特攻隊員とのお話
前もって、
これはある元特攻隊員(戦闘機パイロット)が話してくれた内容を元にしていますが、フィクションだと思ってください。
なぜ、特攻隊員は戦後に自らの話をしていかなかったか
http://ncode.syosetu.com/n9717dv/の続編です。
彼は戦前、ソバ屋の長男であり、自身も将来は実家を継ぐことになるだろうと考えていたようで、実際家業の手伝いもしていたようだ。少年期はあまり丈夫な体ではなかったが、歳とともに改善していったという。
戦時中になってからも、彼自身はあまり戦争からの影響は受けなかったが、戦争も中ごろになると戦況が悪化し、彼が住んでいた地域の師団がある戦場で玉砕し、その師団の遺族が遺骨を持って大通りを行列を作って歩く中、それを見ていた少年の頃の彼は「この戦争で、この日本は大変なことになった」ということを実感したという。
そう思った彼は、この戦局の打開や日本に迫りくる事態を避けるために、軍に志願することを決意した。
親とかを守るためにと考えて軍に志願したのではなく、国にたんに報いよう(これは語弊がある可能性がある)と考え、そういった行動に至ったようである。
しかし一つ問題があり、彼はまだ国民学校に入学している年齢であり、軍に志願できる年齢になっていなかった。そこで彼は、親族の軍属に頼んで、年齢を無理やり数え年で提出(つまり厳密に言えば虚偽)してもらい、陸軍航空学校に入学する。
戦局の変化はまざまざしく、航空学校では、通常2年地上教育をするところを半年で、赤トンボが10か月あるところを3か月という短期間で、戦闘機パイロットと彼はなったのであった。
44年下半期の時勢で、いよいよ日本の戦況は悪くなる中、新米パイロットの彼は、既に型落ちしていた97戦の搭乗員となり、独立飛行中隊所属となった。主な任務は、台湾、沖縄周辺の警戒と護衛になっていた。以後終戦まで彼はパイロットとして任務を行っており、終戦が9月以降になっていれば自分も特攻することになっていたので、恐らく、アメリカのオリンピック作戦に対する抵抗として、特攻していたであろうと彼は回想した。
私が彼に本題の特攻について聞くと、自身のパイロットとなった時期とも重なり、特攻に関する話はうわさとなって聞いていたし、自分の基地からも特攻に行った人を見送ったという。証拠に当時の自分の姿がなんとN○Kの特攻特集の一場面に映っていたのを見せてくれた。ただ、そこで一つ言っておきたいのは、彼が映像に映った時、N○Kの番組では、さも彼が特攻隊員であるような映り方をしていたのは少し違和感を覚えた。
次に私が聞いたのは、航空学校の年数ついてである。流石に教育訓練が短すぎるのでないかと思ったからだ。私の指摘に彼は「確かに短い短すぎる」と答えた。実際、戦後自分が少年飛行兵で、97戦に載っていたというと○日新聞の記者は「そんな事はあり得ない」と答え、当時のパイロットにさえ嘘だと思われたようである。
だが、彼がパイロットであった事実には間違いがない。そうなってくると、彼の訓練期間から考えられることは、時局に対しての国の焦りがあったかということが良くわかってくる。どれほど、パイロットが陸軍であっても減少しており、それこそ、飛べればそれでいいというようなパイロットでさえ、戦闘機隊として用いるという事実である。果たしてそんな状況で特攻に積極的になる動機はあるのだろうかと思った。
そしてここも重要なのだが、パイロット達も時局の急に対応出来ておらず、隊員たちでさえ、情報が正確に伝わっていないということになる。これは即ち、当時の隊員達の認識に食い違いが発生しているということであり、組織的な統率の中にあるにも関わらず、多様な状況が基地或いは中隊で存在していたということになるのである。
(だから、特攻隊員に対する証言の統一的見解は不可能なのだ。まあ、これは先の大戦後期では全般的に言えることだと思うが……。)
そして私は、特攻隊員への志願やその心情についてどう思うのか、確信を彼に聞いてみたのだ。
彼は先ずテレビや本などで紹介されている一般的な認識とは、自分の体験した特攻の考え方が違うんだと語り出した。
先ず、隊員の志願に対しては、決して悲観的なものではなかったというのである。私もこれには驚いたのだが、彼に言わせると、そもそも隊員として思っていたことは、国に対してどう自分が奉公できるのかという考えが根底にあったから、例えその作戦で自分が死ぬと確実に解っていても拒む理由はなく、むしろ、敵に被害を与えることができるチャンスであると考えていたというのである。
私は流石に、いやでも、個人個人では違うんじゃないかと言ったのだが、そうすると彼は、少なくとも自分が見た中隊や基地では悲観的になっている隊員はいなかったと言うのである。なぜなら、そもそも特攻は志願するにも倍率が高く、後家になる人がいれば出来ないし、特攻が嫌な隊員は立候補しなかった。というのである。特攻隊員になったとしても、最後ということで慰安所などでも厚遇され、自分が国に奉公できるまたとない機会なんだといった。だから同時に、特攻隊員の心情は全く悪くなかったというのである。それは、他の基地でもそうだったらしいのだ。
私は交流を終えその後考えて見たのだが、先ず志願に関しては陸軍ではそうだったのだろうが、海軍ではまた違った状態なのではないかと思ったのである。何しろ、隊員の認識がバラバラなのだから、もしかしたら、強制的な志願というもの存在していたのではないかと考えられるからだ。しかし重要なのは、特攻の「全体的な空気」として、強制は無かったということであり、隊員自身も悲観的ではなかったということは確実に言えるのだ。これは、一般的な認識とは随分変わってくると思えた。
そしてもう一つ言えることは、どうも今の日本人と昔の日本人には認識の違いがあるという事である。彼は特攻に対して、自分が国に奉公できるまたとない機会だと言っていたが、これは滅私奉公という考え方である。つまり、個人より世間や社会が大きいということであり、決して今の時代のように個人が拡大している状態ではない。そして、公というのが自分の親類や家族に始まり、それが大きな意味で国家というものを指しているのであれば、蛇足だが、生存圏というものに必死になった戦前が理解で出来るようになるのである。また、特攻に少年が多かったのは、そういった「熱」に酔って行動できるからなのだ。これは世界でも老人が戦争に行かない理由のひとつである。
しかし、それでも今の日本人には特攻は理解できなく、悲観的に思えるのは何故だろうか。これはおそらく、戦後に日本に入って来た新しい権利という考え方にあるのだと思う。
私達が何気なく、命が大事だとか個人が大事だとか思っていて、戦争は嫌だと思っているのは、これが作用しているからである。だからこそ特攻に対して、悲観的なものの見方や否定的な見方をして、客観的にとらえることができないのだ。このことが身近に感じたいなら、この季節の邦画を見てみるといい。必ず個人の主観を出して、直接的な表現は控えており、戦前に対して素直な客観的な見方が出来ていないではないか!!
だが、どうも戦後の日本人は新しくやって来た権利や戦前、戦争で本質的に学んだ経験ついてよく理解出来ないまま鵜呑みにして、考えようともしなかったのではないかと思う。それが、日本の社会問題となって出てきているのではないか。
亡霊か……はたまた、我々が止まっているだけなのか。
私の心の中にこの交流からモヤモヤが発生し始めた。
まとめられていないですが、とりあえず交流して思った事を書いてみました。
……そのうち、読みやすくなるように改稿していこうと思います。