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絵本屋さん  作者: 優希
青い翼
6/8


もう一度でいいから、跳びたかった。


気付いたら、必死で練習していた。

何歳の時に初めて跳んだ、なんて明確なことは覚えてない。

ただ、いつの間にか跳ぶことに夢中になっていた。

毎日、三十メートルのバウンディングを十本と腹筋を二百回。日曜は体を休める。

これを部活とは別のノルマとして、中学生の時から実行し続けた。

人は俺を「天才だ」と言うが、俺はただ少しでも遠くへ跳びたくて努力しただけだ。

顧問にも記録を褒められたりしたが、別にどうでもいい。

助走をつけて踏み切った直後に全身で感じる浮遊感。

俺はそれが好きだ。

ただ、少しでも長くそれを感じていたかった。



「迅はすごいな!」


部活が終わったあと、顧問に声をかけられた。


「……何がですか?」


俺が聞き返すと、顧問は明るく笑った。

中年の大柄な顧問が声を張り上げて笑うものだから、帰宅準備をしていた部員たちは何事かとこちらに注目する。

その視線を、手をシッシッと動かすことで散らせる。

部員たちは笑って準備に戻った。


「何がって、高一で県大会に出場する奴が言うことか?」


その言葉に、「はぁ……」と俺は曖昧な返事を返す。

顧問は俺の肩をガシッと抱くと、また豪快に笑った。


「お前をスカウトして良かったよ!」


聞き飽きた台詞に、俺は苦笑する。


「はいはい。もう帰っていっすか?」


「何だよお前、冷たいな」


「先生、そろそろ迅を開放してやってくださいよー」


部員の言葉に、顧問はムッとする。


「何だよ。俺が迅を引き留めてたみたいに言いやがって」


「みたいじゃなくて、引き留めてたんすよ」


軽口を叩きつつも、顧問は俺を開放してくれた。

俺は、この顧問のことは嫌いじゃない。

この人の指導を受けたら、今までより長く跳べるようになった。

俺を跳ばせてくれる人のことは、好きだ。


「迅、帰るぞー」


「おう」


部員に呼ばれ、「あざーした」と顧問に緩い挨拶をすると、部員たちと共に暗くなった道を帰った。





六回目を跳んだあと、俺の心臓はドクドクとうるさかった。

今までで一番、長く跳んだ。

体がそう告げている。

振り返ると、白旗が揚がった。

ファールでなかったことに安堵しつつ、計測を待つ。

それは、俺にとって新記録だった。





大会から数日後の部活終わり。

つい練習に熱の入ってしまった俺は一人、埃っぽい部室で帰る支度をしていた。


「迅」


その声は唐突に聞こえた。

振り返ろうとした途端、強い力で背中を叩かれた。

突然のことに構えることも出来ず、激しくむせる。


「せ……先生?いきなり何すか?」


聞きながら振り返ると、顧問は俺に背中を向けていた。

その肩が小刻みに震えていることが分かる。

俺が息を呑むと、顧問の押し殺したような小声が呟く。


「……よくやった……!」


感情の昂りを押さえつけているように、微かに揺れる低い声。


「お前は……俺の誇りだ……っ!」


顧問に叩かれた背中が、じんわりと熱くなった。

いつもの冗談でないことは、俺を叩いた時のその力で分かる。


「全国だ……全国大会への切符を手に入れたんだぞお前は……!」


湿った声に、顧問が泣いていることに気付く。


「……はい」


顧問は俺を振り返る。


「俺、この学校は今年で最後だろうからさ。……嬉しい。お前が跳んだ時、言葉に出来ないくらい、感動した。これは、全国に行けるって思ったんだ。いや、全国どころか、世界にも行けるって」


「それは評価しすぎでしょ」


「そんなことはない」


その目はまた湿っていたが、顧問はいつも通りニカッと笑った。


「お前をスカウトして、良かったよ」




俺は、先生のために跳ぶことを決めた。

ずっと自分のために跳んできたが、初めて人のために跳ぶ。

人のため、となると、練習には自然と熱が入り、練習時間も量も増えた。

顧問には「跳びすぎるな」と言われたが、顧問の目を盗んで何度も跳んだ。

跳ぶたびに、より遠くへ跳べるようになっている気がする。

そして、全国大会が目前に迫った時。

俺の膝は、動かなくなった。



医者の告げた長い名前は、俺にはよく分からなかった。


「ちょっと待って」


真剣な顔をして話をしている医者と親を遮る。


「俺、もう時間がないんだ。走り幅跳びをしなくちゃいけないんだ。全国大会なんだよ」


「無理ですね」


医者の声は、ひどく冷淡だった。


「二週間ギプス固定、そのあと皮のギプスで最低二ヶ月は固定して、それからリハビリです」


「無理だ」


俺ははっきりと否定した。


「痛いのは我慢する。膝が動けばいいんだ。頼む、大会の日だけでも……」


「あなたは、膝を治したくないんですか?」


「そんなわけないだろ。でも、大会には絶対に出ないといけないんだ」


”お前をスカウトして、良かったよ”


埃っぽい部室の中で目を湿らせた顧問は、そう言って笑った。

俺は、あの人のために、跳ばなきゃならない。


「その一回で、これからもう跳べなくなるかもしれないんですよ?良いんですか?」


「駄目です」


一瞬揺らいだ俺の隙を突いて、即答したのは母だった。


「駄目です。通常の治療をしてください」


「おい」


俺が声を荒げると、母はキッと俺を睨んだ。


「あんた、跳ぶことが好きでしょ。ずっと見てきたんだから、知ってるの。だから、跳べない迅を見たくない」


俺には、何も言えなかった。

……俺を跳ばせてくれる人のことは、好きだ。

だから、俺を跳ばせてくれないこの場所にいる人たちが、大嫌いだった。




「先生」


病院の廊下で松葉杖の耳障りな音を響かせながら、顧問を呼び止めた。

もう、母から話は聞いただろう。


「……すいません……先生……っ俺……」


跳べなくなりました。

その一言が、喉に引っかかる。

顧問は振り返らないまま、言った。


「悪かったな」


いつも通りの明るい声が、病院の廊下に虚しく響く。


「俺が、あんなこと言っちゃったからな。無理させちまったか」


「そんな……先生のせいじゃ……っ」


顧問は振り返って、深々と頭を下げる。


「悪かった。オーバーワークさせて、お前の大切な時間を奪ってしまった」


「違う……先生……俺は……。俺は勝手に……」


先生は止めてくれたのに。俺が、勝手に……。

情けなく、涙と嗚咽がぼろぼろと零れる。

何が、天才だ。

何が、新記録だ。

何が、全国大会だ。

何が……何が、先生のために跳びたい、だ。

俺は跳べなくなったじゃないか。

しかも、跳べなくなったことで大切な人に頭下げさせて……。


俺、ただの最低な野郎じゃないか。


先生は、泣いている俺の頭に手を置いて、ニカッと笑った。


「まぁ、気にすんな。お前には時間がまだまだあるんだ」


お前をスカウトして良かったよ、という言葉は、当然ながら聞けなかった。


───────もう一度でいいから、跳びたかった。


俺に期待してくれていた、あの人のために。


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