プロローグ
長い物語が始まります。
更新は遅いかもしれませんが必ず完結させます。
ぜひ、読んでみてください。
ふと足を止めたのは、知らない家の前だった。
ぼうっと歩いていたら、いつの間にか知らない町に迷い込んでしまったらしい。
寒い朝特有の薄く霧がかった景色を見回し、首を傾げる。
おかしい。
今朝家を出発してから、長い距離を歩いたわけでもないのに見慣れない場所にいるということ。
人の気配どころか、犬猫の気配すら全くないこと。
そして、と目の前の家を見上げる。
赤いとんがり屋根を持つ家があること。
そんな家の実物を見るのは初めてだった。
今度はもっとジッと目を凝らして周りを見渡す。
どうやら、この家だけでなく、他の家の屋根も空を刺しているようだ。
他の家。余すことなく、全て。
「えぇ……」
私はついにおかしくなってしまったのだろうか。
赤、青、黄色、緑…とぼんやりと見える色鮮やかな屋根たち。
目が痛くなり、強めに目頭を押さえた。
こんな絵本やゲームのようなファンタジーな世界があるわけない。
あったとして、近所なのにこんな変わった町を知らないわけがない。
もしかして、ここは私の夢の中の世界なのでは、とも考えたが、ない。
強く押しすぎた目頭が痛いからだ。夢に痛覚までは持ち込めないはず。
「ここは何処ですか」ってこの家のひとに聞いてみようかな。
なんてのは建前で、足を止めた瞬間から、私は目の前のこの家が気になって仕方なかった。
何故か、ここに入りたい、入るべきだ、と本能が叫んでいる。
周りにも似たような建物はたくさんある。
しかし、私の好奇心はここだけに働いているようだ。
「……よしっ」
両手で頬を叩き、ぐるぐると考えていたことを振り払った。
ごちゃごちゃ考えるのはやめる。
……もう失うものなんて、何もないのだから。
呼び鈴を探してもなかったから、扉を押してみた。
扉は何の抵抗もなく開く。
扉の上についていた鈴が、チリン、と涼しい音を響かせた。
中は薄暗く、誰もいない。
テーブルの上に逆さに乗せられた椅子が、まだ開店前であることを無言で告げていた。
「ここ、お店だったんだ……」
時々あるよね、普通の家に見せかけた隠れ家的なお店。
この時、誰もいないお店が施錠されていないことに、私は全く疑問を抱かなかった。
むしろ、当然だ、くらいに思っていた。
だって、ここが私を呼んだのだから。
「すみませーん、誰かいませんかー」
声を張って中に呼びかける。
返事は返って来ない。
店内に響いているのは、正面にある大きくて立派な柱時計が時を刻む音くらいだ。
勝手に侵入するわけにいかないし、諦めようか。
そう思って、扉を閉めようとしたその時、二階から物音がした。
人がいる。
確信すると、足が勝手に踏み出した。
進まなければならない、と思った。
根拠はない。
足は階段をしっかりと踏みしめて、一段ずつ上がっていく。
この先に、何が待っているんだろう。
胸が高鳴る。
何か、とても素敵なことが起きるような気がする。
階段を上り終えると、廊下の突き当りに扉があった。
そこだ。
吸い寄せられるようにその扉に近づいて、ドアノブを捻る。
まず目に入ったのは、図書館のように膨大な本。
次に目を奪われたのは、椅子の背もたれに背中を預けて本を読んでいる華奢な女性だった。
私は、息を呑む。
朝日が暖色の大きな窓によって蜂蜜色に染まり、室内に注ぎ込まれていた。
その温かみのある光が、天井についてしまいそうなほど高くそびえ立つたくさんの本棚や、ぎっしり詰まった鮮やかな本の背表紙、女性の肩甲骨まで伸びた艶やかな黒髪を照らしていた。
積み上げられた本や椅子も、何処か芸術的な影を床に落としている。
まるで、一枚の絵画のような場面だ。
女性はこちらに背を向けていて顔は見えないが、毛先まで手入れされた髪やまっすぐ伸びた背筋からは気品が漂っている。
声をかけることでその絵を壊してしまうことが怖くて、私はその場に立ち尽くした。
人の気配を感じたのか、女性が小さく肩を揺らす。
「マリア、今日は早いわね。どうしたの?」
女性の発した声は、冬空のように澄んでいて落ち着いていた。
私は声も出せずに立ち尽くしたままだった。
返事がないことを不審に思ったのか、女性がゆっくりと振り返る。
彼女は、綺麗なひとだった。
肌の白さが引き立てるのは、バランスよく配置された黒目がちの瞳。
スッと通った鼻筋に、小さく咲いた桜色の唇。
瞳の端は微かに吊り上がっているが、きつい印象はなく、彼女の美しさを助長していた。
私の姿を捉えた彼女は、素早く立ち上がる。
そして、完璧な笑顔を浮かべた。
「ごめんなさいね。お店は一階なの」
読んでいた本を閉じて椅子に置いた彼女は、私の背を軽く押しながら階段を下りた。
「また開ける時間ではないはずなのだけれど……」
彼女がそう呟くと同時に、一階が明るくなる。
「あ、あの、」
店の中央のテーブルから椅子を下ろし始めた彼女に、私は何とか声を絞り出して尋ねた。
「ここは何屋さんなんですか?」
ここは何処ですか?って聞こうとしたのに、口から出たのは違う質問。
その質問に、彼女の少し吊り目気味だった目が丸くなる。
「何屋さん、と聞かれたのは初めてだわ。面白い言の葉を紡ぐのね、あなた」
コトノハ?
疑問に思ったが、黙って彼女の返答を待つ。
彼女は左手で右手首を掴み、目を伏せた。
考え込んでいるようだ。
目を伏せると睫毛の長さが分かる。
やっぱり、美人だ。
少しして、彼女は目を開いた。
「そうね。絵本屋さん、というのが一番しっくりくるかも……」
その言葉を遮るように、チリン、と鈴の音がする。
「ゆかり、もうおミセをアけているの?アカりがモれていたからオドロいたわ」
声のした扉のほうを振り返る。
そこにいたのは、フランス人形のような女の子だった。
ウェーブのかかった金色の髪と、水色のワンピースに白いエプロンドレスという童話から抜け出してきたような恰好が、まだ小学生低学年くらいの少女に不思議な雰囲気を纏わせていた。
「あら、ワタシ、デナオしたホウがイいかしら?」
妙な癖のついた大人びた喋り方をする少女。
「二階で待っていたら?マリアのためにクッキーを焼いているの」
「アリガトう。でも、おキャクさんがいらっしゃるじゃない」
マリア、と呼ばれた少女はそう言って、蝶が舞うような軽やかな足取りで椅子に近づくと、ふわりと椅子に座った。
そして、私に微笑みかける。
「アナタもスワって」
「……はい」
私が少女の向かいに座ると、テーブルを拭き終えた彼女は少女の隣に座った。
向かいに座ったことで、少女の瞳が青いことに気付く。
海のように明るい青色。
思わず見惚れる私の様子を見て、少女は淡く微笑んだ。
どう見ても子供にしか見えない少女のその表情は無邪気な子供のそれではなく、全てを悟った大人のようなものだった。
私は慌てて目を逸らす。
「ワタシはマリアというの。アナタは?」
「叶野、真純です」
「マスミちゃんね、よろしく」
何をどうよろしくするのかも分からないため、曖昧に笑って頷いた。
「そういえば、まだ名乗ってなかったわね」
彼女は思い出したように言うと、再び完璧な笑顔を浮かべた。
「絵本屋さんの店主、天空時ゆかりです」
よろしく、と差し出された手を握る。
細く滑らかな指は、冷たかった。
私と彼女が手を離すのを見届けてから、マリアと名乗った少女が口を開く。
「ではサッソクホンダイね。マスミちゃん、おナヤみはナニかしら?」
「……お悩み、ですか……?」
私が首を傾げると、彼女は頷いた。
「えぇ。ここは何か悩み事を抱えた人しか訪れることが出来ないの」
「え、えぇと……」
現実的に考えて、そんなことありえるのだろうか。
私がちょっと目を離した隙に、常識が変わった?
ていうか、さっき「絵本屋さん」って言ってたよね。
絵本を売るお店であって、お悩み相談室じゃないんだよね。
「叶野さん?」
黙り込んだ私を見て、彼女は首を傾げる。
私は再び、考えることを放棄した。
「うーん……。悩みと言って一番に思いつくのは、天涯孤独になっちゃったってことですかね」
私が言うと、目の前に座る二人は少し顔を歪めた。
「それは……ツラいでしょう」
そういう顔を見ることには、もう慣れた。
私は笑顔を作る。
「そうですね。住む場所もなくなっちゃいますし。だから、悩みは住む場所がないってことです」
意識してサッパリと答えると、少女が驚いたように目をパチクリとさせた。
「……そう。あっさりしたものなのね」
私は苦笑した。
「何と言うか……まだ自覚がないのかもしれません。身ひとつでふらふらと知らない町に来てしまうような私ですから」
私が言うと、そういうモノなの、と少女は納得した様子だ。
彼女は何かを考え込むようにしている。
「あの……天空時さん?」
「ちょっと待ってね。思い当たらないの」
「え、何がです?」
「エホンよ」
答えたのは、少女だった。
「ゆかりはエホンをカいているの」
「作家さんなんですか?」
「えぇ。まぁ、そんなカンじね」
「でも、悩み事と絵本って、どういう……」
私の声を遮るように、チリン、と扉についた鈴が鳴る。
「あ、あの……ここ、は……?」
そこには、戸惑っている中学生くらいの女の子の姿。
立ち上がった彼女に、少女が小声で問いかける。
「イマまで、おキャクさんがカサナったコトは?」
「これが初めてよ。今日はイレギュラーなことばかり起きるわね」
少女も立ち上がり、私の元に来た。
「カウンターセキでミてましょ?」
「えっと……?」
「ミてたらワかるわ。ココがどういうおミセなのか」
言われるままに席を立ち、少女とカウンター席に移動する。
「いらっしゃいませ。ここは、絵本屋さん、よ」
完璧な笑顔を浮かべた彼女が、チラリと私を振り返る。
私がそれに何か反応する前に彼女の視線が逸れて、扉の前で呆然としている女の子に微笑みかけた。
「私は絵本屋さんの店主、天空時ゆかりです」