迅
もう一度でいいから、跳びたかった。
気付いたら、必死で練習していた。
何歳の時に初めて跳んだ、なんて明確なことは覚えてない。
ただ、いつの間にか跳ぶことに夢中になっていた。
毎日、三十メートルのバウンディングを十本と腹筋を二百回。日曜は体を休める。
これを部活とは別のノルマとして、中学生の時から実行し続けた。
人は俺を「天才だ」と言うが、俺はただ少しでも遠くへ跳びたくて努力しただけだ。
顧問にも記録を褒められたりしたが、別にどうでもいい。
助走をつけて踏み切った直後に全身で感じる浮遊感。
俺はそれが好きだ。
ただ、少しでも長くそれを感じていたかった。
「迅はすごいな!」
部活が終わったあと、顧問に声をかけられた。
「……何がですか?」
俺が聞き返すと、顧問は明るく笑った。
中年の大柄な顧問が声を張り上げて笑うものだから、帰宅準備をしていた部員たちは何事かとこちらに注目する。
その視線を、手をシッシッと動かすことで散らせる。
部員たちは笑って準備に戻った。
「何がって、高一で県大会に出場する奴が言うことか?」
その言葉に、「はぁ……」と俺は曖昧な返事を返す。
顧問は俺の肩をガシッと抱くと、また豪快に笑った。
「お前をスカウトして良かったよ!」
聞き飽きた台詞に、俺は苦笑する。
「はいはい。もう帰っていっすか?」
「何だよお前、冷たいな」
「先生、そろそろ迅を開放してやってくださいよー」
部員の言葉に、顧問はムッとする。
「何だよ。俺が迅を引き留めてたみたいに言いやがって」
「みたいじゃなくて、引き留めてたんすよ」
軽口を叩きつつも、顧問は俺を開放してくれた。
俺は、この顧問のことは嫌いじゃない。
この人の指導を受けたら、今までより長く跳べるようになった。
俺を跳ばせてくれる人のことは、好きだ。
「迅、帰るぞー」
「おう」
部員に呼ばれ、「あざーした」と顧問に緩い挨拶をすると、部員たちと共に暗くなった道を帰った。
六回目を跳んだあと、俺の心臓はドクドクとうるさかった。
今までで一番、長く跳んだ。
体がそう告げている。
振り返ると、白旗が揚がった。
ファールでなかったことに安堵しつつ、計測を待つ。
それは、俺にとって新記録だった。
大会から数日後の部活終わり。
つい練習に熱の入ってしまった俺は一人、埃っぽい部室で帰る支度をしていた。
「迅」
その声は唐突に聞こえた。
振り返ろうとした途端、強い力で背中を叩かれた。
突然のことに構えることも出来ず、激しくむせる。
「せ……先生?いきなり何すか?」
聞きながら振り返ると、顧問は俺に背中を向けていた。
その肩が小刻みに震えていることが分かる。
俺が息を呑むと、顧問の押し殺したような小声が呟く。
「……よくやった……!」
感情の昂りを押さえつけているように、微かに揺れる低い声。
「お前は……俺の誇りだ……っ!」
顧問に叩かれた背中が、じんわりと熱くなった。
いつもの冗談でないことは、俺を叩いた時のその力で分かる。
「全国だ……全国大会への切符を手に入れたんだぞお前は……!」
湿った声に、顧問が泣いていることに気付く。
「……はい」
顧問は俺を振り返る。
「俺、この学校は今年で最後だろうからさ。……嬉しい。お前が跳んだ時、言葉に出来ないくらい、感動した。これは、全国に行けるって思ったんだ。いや、全国どころか、世界にも行けるって」
「それは評価しすぎでしょ」
「そんなことはない」
その目はまた湿っていたが、顧問はいつも通りニカッと笑った。
「お前をスカウトして、良かったよ」
俺は、先生のために跳ぶことを決めた。
ずっと自分のために跳んできたが、初めて人のために跳ぶ。
人のため、となると、練習には自然と熱が入り、練習時間も量も増えた。
顧問には「跳びすぎるな」と言われたが、顧問の目を盗んで何度も跳んだ。
跳ぶたびに、より遠くへ跳べるようになっている気がする。
そして、全国大会が目前に迫った時。
俺の膝は、動かなくなった。
医者の告げた長い名前は、俺にはよく分からなかった。
「ちょっと待って」
真剣な顔をして話をしている医者と親を遮る。
「俺、もう時間がないんだ。走り幅跳びをしなくちゃいけないんだ。全国大会なんだよ」
「無理ですね」
医者の声は、ひどく冷淡だった。
「二週間ギプス固定、そのあと皮のギプスで最低二ヶ月は固定して、それからリハビリです」
「無理だ」
俺ははっきりと否定した。
「痛いのは我慢する。膝が動けばいいんだ。頼む、大会の日だけでも……」
「あなたは、膝を治したくないんですか?」
「そんなわけないだろ。でも、大会には絶対に出ないといけないんだ」
”お前をスカウトして、良かったよ”
埃っぽい部室の中で目を湿らせた顧問は、そう言って笑った。
俺は、あの人のために、跳ばなきゃならない。
「その一回で、これからもう跳べなくなるかもしれないんですよ?良いんですか?」
「駄目です」
一瞬揺らいだ俺の隙を突いて、即答したのは母だった。
「駄目です。通常の治療をしてください」
「おい」
俺が声を荒げると、母はキッと俺を睨んだ。
「あんた、跳ぶことが好きでしょ。ずっと見てきたんだから、知ってるの。だから、跳べない迅を見たくない」
俺には、何も言えなかった。
……俺を跳ばせてくれる人のことは、好きだ。
だから、俺を跳ばせてくれないこの場所にいる人たちが、大嫌いだった。
「先生」
病院の廊下で松葉杖の耳障りな音を響かせながら、顧問を呼び止めた。
もう、母から話は聞いただろう。
「……すいません……先生……っ俺……」
跳べなくなりました。
その一言が、喉に引っかかる。
顧問は振り返らないまま、言った。
「悪かったな」
いつも通りの明るい声が、病院の廊下に虚しく響く。
「俺が、あんなこと言っちゃったからな。無理させちまったか」
「そんな……先生のせいじゃ……っ」
顧問は振り返って、深々と頭を下げる。
「悪かった。オーバーワークさせて、お前の大切な時間を奪ってしまった」
「違う……先生……俺は……。俺は勝手に……」
先生は止めてくれたのに。俺が、勝手に……。
情けなく、涙と嗚咽がぼろぼろと零れる。
何が、天才だ。
何が、新記録だ。
何が、全国大会だ。
何が……何が、先生のために跳びたい、だ。
俺は跳べなくなったじゃないか。
しかも、跳べなくなったことで大切な人に頭下げさせて……。
俺、ただの最低な野郎じゃないか。
先生は、泣いている俺の頭に手を置いて、ニカッと笑った。
「まぁ、気にすんな。お前には時間がまだまだあるんだ」
お前をスカウトして良かったよ、という言葉は、当然ながら聞けなかった。
───────もう一度でいいから、跳びたかった。
俺に期待してくれていた、あの人のために。