Ⅳ
おかしくなるくらいに熱いの空間の中で、ハジメの噛み殺した声を聞いた。
その、私とは違う筋肉質な男の身体に乗っていると、よく見える。ちょっとだけ苦々しくて、でもすっきりしたような顔は、私の好きなあの表情と同じ。
火照った身体を、ハジメの広い胸に重ねる。浅く呼吸する唇を舌先で舐める。キスはしない。
「ヒトミ」
「なに?」
うっすらと開いた瞼の隙間に光る目は、仮面を取っ払った男の眼差しだ。身体の芯が疼くくらいに、好きな目だった。
「俺さ、決めたわ」
「なにを?」
首筋に伸ばした指が捕まり、かわりに、ハジメの指が私の髪に絡む。瞬きする間もなく、力任せに頭を引き寄せられた。
「結婚。やっぱ、しない」
顔を見せないようにしているのはわかっていた。そう とだけ返し、掴まれていた指を抜け出して短い髪を撫でる。自分まで泣きたくなったのを、肩に伏せて堪えた。ハジメの方が、泣きたいはずだった。
「泣く?」
茶化したつもりだったのに、ぎゅっ と抱きしめられた。顔を見ないまま、子どもにするように、頭を撫で続けた。
「ひどい顔。どうしたの」
灯りがついているのが見えた時点で浮かんだ予感は、的中した。タンクトップにショートパンツというなんとも気楽な格好の母親の姿に、柄にもなくほっとしてしまった。
「ママこそどうしたの。リュウジさんは?」
「出張。いいでしょ、居ても」
「いいよ」
ママと呼ぶようになったのは、再婚して落ち着いた母親への、一応の敬意のつもりだ。お相手のリュウジさんは、六十を過ぎても世界中を飛び回ってバリバリ働いているやり手で、今回はブラジルで鉱石を掘ってくるとのことだった。
冷蔵庫で冷やしておいたビールとチューハイを抱え、テーブルに並べた。あたしも飲むー とユリコがはしゃぐ前に、缶ビールを一気に半分以上開けた。喉を流れたアルコールを飲み込み、奥に押しやられた空気と声を吐き出した。
「親父くさい」
「知ってる」
「振られたからって、女捨てたら終わりよ」
ユウタと終わったのがバレたこと以前に、振られたことまで見抜かれていたのが、我が母親ながら恐ろしかった。涙でぐちゃぐちゃになった顔は、自棄になって帰り道の公園で思いっきり水で洗ってきた。中途半端に残ったメイクがどろどろになっていようが、知ったことじゃなかった。
「長かったわねえ。五年?」
「長かったなあ」
ビール半分で酔っぱらうなんて情けない。そんな風に頭の片隅で思いながら、つらつらと、口をついて出て来るままに、浮かんできたことをひたすら喋った。
人の心を震わせたい。
手段は違っても、同じ想いを持って今日まで生きてきたお互いに惹かれて、好きになって、一緒の時間を過ごした。
会えない寂しさも、一番になれない悔しさも、ちょっとしたズレも、全部、ユウタとじゃなきゃ、想い出にさえならなかった。
さよならは、辛くなかった。
涙が出てくる理由は、一つだけだった。
「私と一緒にいたら、ユウタは私の好きなユウタじゃなくなる」
結婚が、一生傍にいて支え合うっていう誓いなら、ヒトミと結婚したいって考えたこともあるよ
だけどそうしたら、ヒトミは多分、今の、高校の時から変わらない、俺の好きなヒトミじゃなくなると思う
俺は多分、そんなのには耐えられない
ヒトミを好きでいられなくなるのが、怖い
口数も少なくて、自分のことを滅多に話さないユウタが、言葉を選んで、正直に、ゆっくりゆっくり話してくれた。
言えなかった。
何もできなくても、鬱陶しがられても、どんなに辛い時でも傍にいる なんて綺麗な嘘は、つけなかった。
「こんな細い筆で、めちゃくちゃ真剣な目で、小さい茶碗とか、鏡とかお箸とかに、細かくて、すっごく綺麗な絵を描くの」
最後に とユウタにもらった小さな箱を、テーブルの上に出した。私の腰に刻まれているのと同じ二匹の青い蝶が、黒塗りの蓋に舞っている。蓋の中で、初めてお揃いで買った、大きさの違う二つの指輪が、リビングの灯りに光る。
「笑っちゃうよ。おんなじこと思ってたのに、一緒にいられないなんて。本当、バカ」
私も、ユウタも。
「バカすぎるよ」
「だから、好きだったんじゃないの?」
握ったままだったビールの缶をするり と私の手から奪って、ママが言った。
「で、綺麗さっぱり別れるの?それとも、友達として末永くお付き合いするの?」
「友達になんか戻れないよ」
「じゃあ、これっきりで会わないんだ」
「そんなのやだ」
「めんどくさい子ねえ」
「嫌なところとも弱いところも散々開けっ広げに見せてきて、じゃあこれからは友人として清いお付き合いをしましょう なんて、割りきれる?」
「それ、セックスのこと言ってるの?あんた」
「よく娘の前で平気でセックスとか言えるよね」
「実際どうなのよ。もう友達じゃいられない とか思ってる訳?」
ユリコの手から奪い返した缶は、もう空っぽだった。
「時間が経てば、そうなるかも知れない」
「今は?」
「モトカレ」
自分の声の渇き具合に虚しくなる。
昨日までだったら、カレシ。
私達の五年間は、たった一言、「別れ」を口にするだけで、終わってしまう関係だった。
「友達に戻るって、今までのことを全部なかったことにするみたいで、嫌」
「ほんとめんどくさいわね」
ユリコが新しい缶を渡してくれた。知ってるよ という自嘲を、温くなりかけたビールと一緒に飲み干した。
不快なバイブ音で、意識が戻った。木製のテーブル伝いに響いてくる着信の通知だった。ユリコはいない。ディスプレイの表示を見て、無言で電話に出る。
「俺」
「うん」
「ユリコさんから聞いたよ」
「何を」
「ユウタとのこと。おまえの携帯で、電話かけてきた」
あのクソババア。躊躇なく吐いた暴言にも、ハジメは笑いもしなかった。
「酒入ってたっぽいから、全部は信じてない。おまえから直で聞きたい」
「なんで」
「おまえのことだから」
言葉の前に、涙が出てきた。
次に、小さい子みたいな、情けないくらいの泣き声が出た。ユウタの前で出し切ったはずの涙が流れてくる。震えている手で耳に当てている携帯電話が、温かかった。
嗚咽が邪魔する声を振り絞って、何回も、ハジメの名前を呼んだ。ハジメはその度に、うん とだけ応えた。
電話でよかった。
こんな顔、あいつにでさえも見せられない。
ごしごし目を擦った矢先だった。
「なんで」
「だから、おまえだから」
電話を片手に部屋の入り口に立っていたハジメは、部屋着らしいスエット姿だった。いつもはコンタクトの目元には黒縁の眼鏡をかけていて、髪もぼさぼさなのが、涙の向こうでもわかった。
「ユリコ?」
「部屋の前でな。今日はホテル行くからってさ」
ハジメが指先に掲げたのは、熊のキーホルダーのついた、ユリコに渡してある合鍵だった。悪態をつく気すらも起きなかった。
「ひっでえ顔」
「うるさい」
「こりゃあ、人前じゃ泣けない訳だ」
「バカにしに来たんなら帰れ」
「いいから、泣いとけ」
ただでさえぐちゃぐちゃに乱れていた髪を、もっとぐちゃぐちゃに撫でられた。いつも一緒だったあの頃も、時々こんなふうにしてくれたことがあった。今よりも短かった髪を無遠慮にかき回されるのは、嫌いじゃなかった。
電話口で泣きじゃくったみたいな声は出ず、涙だけが、熱くなった目から溢れた。散々泣き腫らした目も顔も、もはや隠す必要なんてなかった。泣かない なんて頑なに意地を張っていた自分が、バカらしいのを通り越して愛おしく思えた。
つまった鼻腔に、煙草の香りが染みてきた。顔をあげた先で、ハジメがふうっ と煙をたなびかせていた。
一人じゃ何もできなかった頃、ママがとっかえひっかえ連れてきた男の、煙草の匂いが大嫌いだった。この匂いが部屋に渦巻いているうちは、ママはあたしのことなんてどうでもいいんだ。そんな風に、子どもながらに思っていた。
大人になって、味を知って、ユリコはこの香りに安心していたのかもしれないと気づいた。毒でしかなかったそれは、いつのまにか、愛しくさえ思うような麻薬になっていた。
その麻薬の味を私に教えた男は、ちゃんと知っている。
こんな時は、抱き締めてくれる腕も、縋る胸もいらない。
ただ同じ空間で、同じように息をしてくれていればいい。
下を向いて泣く私の隣で、ハジメは何も言わないまま、ゆっくり、静かに呼吸を繰り返していた。
ハジメが何本目かの吸い殻を灰皿に押し付けたのと私が最後の一枚のティッシュを箱から引き抜いたのが、ほぼ同時だった。最後に思いっきり鼻をかみ、あー と、腹から声を出した。
「もういいの」
「うん、いい」
そうか と椅子から立ち上がったハジメの、服の裾を掴んだ。
「帰っちゃうの」
「いや、もう電車ねえし」
「どうすんの」
「どうしよ」
「寝る?」
「そうだな」
「一緒に」
「いいよ」
そのまま何秒か経って、私も椅子から立ち上がった。シャワー浴びてくる と残してバスルームに向かおうとすると、宙に浮いていた手首を掴まれた。
「いいよ、そのままで」
「やだよ。煙草臭いし汗臭いし」
「お互い様だろ」
その一言に、妙に得心がいった。
「そっか、お互い様か」
「そうだよ」
「これからずっと?」
「今までもそうだったろ」
間近だと見上げないといけない身長差が、もどかしくて、同時にほっとした。
同じ目線ではいられない。
ユウタといた時は、それが寂しかった。ユウタにしか見えない世界に、私はどうしても追いつけなかった。
それが、ハジメといると、純粋な興味が尽きなかった。追いつけなくても、一緒に分かち合えなくても、ハジメがそこでちゃんと生きていてくれれば、それでよかった。たまに楽しそうに話してくれて、おまえはどうなんだ って、私の話を聞いてくれれば、それだけでよかった。
そんな私達の間が、裸で絡み合ったくらいで変わるなんて思えなかったし、思いたくもなかった。
ただもっと、知らないハジメを知りたいと思った。
「眠い?」
「全然」
「寝れないでしょ」
「無理」
スカした仮面の隙間でぎらつくのは、初めて見る男の目だった。
激しくて愉しい、ゲームの始まりだった。
抱かれるときの自分の声は、嫌いじゃない。
「痛いか」
「痛いよ、バカ」
煙草を始める前から低くて鼻にかかっていて、コンプレックスでしかなかった声が、嘘みたいに甘ったるくなる。初めてのときに、私でもこんな声が出るんだな なんて分析できたくらいだ。
最初はお互いを撫でるように、ゆっくりじっくり探りあった。一旦いいところがわかると、あとは痛みも傷も躊躇うことなく、噛みついて、吸って、舐めて、責めて、全部を出した。
思考をまともに保っていられたのは最初だけで、そのあとは容赦なく飛ばされた。悔しくて、私の方も思いっきり時間をかけて、焦らしてから、飛ばしてやった。
一通り終わって、乱れきったベッドの上で、二人で寝そべったまま、腹の底から爆笑した。ムードもへったくれもないまま、私はハジメの、ハジメは私の身体やテクニックのそれは無遠慮な品評をし、それから少し、真面目な話をした。
「ハジメさ」
「ん?」
「今、何考えてる?」
「煙草欲しい」
何年経っても変わらない十八番は健在だった。私の意図なんてお見通しなクセに、わざと全然違う答えを寄越してあしらおうとする、タチの悪い優しさ。
脱ぎ捨てられていただぶだぶのスエットを頭から被って、小股で十歩程のリビングに煙草を取りに行った。さっき散々染み付いたのと同じ、ハジメの匂いがした。放置してあった煙草をライターで灯して一息吸い込み、横になっていたハジメの口元に差し出す。
「今、これあげるって言ってたらどう思う?」
「ありがと」
「もう一回しようって言ったら、する?」
「いいよ」
「じゃあ、あたしと付き合おうって言ったら、どうする」
煙草を挟んだ指が、口元で止まった。その手をとって、代わりに唇を近づけた。至近距離で目を見張ったハジメの、薄い唇を奪う寸前で、呼吸と一緒に止めた。
「あたしはやだ」
もう、泣く訳にはいかなかった。
「ハジメとは付き合いたくなんてないし、結婚もしたくない」
そのまま、背中に回した腕をぎゅっと強めた。
「ハジメとまで、あんな思いしたくないよ」
なかったことになるくらいなら、始めなければいい。
「ずっと、このままでいたい」
泣く と思った瞬間、頭の後ろに手が置かれた。あやすようにリズムを刻むその手と一緒に、ハジメはゆっくりと喋り始めた。
「俺は、高校の時から、ずっと同じこと思ってたよ」
突然の激白に頭をあげようとすると、ぎゅ とその手に力が入って動かせなかった。諦めて目を瞑り 、間近で響くハジメの声を聞いた。
「あの時はガキだったから、口にしたら終わると思ってた。ヒトミが俺を恋愛対象に見てないのなんてわかってたし、逆に俺自体、おまえと付き合いたいのかただやりたかっただけなのかわかってなかったし」
取越し苦労だったけどな とハジメは肩で笑った。頭は離してくれないままだった。
「さっき、何考えてるって聞いてきたろ」
「うん」
「女だったんだな と思ってた」
「あたしが?」
「自分がなわけねえじゃん」
「なんだと思ってたわけ、今日まで」
「ヒトミはヒトミだろ」
「じゃなくて」
反発しかけたのを、また黙らせられた。今度は、キスでだった。
「パートナー以外と抱き合っちゃいけないなんて、誰が決めた?」
すぐに離れた唇が、にやっ と笑った。そのまま立ち上がったハジメは、短くなった煙草を口に運び、再び私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「おまえは、ずーっとおまえだよ」
そう言って笑ってみせた二秒後に、便所貸して と残して素っ裸のままハジメは背を向けた。格好つかないな と、その後ろ姿にかけようとした声が、はっ とつまった。
薄い月明かりに、二匹の青い蝶が照らされた。
私の腰で踊る蝶々たちが、ハジメの背中にも、同じように映っていた。
今度こそ、泣いた。
いつか外れる指輪よりも、思い出に変わってしまう宝物よりも、ずっとずっと鮮烈で、綺麗だった。
戻ってきたら、今度はこっちからキスをしてあげよう。
そんなふうに思いながら煙草を一本取り出し、深く深く、吸い込んだ。
悲しいときに傍にいて、楽しいときは一緒に笑う。
寂しいときは、抱き合って傷を舐めあって、満ち足りるまで愛してあげる。
それ以外、不確かな未来も、意味のない束縛もいらない。
私達の関係にも、この想いにも、名前なんていらない。