることくらい……」
「……」
この女、全然人の話を聞いちゃいない。しかも言葉がいちいち詩のようで何を言いたいのかさっぱりわからない。
現に今、ラルバが呆れて何も言わなくなっても一人でどんどん話を進めてしまっている。
「夢から醒めれば、残酷な現実が貴方を突き刺すでしょう。貴方はバラバラに砕けてしまうかもしれません。でも、まだ希望は残っていますわ。黒の魔女をお探しなさい」
「なにそれ」
「失くした物、叶わなかった夢、全て黒の魔女に会えば救われる。楽になれる。求めれば彼女は必ず現れる……」
ふいに、遠くで自分の名を呼ぶ声がした。とても大切だったはずの人の声。雨の中だというのに、その声だけは雨をかき分け、闇を引き裂くようにはっきりと響いて聞こえた。帰らなきゃ、とラルバは思った。
「あら……まだお話の途中ですのに、もう行ってしまいますの」
雨はますます勢いを増し、女の声さえもかき消していく。風景や彼女の姿さえ霞み、雨夜へ溶けていった。
「忘れないで……黒の魔女ですよ。でも、このことはどうかあなたの胸に秘めておくのです……」
そして、ラルバは帰ってきた。
「ラルバ君……!!」
彼が目を開けると、イデアがこちらを見ているのがわかった。だが、薄暗くてその表情はよくわからない。
「イデアさん……? ここは? オレは……?」
「ここはニレの宿屋よ。貴方は倒れているところをルーク君に助けられたの」
「……?? オレが倒れてた? ルークってもういないんじゃ……」
「ルーク君のことはまたあとで話すわ。今は、もう少し休んでいてね」
イデアが背を向け、見知らぬ男と何やら話している。向かいのベッドでも誰かが横になっているようだが、輪郭がぼんやりして見えて誰なのかはわからない。
まだ意識がはっきりしない中、目線だけで辺りを見回していると暗闇を煌々と照らす机の上のランタンが視界に飛び込んできた。
目に留まったその刹那、赤く染まった世界が、彼の脳裏を稲妻の如く駆け巡った。業火に染め上げられた空と森、鮮血にまみれたステラの────
「うっ……があ゛ああああぁぁぁぁぁっ!!!」
◆
イリスが目を開けた時、ベッドに横になっていた。
いつのまにか眠ってしまったらしい。しかし、ずっと寄り添っていたイデアはどこにもいない。壁に寄りかかり、目を閉じているフォルテに問いかけた。
「フォルテ、お姉様はどこですか?」
眠っているわけではなかったようだ。目を開けると、いつもと変わらぬ調子で彼は答えた。
「少し前に慌てた様子で部屋を飛び出していきました。ラルバが担ぎ込まれたようです」
「ほんとですか! それで、今どこに」
「隣室です」
その途端、隣から響く叫び声。
「! 何があったんでしょう……!?」
わき目もふらず出ていこうとするイリスをフォルテは手で制する。
「他の怪我人もいるようで、町の医者も駆けつけて非常に慌ただしい状況でした。邪魔をしたくないのならば近づかない方がいいでしょう」
「う……それは、そうですね」
珍しくフォルテに正論を言われ、イリスも大人しく引き下がるしかなかった。
仕方なしに、またベッドに腰かけて窓の景色を眺めていた。雨はすっかり止んで、夜明けの空にはまだ灰色の煙が細く立ち昇っている。
「……イリス様」
「……なんでしょう」
「何故、あんな奴の事を気にするんです。死んでも死ななくても、イリス様には関係のないことでしょう」
「なぜ気にするか、ですって? あなたにはわかりませんよ。血も涙もないあなたなんかには!」
「……そうですか」
イリスがどれだけ感情をぶつけても、フォルテの心には届かない。岩以上に硬く冷え切った鋼の心には何も……
イリスはとっくの昔に抵抗するのを諦めているはずだった。それなのに、時々どうしようもない衝動が、感情が彼女を駆り立てる。
例えば外への脱走だったり、不満をフォルテに吐き散らしたり────そして、そのほとんどは無駄に終わる。その度に虚無感に苛まれるのだった。




