第二十一話
「聞き捨てならないわね。ガジェ・ノーマンがあたくしを裏切ったというの」
自室に呼び出した侍女を問いつめると、彼女は慌てたように、後ろにいる小間使いを前に押し出した。
「ジョスリン、王妃様の質問に答えなさい」
「う、裏切ったなどとは申しておりません。あくまで、ノーマン様がわたくしの正体をアマーリエ様に教えたのではないかという、わたくしの推測でして……」
「情報提供者が誰か、小娘を締め上げて聞き出せばよいものを、何もせずにのこのこと逃げ帰ってきたというわけ?」
王妃に睨みつけられ、ジョスリンは震え上がる。
「むしろ裏切ったのはおまえのほうではなくて? 自ら正体を明かし、小娘と結託して、あたくしの騎士を陥れようと……」
王妃様っ、と小間使いは真っ青な顔で叫んだ。
「恐れながら申し上げます。そのようなことをして、わたくしに何の得がありましょう。ご存じの通り、わたくしは弱く、臆病な人間です。弟や父の命を犠牲にしてまで、かつての主人に忠誠を誓う気はありません」
王妃はふと我に返り、「それもそうね」と思い直した。
「だったら今すぐガジェ・ノーマンを呼んできなさい。彼から直接話を聞くわ。彼が来たら、二人きりにしてちょうだい」
急いで飛び出していく小間使いの背中を見やり、「何をぐずぐずしているの。お茶の用意をしたら、おまえも出て行くのよ」と侍女を叱りつける。
「ですが王妃様……」
「彼があたくしを裏切るはずがないわ。そうでしょ?」
侍女は頭を下げると、黙々とお茶の準備をし、再び一礼して部屋を出ていく。
――誰もあたくしの気持ちをわかってくれない。わかろうともしない。
立ち上がった王妃は、まっすぐ化粧台の前に向かうと、おしろいを塗り直し、髪の毛の乱れを整えた。艶やかな黒髪に、しわ一つない肌、若返りのまじないをかけているおかげで、今もなお美しい姿を保っているが、ガジェの目には本来の自分の姿が映っていると思うと、やるせない気持ちになる。
「ガジェ・ノーマン、参りました」
「お入りなさい」
王妃は振り返り、青年の姿を陶然と見つめた。野生の獣を思わせる、引き締まった体躯と精悍な顔立ち、まじないの力をしりぞける、獣人特有の赤い瞳――この国から遠く離れた異国の地で、剣闘士として戦う彼の姿を目にした瞬間、何としてでも手に入れたいと思った。いつまでも、死んだ女に捕らわれ続ける男などに、振り回されてたまるものか。
扉が閉まると同時に、王妃は笑顔を浮かべて騎士の前に立つ。そっと彼の胸に手をあて、その逞しい身体に頬を寄せた。
「抱きしめなさい、強く」
奴隷商人から彼を買い取る際、剣の腕は立つが閨の相手はつとまらないと念押しされた。後日、医師に診せたところ、彼に肉体的な損傷はほとんどなく、過去に何らかの強いショックを受けたことによる、精神障害の一種だろうと言われた。初な小娘ではないのだから、美しい青年をただそばに置くだけでは物足りなく感じたものの、さすがに王の前でそれを口にすることははばかられた。
男女の関係になれないことは不満だったが、悪いことばかりではない。裏を返せば、よその女にとられる心配を一切せずに済むのだから。彼の実力は近衛騎士団の中でも群を抜いており、若い娘たちはこぞって彼の誘いを待っているという噂だが、王妃は内心、そんな娘たちを哀れに思っていた。
「ガジェ?」
いつまでも自分を抱きしめてくれない彼にじれて、顔をあげる。
「なぜなの」
「ご自重ください、フォンティーヌ様」
やんわりと押しのけられて、王妃は愕然とした。
「あたくしを拒むというの」
「少し前まで厩におりましたので、獣の臭いが移ってはと……」
言い訳だと思い、王妃はまなじりを吊り上げる。
「あたくしを裏切ったというのは、本当なのね」
「……ジョスリンの件でしょうか」
全てを見透かすような赤い瞳にのぞきこまれ、王妃はごくりと唾を飲み込んだ。
「そうよ。おまえがあの娘の正体をばらしたと聞いたわ」
「アマーリエ王女は一筋縄ではいかない女性です。彼女の信頼を得るために、あえてジョスリンの正体を明かしました」
よどみのない説明に、王妃はわずかに引っかかるものを感じたが、あえてそれを無視し、騎士の身体にしなだれる。
「そうよね、あなたがあたくしを裏切るわけがないわ。こんなにも愛しているのだから」
そっと彼の頬に触れて、かさついた皮膚の感触を確かめるようになでる。
「あなたはあたくしのもの。誰にも渡さないわ」
「……ご用はお済みですか」
「いいえ、まだよ」
騎士の頬を両手で挟みこみ、強引にこちらに向けさせる。
「今すぐ、アマーリエを殺してきなさい」
赤い瞳の奥で、瞳孔が開くのが見えた。
「ここまで来たら、もう十分よ。事が済んだら、甥のパリスを寄越すわ。死体はあの子が片づけてくれる。証拠は何も残らない」
黙り込むガジェに、王妃は首を傾げた。
「不満そうね? 何か問題でもあるの」
「……いいえ」
「では、あたくしにキスをしなさい。戻ったら、あの女がどれほど苦しみ絶望したか、あたくしを恨み、どんな顔で死んでいったか、事細かに報告するのよ」
いったん身体を離した騎士が、近づいてくる気配に、王妃はうっとりと目を閉じた。けれど唇が触れ合う寸前、腹部に激しい痛みを覚えて、かっと両目を見開く。見下ろすと、ドレスが真っ赤に染まっていた。
「なに……」
なぜ、腹部に短剣が突き刺さっているのか。
まったく状況が飲み込めず、呆然とする王妃の前で、ガジェはおもむろに長剣を抜き、刃先をこちらに向けた。
「死ぬのはあなただ、フォンティーヌ」
「どう、して……」
冷ややかな視線を向けられ、本能的な恐怖から、よろよろと後ろに下がる。現実が、じわじわと脳裏にしみこんできて、身体の震えを抑えることができなかった。
「愛して、いたのに……」
「あなたのそれは、愛ではない。ただの独占欲だ」
やはり裏切っていたのだと、目の前が真っ赤に染まる。
「よくも、そんなことが――奴隷上がりの分際で、王妃のあたくしに、盾突くなど……」
咄嗟に掴んだ硝子の花瓶を、騎士に向かって投げつけた。難なく避けられ、花瓶は床に落ちて砕け散った。直後に異変に気づいた侍女が部屋に入ってこようとするが、いつの間にか、内側から鍵がかかけられており、中に入れないようだ。
「王妃様っ、どうなされたのですかっ、ここをお開けくださいっ、王妃様っ」
まもなく、騒ぎを聞きつけ、こちらに向かって近づいてくる複数の足音が聞こえた。王城の警備兵たちだろう。
「もう……終わりよ」
「それはあなたも同じだ」
この期に及んでも、ガジェの目に迷いはなかった。
「……自分の命を引き替えにしてまで、あの女をとるというの?」
無言のまま近づいてくる青年から逃れようと、腹部の激痛に耐えながら、王妃は必死に逃げまどう。なんとか扉に駆け寄ろうとしたものの、途中で騎士の腕に捕らえられ、強い力で壁に押しつけられた。
「……やめて……なぜそこまで……」
「本気で人を愛したことがないあなたには、言ったところでわからないだろう」
悲しげに響くガジェ・ノーマンの声――それが、王妃が聞いた、彼の最後の言葉だった。




