Ⅴ
名前を呼ばれて、目が覚めた。
重なったままだったヒトミの柔らかな胸が、少しできていた隙間を再び埋める。初めて抱いた時よりも肌に馴染むようになった身体に、腕を回す。
手先を動かし指を這わせた途端、ぺしん と頭をはたかれた。
「まだしたいの」
「したい」
「お盛んだね」
「いつ衰えるかわかんねえじゃん」
「もう遅いよ、あたしは」
「諦めるな。子持ちのアラフォーでも需要はあるさ」
「あんたに言われてもなあ」
そう言って離れようとした身体を、逃がさないようにもう一度引き寄せる。
「需要、あるよ」
「あげないよ」
本気の混じった軽口を叩きあって、それから結局、もう一回抱き合った。
ヒトミが眠ったのは、朝方になってからだった。
「ハジメー!おきろー!」
肘を立てて横向きに寝そべっているところに、馬乗りは勘弁して欲しい。しばらく抵抗せずになすがままにさせておき、不意打ちで両脇を思い切りくすぐってやる。笑ってるのか嫌がってるのかどちらともつかない甲高い声が、早朝のベッドルームに響いた。
「はいはいそこまで。早く着替えて顔洗わない悪い子にはご飯なしだからねー」
子どもの黄色い声よりもさらにでかい、キッチンからのヒトミの大声が届く。先行け と、しわくちゃのシーツにくるまったチビを助けてやり、床に放られていたTシャツに袖を通しながら、ベッドルームを出る。
「重くなったな。ヒロキ」
「給食毎日おかわりしてるって」
「いいことだ。食えるうちに食えばいい」
「親爺くさ」
「親爺だよ。食いたいもん食ってたら、即脂肪に変わっちまう」
「では、そんなハジメくんのために」
テーブルに並べられた朝食は、玄米に豆腐と葱の味噌汁、卵焼き、名前はわからないが何か味付けをして焼いてある魚、それにヨーグルトという、極めて典型的な健康志向の飯だった。
「うん、美味そう」
「ご飯の前ではやけに素直だね」
「当然」
「現金だこと。どうせ一人の時はろくなもの食べてないんでしょ」
「食ってるよ。作ってはないけど」
「体型維持したければ自炊と運動。それか、毎日ご飯作ってくれる人見つけることね」
笑えない冗談をぶちかましながら、ヒトミはテーブルの向かいの席に座る。隣の椅子には、顔を洗って髪の毛まで濡らしたヒロキがよじ登ってきた。
「では、みなさんごいっしょに」
ヒロキの音頭で、いただきます と三人で声を揃えた。
「ねえ、ハジメ」
「ん?」
「パパに会いたいっていったら、ママおこると思う?」
ノートパソコンのキーボードを叩く俺の横で、算数の宿題のドリルを解いていたヒロキが不意に尋ねてきた。手元を見なくてもコードを入力するのは朝飯前だったが、さすがに手を止めずにはいられなかった。
「会いたいのか」
うん と頷くヒロキは、鉛筆の先を指で弄っている。俺の目を見ないのは、子供なりの遠慮なのかもしれない。
「じゃ、行くか」
「え?」
「知らなかったろ。おまえの父ちゃん、俺の友達なんだぞ」
「ほんと?」
「待ってろ」
母親似の目を輝かせながら、ヒロキは立ち上がって俺の肩にひっついてくる。片方の手でそいつを捌きつつ、もう片方の手で携帯を操作し、ひどくご無沙汰な番号を呼び出した。
「パパ!」
全速力でぶつかっていったヒロキを、作務衣に下駄履きという十数年前と変わらない出で立ちの親父は、軽々と抱き上げた。
「悪いな、こんなところまで」
「いや。なかなかおもしろい旅だった」
ユウタの工房のある山の麓の小さな村までは、東京から電車で約二時間半。週末ではあったが幸い車内は別段混んでおらず、携帯に入れたアニメソングをお供にしたいい年の親爺とガキの二人旅は、至って順調なものだった。
「こっちこそ悪かったな。いきなり電話して、押しかけちまって」
「ヒトミはなんて?」
「なんも。まだ撮影続いてんだろうな。ヒロキと飯食ってくるってだけは送っといた」
ユウタとヒロキが会うのは十ヶ月ぶり、去年のヒロキの誕生日以来とのことだった。ユウタが案内してくれた小さな飲み屋で、若い頃と同じように、熱燗を片手に過ごした。
「パパとハジメは、なんで友達なの?」
林檎ジュースのストローでぷくぷくと泡を作りながら、ヒロキが尋ねてくる。久しぶりの父親との再会が嬉しいらしく、ここに来てからヒロキのテンションは高いままだ。
「高校が同じだったんだ」
「同じクラス?」
「ああ」
「ママも?」
「そうそう」
「じゃあ、ママモテモテだ」
「へ?」
「だって、パパもハジメも、ママ大好きじゃん」
ヒロキの一言は、大の男二人を腹の底から爆笑させるほど破壊力に満ちていた。ぽかんとする当の本人をよそに、俺とユウタはバカみたいに、しばらくの間笑い続けた。
「誰に似たんだよ、さっきのあれ」
「ヒトミだな。俺はあんなに直球じゃ言えない」
テーブルの上の熱燗の空き瓶は増え、ヒロキはソファ席でユウタの羽織にくるまって寝息をたてている。時計の針は二十一時十分前、終電までには、まだ少し猶予があった。
「たしかにあの顔、まんまあいつだ」
「見てるのか」
「毎晩って言ったら、どうする」
時は過ぎて、俺たちは変わった。
犠牲にしてきた時間の代わりに手に入れたものは俺たちを豊かにし、失くしたものを懐かしむ余裕をもたらした。
「どうもしないさ。ヒトミが思うままにしていれば」
「おかげで俺は振り回されっぱなしだ」
「惚れた弱みってやつだ。諦めろ」
「経験者は語る、だな」
七年前から、こいつらの関係は変わっていない。生活をともにせず、互いに依存せず、そしてヒロキの親として、必要な時には時間を共有する。法律や世間体など、こいつらを縛る鎖以外の何物でもない。
「おまえはうまくいってるのか」
「それなりに。フリーランスっつっても気楽にとは言えないけどな。今日だってこうやって臨時の子守だ」
「悪いな」
「子守しながらでもコーディングはできる。おまえはそうはいかないだろ」
「それができてたら、とっくに東京に戻ってる」
修行が足りてない などと仙人めいたことを抜かしながら、ユウタは猪口を煽る。
「今でも思う。あの時東京に戻ってたら、自分の弱さを言い訳にしないで全部を背負う覚悟ができてたら、今とはまた違った作品を生み出せてたのかもしれない」
静かに眠る息子を眺めるその表情は、父親の顔だった。その口が、自嘲気味に歪み、笑う。
「結局、仕事が最優先になっちまうんだな。俺は」
俺にはないすべてを手にしたこの男が望む高みを、想像することはできなかった。空になっていた猪口に、酌をする。
「いいんじゃないか。それで」
ヒトミが惚れたのは、こいつの、ユウタの、どこまでも上を見上げ続ける強さなんだろう。
「あいつも闘って、おまえも闘う。それがおまえらの理想だったんだろ」
俺には上れないステージで、俺には思い描けない景色を見るために、あがき続ける。
そうやって、これからも生きていくのだろう。
「ありがとうな」
別れ際、律儀に握手なんて求めてきたユウタに、少し躊躇いながらも応じた。その上に、ヒロキの小さな手も重なる。眠いせいか、子供の手のせいか、やたら温かく感じた。
「がんばってね、パパ」
よく似た二つの笑顔が、暗い道の街灯に浮かんだ。互いの姿が見えなくなった頃、カラン と下駄の音が、夜道に響いた。
「で、いくら使ってきたわけ」
相変わらず色気もクソもなく金色の短髪を音をたてて掻きながら、ヒトミがベッドから出ようと起き上がる。寝そべったまま煙草をくゆらせてるせいで、視界が薄く曇っていた。
「いいよ。飯代はユウタと割り勘だったし、電車賃だって大した額じゃないし」
「売れっ子プログラマーには大したことなくても、あたしには大金だよ」
「だったら尚更いいじゃんか」
短くなった煙草を灰皿でもみ消し、細い腕を引っ張って強引にベッドの中に連れ戻す。煙に代わって、汗と石鹸の香りが狭い空間に充満する。
「その代わり、明日また朝飯食わせて。それでチャラ」
「明日は適当だよ。休む気満々なんだから」
「いいよ。どんなんでも」
腕の力を少し強めると、ヒトミの腕も背中に絡みついてきた。手のひらが、指が動き、腰の刺青をなぞる。同じように、俺もその柔らかな腰の蝶たちを撫でる。
「ねえ、ハジメ」
「ん?」
「次は、いつ来る?」
「わからん。明後日からのプロジェクトがどんなかによる」
「長いの?」
「長くはない。うまくすれば在宅で済むかもしれない。そしたらまた、来ようとすりゃ来れるよ」
そう と呟き、ヒトミは目を瞑る。腕を緩め、小さい頭と肩を抱き直した。
「今度はさ」
「おう」
「一緒に行こうよ。ユウタんとこ」
「おう」
「そんで、あたしも、昔話に入れてよ」
おう と少し遅れての返事に、応えはなかった。俺の腰を抱いたままの手からそっと抜けて、眠るヒトミの横に、仰向けに寝転がる。
この距離が、感触が、この時間の共有だけが、俺にあって、他の誰にもない全てだ。
他に、何を望む?
誰のものにもならず、何にも縛られず、だけど懸命に羽ばたきながら蜜を集める蝶のような、この美しい友人。
飛び続けて疲れたときだけ、俺の隣で眠ればいい。
飛べない俺の元へ降りてきてくれる君を、いつまでも、空を見上げて待っている。
Inspired by-
映画「STAY FRIENDS」
谷崎潤一郎「蓼食う虫」
Special thanks-
風舞 空/そらたん ID:91256
読んでくださった皆さん
ありがとうございました。
※この作品は「文学フリマ短編小説賞」応募作品です。
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