青い翼
「で、病院からの帰り道、ここに来たんだ」
俺の話が終わると、目の前に座る黒髪の女性、天空時ゆかりは立ち上がった。
「ちょっと、待っててくださいね」
結構暗い話をしたのに、拍子抜けするくらい穏やかな笑顔で、天空時ゆかりは奥の階段を上る。
「それって……治療を受けたら、また跳べるようになるんですよね?」
カウンター席に座っている奴が言う。
俺と同年代っぽいが、よく分からない。
「遅いんだ」
俺は声を荒げる。
「言ってもどうにもならないが、それじゃ遅すぎるんだ」
俺は、あの人の期待に応えることが出来なかった。
事実はそれだけだ。
「でも……」
「マスミちゃん」
風変わりな格好をしたハーフのような子供が、割って入る。
「ゆかりにマカせなさい。アナタには、アナタのシゴトがあるでしょ?」
「……うん」
思い切り腑に落ちていない顔をしつつも、少女の言葉に従うようだ。
「すみませんでした」
「……別に。俺も、声荒げてごめん」
そいつが俺に背を向ける。
「お待たせしました」
そこに、天空時ゆかりが何かを抱えて戻ってくる。
「それ、何?」
俺が聞くと、天空時ゆかりは、長方形のそれを俺に手渡した。
表紙には【青い翼】という文字と、青い鳥の絵が描いてある。
絵本のようだ。
「なんで……絵本?」
「言わなかったかしら。ここは、絵本屋さんなの」
俺が困惑していると、天空時ゆかりは俺の向かいに座った。
「読んでください」
柔らかい笑顔で言われて、俺は絵本を開く。
【ちいさな とりは ないていました。
「ぼくは とべない とりだ。とべない とりは とりじゃない。」】
跳べない、という文字にドキリとさせられる。
でもこれは、俺のことじゃない。
【そのとりの つばさのいろは とてもきれいな あおいろでした。
でも とりは そのきれいな あおいつばさを じょうずに つかうことが できませんでした。】
天空時ゆかりの目的が分からない。
こんな絵本、何だと言うんだ。
正面にいるこの人は、何を考えている。
目を向けても、何となく嘘っぽい完璧な笑顔で首を傾げられるだけだ。
……まぁ、いい。
家に帰っても、どうせすることはないし。
俺は本に目を戻し、ページを捲る。
【あるひ とりは むらでいちばん ながくいきている ”ちょうろう”に あいに いきました。】
そこには、丸い眼鏡をかけているという現実ではありえない鳥が描かれていた。
丸く大きな図体は、どこか顧問を思わせて少し笑えた。
【「ちょうろう。そうだんが あるんです。」
とりがいうと ちょうろうは やさしく ほほえみました。
「よくきたのう。きみが むらいちばんの きれいな つばさをもつ とりじゃな?」
「そうです。」
とりは じまんのつばさを おおきく ひろげました。】
そのすぐあと、鳥は翼を下ろして落ち込んだ様子を見せる。
【「どうしたらいいんでしょうか。」】
次の台詞で、俺はページを捲ろうとする手を止めた。
【「ぼく とべないんです。」
とりは きれいな あおいつばさを なみだでぬらします。】
”……すいません……先生……っ俺……”
とべないんです。
絵本の中の鳥が簡単に言えた台詞を、俺は言えなかった。
俺は、跳べない。
病院の廊下でいつもの笑顔を見せていた顧問。
でも、いつも通りのそれが作られたものだということくらい、俺にも分かった。
俺は跳べなくなったことで、あの人を悲しませた。
あの人に似ている長老は、どう反応するのだろうか。
鳥と長老の関係は、俺と顧問のそれとは全く違うことは分かっている。
でも、それが気になった。
ゆっくりとページを捲る。
【「れんしゅうを しなさい。」
ちょうろうは やさしいえがおで いいました。
「わしも れんしゅうに つきあおう。」】
ページを捲ると、青い鳥が必死に羽ばたいてる絵だった。
苦しそうに汗を流し、それでも空を見据えて、必死に羽を伸ばしている。
不意に蘇ってきた。
助走をつけて踏み切った直後に全身で感じる浮遊感。
俺は、それを感じるために、自分のために、跳んでいた。
でも、期待されていることを感じてからは、ずっと人のために、跳んでいた。
俺は、自分のために跳ぶことを、忘れていた。
”まぁ、気にすんな。お前には時間がまだまだあるんだ”
顧問は、教えてくれていたというのに。
俺が跳ぶのは、あの人のためだけじゃないだろ。
自分に、言い聞かせる。
俺のためだろ。
その言葉が浮かんだ時、目の前にいくつもの道が拓けた気がした。
顧問の前で跳べる時間は、もう失った。
俺が、自分で”翼”を折った。
でも、俺にはまだまだ時間があるじゃないか。
折った”翼”が治る時間を引いたとしても、俺の人生はまだまだ続く。
俺は、何を思い詰めていたんだ。
絵本なのだから、この鳥も練習で飛べるようになるんだろう。
幸い、俺も二度と跳べないわけじゃない。
パタン、と音を立てて、絵本を閉じた。
顔を上げると、天空時ゆかりは驚いた顔をしていた。
「……最後まで、読まないの?」
俺はニッと笑って返す。
「もう、道は拓けたんだ。だから、もういい」
俺のその表情を見て、天空時ゆかりは懐かしそうに目を細めた。
その微笑みは本物だ、と何となく感じ取った。
「予想外の行動をするわね。……誰かさんにそっくり」
呆れたような、慈しむような声色に、俺は立ち上がりながら言った。
「その誰かさんのこと、大切だったんだな」
まだ慣れない松葉杖に体を預けてから天空時ゆかりを見ると、また驚いたような顔をしていた。
天空時ゆかりは、左手で右手首を掴んで目を伏せた。
「どうしてそう思ったの?」
どうして、と聞かれても、何となくそう思っただけだ。
俺も首を傾げていると、天空時ゆかりはふっと息を吐くように笑った。
「面白い言の葉を紡ぐのね、あなた」
よく分からない言葉だったが、何となく褒められたような気がする。
俺は、扉を開いた。
チリン、と軽やかな音が響く。
「ありがと。俺も、また跳べるように頑張るよ」
俺は、目の前に拓けた道へ、一歩踏み出した。