序章 『人間と神の家族。上京する』
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少年は神の領域を軽々と踏み込み、複雑な獣道を歩いていく。蔦や苔が纏わりついている巨大な岩を蹴り、次に地に足がついたと同時に跳躍し、大樹の枝に掴まる。そして、勢いをつけて次の枝に掴まり、片手だけで勢いつけ体を捻って枝に着地する。
「ふぅ……。さて、晩飯の調達をするとしますか」
あれだけ体を動かしても息を荒くすることなく、余裕そうに笑みを零して呟いた。
彼は、通う学校の制服に身を包み、肩には勉強道具の入ったカバンをかけている。
癖のない綺麗な黒髪は森に吹く風に靡き、澄んだ黒色の瞳は、地上に生えている植物を見つめて、晩飯となる山菜を探している。
特徴といったものはない男子高校生だが、男性にしては中性的な容姿をしており、体形も平均よりほっそりとしている。名を禍月和哉という。基本的平凡な日常を送る男子高校生だ。
和哉は一息つくと、大樹の枝を蹴る。また次、また次へと枝に移り、地上へと着地する。
着地の勢いとともに地面を蹴り、視界に入る山菜を仕分けしながら採取していく。ただ片っ端にではなく、森に影響が出ない程度に食べる分だけ、森の恵みを採取していく。
採取が終わると森の奥へと駆けていき、寄り道から数十分で帰宅した。
「姉様。ただいま帰りました」
森の奥地。開けた場所にたどり着くと、まず和哉は姉に帰りを知らせた。
『帰ったか和哉。おかえり』
姉のほうも、優しく和哉の言葉に返答して、暖かく迎え入れてくれた。
しかし声の主である姉がどこにも見当たらない。だが和哉が姉と呼ぶ存在は、他の木とは違う立派な大 木の中に本人がいるのだ。それこそがこの森の神であり、和哉の親でもある。
『今日は随分と早かったな。学校のほうでなにかあったのか?』
「いえ、教師同士の会議があるとかで、いつもより早めの下校になっただけです。かなり時間が余ったので、今日の献立は姉様の好きな山菜です」
『おお! でかしたぞ和哉!』
大喜びする姉様。本体が大木の中だとはいえ、感情がわからないわけではない。姉様と和哉は十七年間ともに暮らしていたのだから、それぐらい顔を見なくてもわかる。
「着替えてきたら、すぐに晩飯作っちゃうますけど、献立はなにがいいですか?」
『決まってるだろ。――天ぷらだ!』
姉様は揚げ物が大好物だ。和哉が知っているかぎり、衣のサクサクとした食感がたまらないとか、山菜の独特の苦みもほどよく消えるから良いとか言っていた気がする。
「わかりました。それじゃ着替えてきますので、少しだけ待っててくださいね」
『おう、頼むぞ……って、忘れておった。和哉、料理をする前にそこに座ってくれないか?』
「はい。なんでしょうか?」
和哉が部屋に向かおうとしたときだ。姉様が真剣な声音で和哉を呼び止める。
いつもなら無邪気な口調で話す姉様であるが、こんな真剣な声音で話しかけるということは、和哉の力を貸してほしいほど重大であるということだ。
和哉は姉様のいうとおりに従い、大木の正面に移動し、地面から覗かせている巨大な岩に正座する。姉様に敬意を示すように姿勢を正し、大木を真っ直ぐに見据える。
『そんなに頑なにしなくてもよいのに。妾と和哉は、血は繋がってはおらぬが、列記とした家族だ。もっと打ち解けた接しかたはできぬのか?』
「と、言われても。これでも親しく話しているつもりなんですけど」
『ちょいちょい出てくる敬語はどうにかならんのか? 背中がムズ痒くて妙に落ち着かん』
大木のどこに背中があるんだ、と物凄くどうでもいいツッコミを入れたい和哉だったが、本体は大木ではないので意味がないと思い、ツッコまないでおいた。
正面に立つ大木はこの神域の中心核だ。龍穴を塞ぐように根を張り、龍脈の力を吸収して急激な成長を遂げた。微弱ながらも神力が宿っており、神木の類にも入る。
龍脈の操作や神域を覆う結界は、すべてこの大木が受け持っているのだ。というのも、この大木は少なからず自我を持っているからだ。会話はできないものの、大抵のことは勝手にしてくれている。部外者が 神域に入り込んでこないのも、この神木のおかげなのだが、意図的に入り込んでくる輩はいるので、そこは姉様が暴りょ……穏便な話し合いでお帰り頂いている。
神域は姉様が造り出した領域なので誰かが侵入すれば大抵はわかるが、神木のほうが精密な探知能力があるので姉様は入り込んできた者を保護、退治などを担当している。
姉様は、偉大な神であり、和哉には尊敬に値する神様だ。
なのだが、姉様の私生活と言動を知っているせいか、どんなに偉大な所業を成し遂げようとその尊敬も心なしか半減している気がする。
『やはり、誠実になるよう育てたのがまずかったか……。まあ、当の本人は男として純粋に穢れてしまったがな』
「褒めてるどころか、むしろ馬鹿にしてますよね!? そりゃ俺は男だし色々ありますけど……。だけど、自ら親に敬意を表すのは当たり前のことでしょ」
『お、それがよい! 普通に友達と話す気軽さで妾にも話せ!』
「……む、無理、です。それだけは」
確かに家族ではあるが、姉様の教えのせいか、和哉でも無意識のうちに目上には敬意を示すようになっていた。今更変えようがないので、できるなら諦めてくれると大変ありがたい。
『はあ……、まあよい。頑固な和哉が今更態度を……変えるわけないか……』
この愚痴にはさすがに和哉でも苦笑を浮かべるしかなかった。
『まあ、もともとそう育てた妾の責任だしな。そこはおいおい解決していくとしよう。――それはさておき、家族の心暖かな談話で逸れてしまったが、そろそろ本題に入らせてもらう』
言葉の後半から真剣な声音へと変わる。それを感じた和哉は気持ちを切り替え、真剣な眼差しを姉様に向けて身構える。
『じつはだな。ある学園で教授をすることとなってな。妾とともに和哉も上京してほしいと思っている。そして妾が向かう学び舎に転入してほしいのだ』
「……、はい?」
予想外な言葉が返ってきて、和哉はマヌケな声を洩らしてしまっていた。
『あれ? 聞こえなかったか? 妾は学園で教授することになったから和哉も来てほしい。だから妾の向かう学園に転入して通ってほしいのだ』
「……。はあ、学園に転入ですか……」
てっきり、仕事で神域を空けるから用心棒を頼まれるのかとと思っていたが、どうやら予想していた用件とは違うようで、安心してしまって全身に行き渡っていた力が一気に抜けた。
姉様は仕事で魔物討伐の依頼を引き受けており、この森を留守にする際には和哉がこの森の番人役を請け負っている。今回もそのことだと思っていたが、どうやら勘違いのよう……。
「……。え!? マジでそれ言ってんの!?」
遅れて和哉は過去最大なのではと思うくらい驚いた。姉様の重要な内容が魔物討伐ではないとわかると安心した和哉だったが、思ってもみなかった言葉に頭が追いついていなかった。
『ここまで和哉が驚くとはな。予想以上の反応で妾は嬉しいぞ』
和哉の反応を見るやいなや、姉様は満足げに笑う。
大木で姉様の素顔はまったく見えないけど、笑顔なのはなんとなく和哉にもわかる。しかし気分次第でなにもかも変わる姉様が教授を務めることとなったのかワケがわからなかった。
「え、え? なぜそうなったんですか? 俺にはよくわからないんですけど?」
『なーに、簡単なことだ。一か月前に魔物討伐を引き受けた先で、うちの学園へ来ないか? と誘われてな。まあ、断る理由もなく、久々に外に出て盛大に暴れたいと思い、誘いに乗ることにした。だから一週間後にはもう学園に着いていないといけない』
「いやいや! 軽いノリで引き受けるもんじゃないでしょ!? もっと慎重になりましょうよ」
『と、言われてもなー。決まったものはしょうがないと思うのだが』
なぜか困ったようにうめく姉様。正直、困りたいのは和哉のほうだ。
姉様の存在自体、遥か昔の頃から人々に崇められていた神様と同じなのだ。
神の力は特別だ。万能たる神の力は偉大であり、この世界の頂点に君臨する最強の力だ。だから危険が伴うのはもちろん、なにに悪用されるかわかったもんじゃない。
『まあ、安心しろ。誘ってきたのは妾とともに魔物討伐をしてきた旧友だ。誘われた学園も旧友が教師として働いてる学び舎だ。ちょっと世話焼きなところがあって厄介だが、信頼もできるし、やらんでいい手続きまですべてやってくれる良い奴だ』
「そういうことでしたら、俺はなにも言いませんけど……」
信頼できる旧友なら大丈夫か、と和哉は納得する。初対面の方の誘いならともかく、姉様も慕う仲なのであるなら信頼もできるだろう。危険性がないのであれば安心である。
『まあ、誘われたこともそうなのだが、それだけで教授をするわけでもないのだ。いや、むしろこっちのほうが妾にとって一番重要といったところか』
「えっ? それってどういう……」
和哉が問いかけた瞬間、大木の中心が撓る音を上げて広がる。大木からすればわずかな隙間だが、人ひとり通れるほどの隙間。そこから現れたのは、花柄の紅い着物を着た少女だった。
長い黒髪を鮮やかな花と赤い紐で束ねたポニーテール。着物の上から見せるきめ細やかな白い肌。淀みのない綺麗な緑の瞳は和哉を真っ直ぐに見つめている。
華奢な身体をしており、身長は和哉の肩を越えるか越えないか微妙なところだ。小顔で姉と呼ばれるのには幼さが微かに残っており、無邪気な笑みが可愛らしい。
そのわりには豊かな胸をしていて、着物の上からでもわかるくらいだ。幼い容姿をしていながら、大人の魅力は一様あるものの、中学生なんて言った日には永眠は確定だろう。
そんな彼女は重力という概念を無視してゆっくりと降りてくる。姉様は和哉に近寄り、手が届く距離まで来ると頬を両手で軽く包み込み、優しく微笑みかける。
「決まっているだろ。そんなの――和哉にはもっと広い世界を知ってほしいのだ」
「……え」
姉様が放った意外な言葉に、和哉は目を見開いた。いつも楽観的である姉様は、今やらしくない言葉を口にしている。いったいどんな心境の変わりようなのかは和哉にもわからない。
「十七年間、童とともにここで過ごしてきた。親子のように、なに一つ偽りもなく接し和哉のことを愛してきた。そして、知識と力を妾が与えられるかぎり和哉に教えてきた」
「はい。それはもう感謝しきれないほどに」
「ああ。妾にとって和哉になにかを教える、ってことは人生の中で生き甲斐であり、とても有意義で幸せな時間だった。勉強なんて楽しそうにやるもんだから、妾も楽しくなってしまったことも今でも覚えている。――だが、それだけだ」
「それだけ、とは?」
姉様は気づいていたのにも関わず、和哉のほうは完全に無自覚のようだ。
「……。おまえなら一番わかっていると思ったのだかな。それは違うようだな」
呆れて溜息を吐いた姉様は、背中を向けて一、二歩ほど離れてから踵を返し、勢いよく和哉の顔面スレスレに指をさしてきた。それに対して和哉は……動じることなく指先を見つめる。
「和哉は青春という青春をまだ味わっていない! だからあっちの学園に転入したら、実力を披露して、友達作って、モテまくって、彼女作って、一線超えて、妾に孫を見せてくれ!」
「人生舐めてませんか!? そんな箇条書きみたいにコトが運ぶわけがないでしょうが!」
青春を味わっていない。確かにそれは姉様の言うとおりだ。
だが姉様の述べた青春とは無理難題すぎる。というか非現実すぎて話にならない。
「できる! 和哉ならなんだってできるさ!」
「いや、できないことのほうが多いですよ。無茶言わないでください」
和哉の言っていることは謙遜などではなく真実だ。無能者と呼ばれても反論できないくらいに。というか、彼女は作りたくても作れないのが現実だと思う。
「まあ、そんなこと言わさんな。とりあえずこの学園のパンフレットを見てくれ」
微かに額に汗を滲ませながら、姉様は学園のパンフレットを手渡す。和哉はそれを渋々と受け取って、パンフレットに目を通すと目を見開く。
「……姉様、これって……マジもんの有名じゃないですか!? この学園」
「マジもんのマジだ。妾が向かう学園は凄いだろ? 和哉には丁度いい学園だと思うのだが」
なにが丁度いいのかは知らないが、一度は夢見るだろう学園への転入は和哉でも嬉しい話だ。だが、やはりというか最終的に不安が残る。姉様が言う学園はかなり特殊だ。生半可な覚悟で通えるような甘い学園ではないのだ。パンフレットを見るかぎりでは。
「姉様が言うとおりすごい学園だとは思います。だけど、逆に少し不安になってきました。この学園は才能ある人材が多く在学していると聞いたことがあります。でも俺には、才能と呼べるものはありませんし、実力だけにしても、修行不足が痛いですし……」
「なにを言うか……。だからこそだ。今の和哉は学園にいくべきだ。こんな狭い世界にいたところで成長なんてできないぞ。まだ見ぬ世界へ出て、新しい出会いをすれば、自分の予想以上の成長が望める。それに、すぐに新たな目標だって見つかるはずだ」
とても優しく、心強くも感じる姉様の言葉。いつも支えてくれるのはとても嬉しいことだが、今回の転入の件については和哉の中ではもう答えは出ていた。
「悪い話ではないと思うのだが……まあ、断ったところで学園いきは変わらぬがな」
「拒否権はないということですね……。――でもまあ、いいですよ。最初から断るつもりはなかったですから。俺は姉様についていきますよ」
和哉のやる気に満ちた表情に、姉様は満足げに笑みを浮かべる。
最初から断らないことを姉様は知っていたのかもしれない。姉様が焦りを見せたが、あれは演技だろう。姉様は多少のことで動揺しない。それに、断らない理由も多分知っているだろう。家の防音機能はほぼ皆無だし、ネッ友に呟いていたことを聞かれていてもおかしくはない。
「決まりだな。それじゃ妾から、転入にあたってとっておきの良い提案があるんだが――」
森が薄暗くなる時刻。唐突だったけど和哉の転入が決まった。次の日には通っていた学校に別れを告げ、学園のある都市へと出発した。故郷を離れるのは寂しいけど、人生の中で思いがけない展開に心躍らせ、転入先でどんな出会いが待っているのか楽しみで仕方がなかった。
それが、波乱の幕開けだとも知らずに――
ご静読ありがとうございました!
主人公こと禍月和哉と、神こと姉様。名前はそのうち知ることになる。
では、自分へ。早く序章が終わることを祈っています。