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煙の匂いに鼻をくすぐられて、瞼を開いた。





視線だけで見上げた先には、煙草をふかしながら遠くを見ている横顔が映る。



気づくまで見ていてやろうと思った矢先、流れるように動いた目に捕まった。唇が動いて、何か喋った声が、ぼんやりと耳に届く。敢えて聞き返さず、たばこ と、上掛けの隙間から手を伸ばす。



「ん」



指先に渡されたそれは、つい二秒前までそいつの唇が挟んでいた吸い殻だった。



「ばか」



むき出しの肩をひっぱたいてやる。いてえ と声をあげながらメンソールのパッケージを放ってきたそいつに吸いかけの煙草を返し、新しい一本に火を灯した。





煙草を始めたのは、この男のせいだ。



高校を卒業してから、ハジメは都内の大学の情報系の学部に、私は服飾デザインの専門学校に進学した。不定期ではあったけど、メールやSNSを使って連絡をとりあってはいた。高校時代と同じように映画を観にいったり、カラオケに行ったりもしたし、飲みにも行った。最初は地元の安居酒屋がほとんどだったのが、ハジメが見つけてきたちょっとこじゃれた創作料理屋だったり、やっぱり昔ながらの飲み屋で朝まで飲んだくれたりすることもあった。普段は周りから一歩以上も引いている割に、ハジメは酒が入るとやたらよく喋った。政治論とか、芸術と人間の在り方のような堅い話ばっかりしたがるくせに、最後には眠気に襲われて子供みたいにぐずるのがお約束だった。



専門学校の卒業と四年制の美大への進学が決まった三月、ハジメは祝ってやる と、学生にはとてもじゃないけど不釣り合いなバーに私を連れてきた。



大学に入ってから、会うたびに何となく雰囲気が変わっていくのは感じていた。高校時代には切ってそのままだった髪を染め、ワックスでアレンジするようになった。ファッションも、Tシャツにジーンズしか着てなかった昔とはずいぶん変わって、流行のテイストをさりげなく取り入れるようになっていた。



「おまえが言うなら、そうなのかもな」



そう応えた口調が何となく淋しげだった理由が、あの時の私にはわからなかった。



「いいんじゃん?」



周囲に溶け込んでいるようで、実はまったく違うものを見ている。初めて言葉を交わしたあの夏の終わりの日、顔を腫らした私を映したその目を見た時に、そう思った。それまではほとんど接点のなかったクラスメイトの、その冷めた目と、周りから少し離れた立ち位置は、必要以上に関わろうとしない予防線なんだろうと、勝手に思っていた。



背中の秘密を見せて、そのあと隣同士の席になって、暇さえあれば喋るようになって、そうじゃないってわかった。いつも保っている距離感は、周りを広くを見渡すための戦略で、本当は好奇心と想像力に満ちていて、詮索や干渉が野暮だと思い込んでいる。そして、無意識にその本性を隠そうとしている。



「ハジメは、ハジメが思ってるより変わってないよ」

「悪かったな、凡人で」

「ほら、そういうところ」



焼酎を一気に飲み干したハジメの睨むような目を、正面から見据えた。



「本当はちゃんとわかってるのに、わざと思ってることと違うこと言うの。昔っからそう」



この目も、変わらないまま。



図星を指されると泳ぐように逸らして、そのあとほっとしたように一回だけ瞬きをする。



「おまえ、本当ムカつくわ」



いつもスカしている仮面を暴くこの瞬間が堪らない なんて言ったら、少しは開き直ってくれるだろうか。



「おまえこそ、変わんないよな。全然」



何杯目かわからない焼酎をちびちび飲みながら、ハジメは呟く。



「系統変わったと思うけどな」



見てくれを気にしていた高校時代に比べて、自分のファッションには頓着しなくなっていた。粋がって金色にしていた髪は黒に戻したし、耳のピアス穴はほとんど塞がっていた。



「外見じゃなくて、中身」

「中身って、なんかやらしい」

「やらしくねえよ」

「あんたが言うと、そう聞こえんの」

「そういうところも、あの頃のまんまだ」



普段よりも一段とゆっくり話すのは、アルコールのせいだと思っていた。



「いつから、こんなになったんだろ」



口元で傾けたグラスの中は、流れていなかった。



「昔に戻りたいとは思わない。と言うか無理なのがわかってるから、押し殺してるだけなんだけど」

「押し殺して、消えるもん?そういうのって」

「全然。すげえ疲れる」

「昔は、そんなことなかったんだ?」

「段々、言いたいことを言えなくなっていった」



おまえみたいになれればいいんだけどさ。



聞き間違いかと思った。尋ね返す間もなく、ハジメは続けた。



「正直じゃん、おまえ。その時思ってることとかを、ちゃんと口に出せてさ」



ハジメは多分、今も知らないままだと思う。



この時の、独り言みたいな呟きに、私がどれだけ楽になって、どれだけ泣きたくなったかなんて。



「最初会ったばっかの時は、自我が強くて、本当に何にも捕らわれない奴なんだって思ってた。こいつ、俺より男前だって、マジで思ってた」



媚びるような男じゃないことなんて、よく知っていた。それでも、その悔しそうな苦笑いが、お世辞でも誇張でもないことを語ってくれていた。



「結局は思い込みだったけどな。自由人と見せかけて、意外にいろんなもん抱え込んでた。昔のこととか、ユリコさんのこととか」



私がそう呼んでいるからか、十五になったばかりの娘を置いて出て行った奔放な母親のことを、ハジメも名前で呼んでいた。夜の仕事をしていたユリコのせいで、小、中学校時代は友達と呼べる相手もいなかったという話も、ハジメにはしてあった。自分では、抱え込んでるつもりもなければ、辛いと思ったこともなかった。ハジメも、話した時はふうん なんて言って、同情も興味もなさそうな素振りだった。



「おまえはもう開き直って平気になったんだろうけどさ、そういうの乗り越えて、それでもひねくれないで思うままでいるって、すげえと思うよ、俺は」



バレていた。



こいつは、知ってたんだ。



私がどうしようもなく脆くて、それでも気張って立って、そうしているうちに、今の私になったことを。



そんな風に思い知らされたら、泣くしかなかった。



「泣けば」



わざと正面を向いて顔を逸らしたそいつに、熱くなった瞼をこすって、べーっと舌を出してやった。



「やだ。人前では絶対泣かない」

「可愛くねえな」

「結構」



飲みかけの焼酎のグラスを奪って、一気に飲んでやった。喉の奥が焼けるように熱いそれのおかげで、湿っぽくなった胸の内が乾いた気がした。



「あんたも、開き直ればいいのに」

「俺?」

「さっきも言ったけど、ハジメ、自分が思ってるより昔のまんまだよ。仕草とか、喋り方とか考え方とか、全然変わってない」

「そうかねえ」

「ほら、それも。そうやって困った時、頭ガシガシ掻くの。それで、何か指摘されると、一回だけ大きく瞬きする」

「よく見てんな」



取り繕ってる訳でもないし、飾って演じてる訳でもない。マイペースで、どこか浮世離れしたこの振る舞いは、小っちゃいときからそうだったんだろうな と想像できた。だけど、その奥の奥には、穏やかでどこか冷めた表面とは真逆の、鋭くて、熱い何かが隠れている。正反対な一面を持ち合わせているくせに、自分では全然わかっていないのも、こいつらしいな と思ったりもする。



「言いたいこと我慢して、見栄なんか張らなくても、あんたは十分いい奴だよ」

「いい奴、ねえ」

「それで離れてい行く奴は、その程度の人間ってこと。そんなのよりも、ちゃんと自分を見てくれる人を大事にしたいじゃん」

「おまえとか?」

「わかってらっしゃる」



気分がよくなって、いつもはきっちり自分たちが頼んだ分だけ払うお勘定を、一杯分だけ私持ちにしておいたことは、いつかの貸しにするためにまだ言っていない。



そして、流れで余計なことを言ってしまったのも、気分のせいだった。



「彼女も、そうなんじゃないの?」

ぎょっとしたように目を見開いた顔は、携帯で撮りたくなるほど驚きに満ちていた。



「隠すつもりなら、日焼けの跡くらい消しておいで」



固まっている左手首を掴んで、目の高さにかざした。薬指に残った白い跡が、バーカウンターのライトに浮かんだ。



「怖え」

「ていうかなんでわざわざはずしたりすんの?可哀相じゃん」

「おまえに会うときは、必要ないかと思ってさ」

「うわあ、嫌味」

「もともとそういうもんだろ?自分には決まった相手がいるっていう証というか、見せつけ」

「ロマンがないな。お揃いの何かを身につけるっていうだけで、嬉しいんだよ」



調子に乗っていた。



少しだけ、嫉妬も入っていた。



ハジメには大切な人が、お揃いの指輪をはめる相手がいるのに、私にはいない という嫉妬が。



だから、ハジメがいつもと違う笑い方をしたのを、気づいていたのに、見なかったふりをしてしまった。



「じゃ、大事にしないとな」



ポケットから取り出した指輪をはめて笑った横顔を見て、また気分がよくなっていた。だから、見抜けなかった。



「おまえはいないの?男」

「いない。いないかな、どっかに」

「前歯折るような女でもいいような奴も、どっかにいるだろ」

「あー、その話はやめて。黒歴史」



そこからは、いつもみたいなどうでもいいような話に戻った。結局そのバーが閉店したあとにまた別の居酒屋にハシゴして、始発が出るまで飲み明かした。





駅までの道の途中、ハジメは寄りたいところがある と公園ともいえないような小さい広場に私を連れてきた。春先の明け方はまだ寒くて、私はアルコールと眠気と、冷たい空気の狭間でほとんど夢の中にいる気分だった。



「この辺、ここにしか吸えるところなくてさ」



ポケットからケースを取り出し、一本唇に挟んでライターで灯す一連の仕草は、初めて見るものだった。



「煙草、吸うんだ」

「たまにね。彼女煙草嫌いだし」

「ふうん」

「こんだけ離れて、しかも外だったら煙大丈夫だろ」



一応気にしてくれてはいたらしく、ハジメは灰皿とは少し離れたベンチに私を座らせていた。



「昔は大っ嫌いだったけど、今は割と大丈夫。喫茶店でバイトしてるし」

「なんだよ。じゃあ店で吸えばよかった」

「遠慮してたんだ?」

「もうしない。副流煙で苦しめ」

「じゃあ、あたしも吸おうかな」



思いつきと、ほんの少しの興味と、あとはアルコールのせいだった。ハジメも、行け行け とか無責任なことを言って、自分の吸いかけを渡してきた。半分くらいになっていたそれを唇にはさんで、すうっ と一息に吸いこんだ。



「まっず」



かろうじて絞り出したあと、咳き込んだ。ハジメは、ゲラゲラ笑っていた。



「やめとけ。余計に男寄ってこなくなるぞ」

「そんなんで判断する男なんてやだよ」



パッケージを横目で見ると、メンソールだった。おかげで頭はすうっ と軽くなったけれど、思えば、このとき同時に薬にもならないこの有害物質に、完全にハマってしまった。一緒に煙草をふかしていると、自分と似ても似つかないこの男と、同じ呼吸をしているんだ と、なんとなく思えた。



ハジメとは、反対方向の電車だった。始発が来るまでの間、向かい合わせのホームの正面に立っていたハジメと、声を出さないまま身振り手振りでゲームみたいにして喋った。酔っ払いが とでも言いたげに周りが冷めた目で無視する振りをしていた中、私たちはバカをやって大笑いしていた。



ハジメが何を言っていたのか、何を伝えようとしてたのかは、今でもわからない。私がハジメに言いたかったことは、一つだけだった。





その言葉は、今もまだ、言えないままでいる。





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