Ⅲ
「なんか、痩せた?」
上掛けの中で、ヒトミが俺の腹から腰の辺りをまさぐるように撫でる。さっきまで背中に立てられていた長い爪が、肌を這う。
「先月くらいから、また走り始めた」
無節操に動き回る手をひっ掴まえて、大人しくさせた。代わりに口元の煙草を灰皿に押し付け、空いた方の手でその柔らかい肌を撫でる。
「おまえは少し腹出たよな」
「マジで?運動しなきゃ」
「もっかいするか」
割と本気で提案したにも関わらず、どスケベが と手の甲をつねられた。
大学を卒業してから、ヒトミと会う回数は目に見えて減っていた。最後に会ったのは、俺の就職祝いと称して飲みに行った時だった。ヒトミの進学が決まった時と同じように、俺たちは朝まで飲んでいた。
寂しいとは思わなかった。手のひらサイズのディスプレイを通せばいつでも話せたし、声だって聞けた。言葉を交わし、顔を見ることなんてなくても、小さい画面と数文字のアルファベットで繋がるだけで、なんとなく傍にいる気がしていた。
だから、気づかなかった。
俺は、とんでもない間違いをおかしていた。
その日、普段メルマガで埋もれる携帯電話の受信ボックスに、一通のメールが届いた。高校卒業後、進学せずに東京を出た、数少ない友人のひとりからだった。七年振りに実家に帰るから会えないか と綴られていた。
山奥の工房で修行していたと言うそいつ、ユウタは、俺以上に喋りを好まず、内心が読めない奴だった。それでも、ユウタが卒業式の日に呟いた「職人になってくるわ」の一言で、俺はその秘められた熱さの予感が間違いじゃないことを悟っていた。ユウタも、俺のことを過剰に干渉せず、でもなんとなくウマの合う奴と認識していたらしい。おまえと飲む酒はうまいだろうな なんて老けた台詞を、その夜の電話口でもらした。
酒と言えば と俺はそこで、ヒトミの名前を出した。
「あいつも相当飲むぞ。ひどい時は俺より」
「おまえら、まだ続いてるのか」
高校時代からうんざりするほど言ってきたのに、こいつはまだ勘違いしてるのか。そう思うと、大袈裟ではなく盛大に噴き出してしまった。
「だから、ハナから続くもなにもないって」
「会ってはいるんだろ?」
「最近はあんまり。あいつもそろそろ男見つけたんじゃないか」
「それじゃ、マジで付き合ってないのか」
「全然。昔とおんなじ。飲んで、駄弁るだけだよ」
「あれからずっと?」
「ずっと」
そうか と呟いたユウタが何を考えていたのか、俺は知ろうともしていなかった。結局、ヒトミも誘って三人で飲もうという話で、その日の通話は終わった。
一番最初に潰れたのは、ヒトミだった。
特にこだわりなく気分に合わせて飲む俺とも、とにかくひたすら量を飲むヒトミとも違い、ユウタは強い酒をゆっくり、だけどペースを崩さずに飲むタイプだった。いつもの調子で互いの近況や、思い出とも言えないような高校時代の話で盛り上がっていたら、いつの間にかヒトミはテーブルに突っ伏して、暢気に寝息をたてていた。
「ヒトミ」
肩を揺すっても、弱点である首の後ろをくすぐっても、僅かに眉をしかめるだけで応えなかった。
「いびきかいてるよ、こいつ」
「そんな飲んでる風には思えなかったけど」
「多分、勝手におまえと張り合って強い酒飲んでたんだよ」
「俺と?」
「初めて飲みに行った時もそうだった。無意識なんだろうけど、俺のペースに合わせて飲んでて、いつの間にか寝てたよ」
大丈夫 を連発しながら頬と首を真っ赤にしていた、少し幼い笑顔と寝顔が浮かんできた。
「大丈夫なのか」
「そのうち起きるよ。放っとこう」
俺の提案にユウタも賛成し、野郎二人での飲みとなった。
「七年か」
呟いたユウタが、徳利を持って俺に酌をした。口に運んだそれは辛口で、一飲みして俺は猪口を置いた。
「おまえが職人になって、ヒトミが洋服作って、俺がスーツ着て会社通いして。全然想像してなかった」
「七年前を昔って言えちまうのが、なんか変な感じだ」
「その割に、時間が経つのが速いんだよ。ついこないだまで制服着てた気分」
高校時代の友人とサシで飲むのは、ヒトミを除いてはユウタが初めてだった。七年前に別々の道を選んだ俺たちは、片方はスーツの上着を脱いでネクタイを外し、もう一方は、濃紺色の作務衣に下駄履きという出で立ちで、こうして酒を酌み交わしている。顔も合わせなければ話すらしなかったこの七年が、なかったことのように同じ空間にいる。違和感を覚えるほどに、自然な感覚だった。
「わかる。時間は過ぎたのに、思い出してみると遠くない」
「いつのまにか って言うと大袈裟だけど、年取ってるんだな。やっぱ」
「でも、おまえらは全然変わってない」
おまえが変わったんだよ と返そうとして、やめた。ユウタの目は真剣で、俺じゃなくて、もっと遠くを見ていた。
「十八でこの街を出てからろくに人と会わないで、毎日毎日自分の作品を見て、細い筆を動かして生きてきた。ようやく、少しずつ自分の仕事に誇りを持てるようになった。だけど、その分手に入れられなかったものだってある」
小さく笑みを浮かべて、ユウタは酒をあおる。
「おまえらと今日会って、安心したのと同時に嫉妬した」
「嫉妬?」
「ハジメは、ドライに思える割に広く、深く周りを見ている。それに、ヒトミも」
ユウタの、その暢気な寝顔を見つめる眼差しを見て、悟った。
「あの頃のままだ。おまえたち、二人とも」
「おまえは」
口に出してから、一瞬だけ躊躇った。でも、止めなかった。
「ヒトミに、会いに来たんだな」
ああ と、ユウタは笑った。
「七年かけて、ようやく人に見せられるような絵を塗れるようになった。だけど、まだまだ一人前には程遠い。この先を考えると、道どころか足元さえも見えない日もあった。そういうときには、決まっておまえたちのことが頭に浮かんでいた」
「俺もか」
「おまえもだよ。常にセットでついてくる」
俺たちが、俺とヒトミが、第三者からどのように見えているのか、考えてきたことはあった。恋人に間違われるたびにうんざりし、ネタにして、笑い飛ばしてきた。そんな俺たちの関係を、ユウタは理解しているものだと思っていた。
「こないだ電話で話してヒトミの名前がおまえの口から出たとき、やっぱ敵わない って思ったんだ。おまえたちを繋いでるのは、友情なんかよりもっと強い何かなんだって、そう思った」
「だから、俺たちは」
「わかってる。それでも、おまえらがどんなに否定しても、俺の入る余地なんてない」
呟いたユウタは天井を仰ぎ、席を立った。下駄がカラン と鳴った。制服やスーツよりも、ずっと似合っていた。
「今更おまえたちの関係にどうこう言う気はない。ただ、ひとつだけ、伝えておきたい」
ヒトミを見つめるユウタの目は、俺にはできない目だった。そして、俺には言えない言葉を残して去っていった。
「もういいだろ、狸寝入り」
「うん」
「いつから起きてた」
「あんたが、ユウタにあたしに会いに来たのかって聞いたところ」
頭を起こしたヒトミは、今まで見たことのない顔で笑った。
「ばかだな、ユウタ。あたしに直接言えばいいのに」
「だったら、寝たふりなんかすんな」
いつもなら間髪入れずに返ってくるはずの切り返しはなかった。代わりに、ヒトミは潤んだ目でじっと俺を見た。
「どうしよう」
「ん?」
「今、めっちゃ嬉しい」
「うん」
「まだ、間に合うかな」
「行ってこい」
それ以外に、何も言えなかった。頷いたヒトミは立ち上がって、大きく息を吐いてから再び俺の方に向き直った。
「行ってくる」
「おう」
「ハジメ」
「ん?」
ふわり と、甘い匂いに包まれた。いつもと同じ香水が、いつもより近いところで香っていた。肩に埋まった髪を撫でた。柔らかい、女の髪だった。
「ありがとう」
耳元で響いた声が自分が気にしているより低くないことも、マスカラなんて塗らなくても睫毛が長いことも、わざとピアスをはずして穴をふさいだことも知っていた。少し動けば唇が触れそうな至近距離で、泣きたくなったのを堪えた。とっくに割りきったはずの後悔を、唇と一緒に噛み締めた。
「ありがとうね」
言って、ヒトミは小走りでユウタの通った道を追っていった。
廊下の角を曲がった背中を見送ってから、残してあった酒を一気に飲み干した。辛口だったはずのそれは、さっきより甘い気がした。
何日かあとに、ヒトミから電話がきた。俺たちの間であれから特に変わったことはなく、やはりSNSで他愛ない会話をかわしたりはしていた。それは電話口でも変わらず、くだらないバカみたいな話も、社会情勢に関するようなマジメな話もした。
喋り倒して、携帯のバッテリー残量通知の電子音が鳴った頃、電話の奥から聞き慣れない女の声が聞こえてきた。ヒトミの名前を呼ぶその声に、うるさいな とため息混じりでヒトミが応える。
「ユリコ。帰ってきてるの」
「いいのか、電話してて」
「いいよ。散々飲んだあと寝ちゃってたんだから」
げんなりしつつもまんざらでもでもなさそうなのは、声だけでよくわかった。話してやれよ と告げて電話を切ろうとしたときだった。
「もしもーし、ユウタ君?」
ヒトミよりもハスキーで、でもゆったりとした声が、俺じゃない名前を呼んだ。続いて空気が電話口にぶつかったような音と、返して と不機嫌なヒトミの声が、少し遠くで響いた。
「ユウタじゃないから。ハジメだよ」
「さっきユウタ君だって言ってたじゃない、彼氏」
「だから、ハジメは違うって言ってんの」
「やだー、あんたもやるねえ」
もういいから寝て と叫びまじりに懇願し、あとでちゃん言っとくから なんて俺にフォローまでしてきたヒトミが可笑しく、同時に新鮮だった。電話の向こうにいるヒトミは、俺の知らないヒトミだった。
「余計なことばっか喋るんだから、あの酔っぱらい」
「久しぶりなんだろ、ユリコさん帰ってくるの」
「また男変わったんだよ。今日会ってきた」
「どうだった?」
「いい人だったよ。お金も持ってるみたいだし、紳士って感じで。物腰が柔らかいというか、上品というか」
「で、ママと恋バナしてたのか」
「ユリコが一方的にね。自分のことばっか散々喋っといて、やっとあたしのターンだと思ったら、寝てるし」
「それで俺に愚痴りにかけてきたってわけ」
「愚痴りにじゃないよ。喋りたかっただけ」
「ユウタはいいのか」
意地の悪い質問だった、と口にしてから思った。そんな俺の内心を悟ったらしく、ヒトミも意地悪く返してきた。
「あんたこそ、トモちゃんはいいの」
「あいつ電話嫌いなんだよ。会いたくなるんだってさ」
「可愛いー。会いに行ってあげなよ」
「言われなくても、相変わらず週二で会ってるよ」
「足りるの?それで」
「あんま足りてない」
アハハッ と笑う声は、いつもの甲高い声だった。
「溜まってるんだ?」
「溜まってるよ」
「大変だねー」
「おまえ、ユウタにもそういうこと言うわけ」
「言わないよ。ユウタとは下ネタ話さないもん」
「おまえがそっち系話さないで、会話続くのか」
「結構いろいろ喋るよ。ユウタもあたしもクリエイターだし?」
俺には無縁の世界だった。疎外感が胸の中で生まれたのを、頭の片隅がやけに冷静に意識していた。
「楽しいだろ、今」
「ちょっと違うかな。いや違わないんだけど、もっとこう、いろんなことを思ったりする」
「いろんなこと」
「ユウタと一緒にいるとすごい楽しいよ。でもそれだけじゃなくて、会えないと寂しくもなるし、あたしでいいのかって不安にもなる」
「そういうもんだよ」
「あんたも、そうだったの?」
「そう、だったな」
言って、気づいた。
出会って、目に留まるようになって、話をしたい、傍にいたいと思うようになった。
それはいつしか自分本位な独占欲に変わり、触りたくて、欲しくてしょうがなくなった。打ち明けて、確かめ合って、自分だけのものにできたと思ったら、今度は会えなくて触れられない時間が苦しくて、離れて過ごす時が、独りが怖くなる。
近くも遠くもない、だけどここじゃない街で暮らす恋人へ感じたこの気持ちを、どうしても、ヒトミに持つことはできなかった。
自問自答なら、何回もしてきた。世の中がいう、愛情ってやつに当てはめてみようともした。愛せないなら、いっそ突き放そうと思ったこともあった。
最初から、悩む必要なんてなかった。
ヒトミも俺も、それぞれ恋をして、毎日を送って、たまにこうやって腹の底から喋って、笑う。それ以上でもそれ以下でもないし、これからも変わらない。
勝手に笑いがこみあげてきた。気持ち悪い とヒトミがからかってきた。電話越しでは小突いてやれないのが、残念だった。
「ヒトミ」
「ん?」
「仲良くやれよ、ユウタと」
少し間を空けてから、ヒトミはうん と応えた。その一瞬で何を思っていたのかは考えなかった。何となく、同じことを思っているような気がした。
「あんたも、トモちゃん大事にしてあげなよ」
「わかってる」
言って、その日の会話は終わった。電源ボタンで切った電話で、すぐに別の番号を呼び出し、かけた。
「ハジメ君?どうしたの」
電話が嫌いと言う割に、長いコールのあとの声はいつも弾んでいた。不意に、好きだと思った。勿論、言葉には出さなかった。
「トモ」
深く呼吸して、恋人の名前を呼んだ。
「今から、会えないか」
腹は決まっていた。決めているつもりだった。
時刻は真夜中十分前。彼女の街まで一時間。
どんよりと曇った夜空の下、逸る鼓動を抑えもせず、走って部屋を出た。