プロローグ2
美里さんがお店を出てから、私は思わず呟いていた。
「すごい……」
向かいに座る少女が、首を傾げる。
「すごいって、ナニが?」
その声に重ねるようにガタッと勢いをつけて立ち上がると、「うわっ、ビックリした!」とマリアさんが大きく反応をした。
「私を、ここに置いてください!」
私の発言を最後に、場が静まり返る。
あれ、はっきり言ったつもりだったけど、早口すぎたかな?
「私を、ここに、」
「聞き取れなかったわけじゃないわ」
彼女は、はぁ、と溜め息を吐いた。
私は言葉を重ねる。
「私、初めて見たんです。ひとの表情があんなに変わるところ」
最初に扉を開いた時は、暗く重苦しい表情をしていた美里さん。
しかし、再び扉を開く時には、明るく晴れ晴れとした表情になっていた。
その変化は、きっと、簡単に起こせるようなものではない。
「私、もっと見てみたいんです」
そんな、奇跡を。
「それに、家族のなくなった私は行く宛てもないですし……。少しの間でいいんです!お願いします、天空時さん!」
深く頭を下げる。
上から彼女の苦笑が降ってきた。
「顔をあげて」
恐る恐る頭をあげると、彼女は眉を寄せて笑っていた。
「分かったわ。少しの間なら、ここに居て構わない。あと、ゆかりでいいわよ」
「やった!ありがとうございます、ゆかりさん!」
「ヨかったわね」
「うん!」
嬉しくて満面の笑顔になった私とは反対に、ゆかりさんは完璧な笑顔をスッと消した。
「座って待っていて」
「あ、はい……」
戸惑いながら、椅子に座る。
無表情のゆかりさんは何も言わず、二階に上がっていった。
綺麗なひとは無表情でも綺麗だなぁ……じゃなくて。
やっぱり、突然ここに置いてくれだなんて、迷惑だったよね……。
反省していると、少女が笑った。
「キにしないで。ゆかりはオンとオフがハゲしいの。あれがスなのよ」
今までの完璧な笑顔は作ったものだったのか。
つまり。
「気を許してもらえたってことですね!嬉しい!」
「……アナタのポジティブなトコロ、キラいじゃナいわ」
喜ぶ私を呆れた顔で見る少女に、私は問いかける。
「マリア……さんは、ゆかりさんと付き合いが長いの?」
思わず、さん付けで呼んでしまった。
この少女はどう見ても子供にしか見えないのに、妙に大人びているから。
「まぁ、それなりにね。ていうか、さんヅけなんてヤめてよ。ジブンでもしっくりキてナいでしょ?スきにヨんで」
「じゃあ……マリアちゃん」
「それでイいわ」
頷いて笑うマリアちゃんにつられて笑顔になる。
そこに、ゆかりさんが戻ってきた。
手には、紫色の紙と羽ペン。
紙をテーブルの上に置くと、ゆかりさんは「ここ」とひとつのマスを指差した。
「ここに、横線を書き入れてくれる?」
「はい」
羽ペンを受け取る。
羽ペンなんて、初めて持った。
ここでは初めてだらけだ。
横線を書き入れてペンを返そうとすると、ゆかりさんは「ありがとう」とそれを遮った。
「そのペンと紙は、あなたが持っていて。大切なものだから、失くさないようにね」
「大切なもの、ですか?」
それを、何故私に?
首を傾げていると、マリアちゃんが切り出した。
「あのね、このマチはカわったバショなのよ。マスミちゃんのイた”ゲンジツセカイ”とはキりハナされているの」
「現実と……切り離されてる……?」
そんな突飛な話があるだろうか。
ゆかりさんが説明を継いだ。
「だから、さっきの美里さんもこの町から現実へ戻ったら、ここでの記憶は無くなってしまうわ」
「記憶が消える!?」
せっかく、あんなに明るい表情に変わったのに。
「美里さんが立ち直ったこともなくなっちゃうんですか?」
私が余程悲しそうな顔をしていたのか、マリアちゃんは穏やかな笑顔を浮かべた。
「アンシンして。キオクはナくなっても、タちナオったセイシンジョウタイがナかったコトにはならないわ」
「良かったぁ」
私が息をつくと、マリアちゃんは可笑しそうに笑った。
「イいコね。イチドしかアったコトのナいヒトにそんなにカンジョウイニュウがデキるなんて」
「む、馬鹿にしてる?」
「まさか。ホめてるのよ」
それならありがとう、と応えて、私は首を傾げた。
「あの……ここが現実世界じゃないとして、それがこの紙とペンにどう繋がるんですか?」
「それがないと、給料がもらえないのよ」
ゆかりさんが静かに答える。
「あぁ。そういえば、お店なのに、美里さんからお金を受け取ってませんでしたね」
「傷を抱えてここを訪れたお客さんに、代金なんて生々しい話をしたくないからだと思うわ」
ゆかりさんは私の手元の紙とペンを眺めながら説明してくれた。
「お客さんの傷が少しでも癒えて店を出てくれた時に、この紫色の紙に正の字をつけるの。その数に見合った給料がもらえるわ」
「え、その仕組みってズルしちゃう人いません?」
「一応、このペンはお客さんが帰った後に一度しかインクが出ないようになっているの。この紙も、他のペンじゃ書き入れることが出来ないわ」
まぁ、この町にそんなことをする人はいないと思うけれどね、とゆかりさんは付け足した。
「試しに、もう一度、書いてみて」
言われて、私は羽ペンで紙に正の字を書く。
「あ、本当に書けない!」
「だから、ズルのしようもナいのよね」
私の驚いた顔を見て、マリアちゃんは笑う。
「それを、真純の仕事にするわ」
ゆかりさんに言われて、ハッと息を呑む。
簡単だけど重要な仕事を任せてくれたのは、ゆかりさんの優しさだ。
表情は冷たくても、感情は冷たいわけじゃない。
そして何より、名前を呼んでくれたことが嬉しかった。
「はいっ!任せてください!」
私の返事を受けて、ゆかりさんが柔らかく微笑んだ。
その微笑んだ顔は、今までの完璧な笑顔が色あせるほど、綺麗なものだった。
思わず見惚れていると、ゆかりさんはスッと無表情に戻った。
少し名残惜しさを感じる。
「じゃあ、クッキーを取ってくるわね」
「あ、手伝います!」
「いいわよ。ワタシがイくわ。シュヤクはスワってて」
マリアちゃんの言葉に、「主役?」と聞き返す。
「そうね。ささやかだけれど、真純の歓迎会としましょうか」
「歓迎会ですか!嬉しいです!」
待っててね、と奥に消えていく二人の背中に、
「次から手伝わせてくださいね!」
と言葉をかけた。
「ふふ、サワがしくなりそうね?ゆかり」
「えぇ、そうね。……騒がしいのは、嫌いじゃないわ」